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2002年10月15日(火) 17805



 インドネシアのバリで大きなテロと見られる爆破事件が起こった。
インドネシアの独立記念碑には、17805という数字が刻み込まれている。
これは日本の暦である。皇紀2605年8月17日という意味で西暦では書かれていない。なぜか?
 何百年にも渡ってオランダの植民地支配の結果、絶対に有色人種は白人に勝てないと思いこんでいた。その時に、同じ色した日本軍がやってきて、たった8日ほどでオランダを追い出し、さらに負け戦となった大東亜戦争の少なくない日本兵士達が帰還せず、現地に残り、インドネシア独立のために共に戦った。だから、独立記念碑に敬意を表し、西暦では無しに、日本暦すなわち皇紀表記としたのだ。

 当時の捕虜オランダ人は今も怒っている。自分たちオランダ人が350年間にわたって享受してきた“優雅”な植民地支配を、突然“醜い劣等人種”によって打ち砕かれたことへの屈辱感からだ。
この“白人の楽園”喪失の怨みからくる彼らの歪んだ心理を「蘭領東インド抑留所シンドロームという。

 そこでバリへ遊びに行くなーんにも知らない人々。せめてその国と日本のかかわりなどを勉強して行ってくれ。上に書いたような事を基礎知識として行くと、オーストラリア他から遊びに来ているノーテンキ達とはひと味違う国から来たのだという自負が生まれるだろう。
 テレビのインタビューでも何にも応えられない。問題意識や、国家意識が希薄である。自分の身の丈の範囲でいいから、その国の成り立ちくらい知ってくれ。
 かって、日本は、白人の楽園を取り戻すために共に戦った。そうして事はなった。が、白人達は楽園だったことをまだ覚えていて、半世紀が過ぎようとした近年、また白人の楽園(文化的側面で)に、意識的か無意識的か、しようとしているように見える。だからテロはそこを狙ったのだろう。
 こういう時に、毅然たる態度で、意識の表明を出来る手立ては、やっぱり、歴史を知ることなのだ。

 1995年、インドネシアのマスコミは、オランダ女王を迎えるにあたって、次のような意見を載せた。

「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」

 こういう国に私達は遊びに行っているということを覚えて置いてもいいだろう。










2002年10月14日(月) 訂正



下の「阿波藩にいたペテン師」を読み返していてまた、間違いをしていることに気がつきました。文中「貝原益軒なども、その名とは裏腹に空虚な存在である」はまちがいです。ごめんなさい。
正しくは貝原益軒ではなく、安藤昌益が正しい。名前の思い違いは前にも書いた通りですが、この場合、共通項は「益」しかない。我ながら頭の構造を疑う。貝原益軒先生は「養生訓」や「大和本草」を著して、多くの人々に読まれました、貝原先生まちがってごめんなさい。

 一方安藤昌益はカナダ人、E・Hノーマンという共産主義者がその考え方を持ち上げ、その著書に書いた。それで日本の左翼の方々の間で英雄になった。
 「万人が耕す世」というのが安藤の言い分で、農本主義(農業をもって立国の基本とし、社会組織の基礎とすると言う考え)の極端なもので、ちょっと考えれば、みんな百姓だったら、誰が、着物や、家を建てるのか分かりそうなものなのに、それを無視して、日教組などの人達が教科書に載せた。
という事があって、そう言う事で、ついでに書いたつもりがまーた!名前を思い違いしてしまい、書いてしまった、訂正しておきます。


  ****

 今日は体育の日。祝日に掲げる我が家の玄関の国旗は、北朝鮮問題が解決するまで、当分の間、半旗を掲げることにした。









2002年10月13日(日) 阿波藩にいたペテン師



 展覧会を終えて、来ていただいた方々に記帳してもらった芳名録をぱらぱらと見ていて、ふと蜂須賀という苗字が目にとまった。蜂須賀といえば阿波徳島の殿様である。展覧会を見に来られた方がその子孫であるかどうかはわからない。その名前の連想から、しばらく忘れていた人物の名前を思いだした。ほとんどの中学歴史教科書にも名が出ている。

 残念ながら今年初めて愛媛の公立中学に採用された新しい歴史教科書をつくる会の、扶桑社の教科書にも載っている。

佐藤信淵(さとう・のぶひろ1769−1850・明和6年−嘉永3年 )という人物がいた。

 出羽国雄勝郡馬音内に生まれ、家は代々鉱山農業の学問を研究。一六歳のとき父に死別して江戸に出、蘭学、儒学、天文地理暦算測量を学ぶ。諸方を遍歴して見聞を広め、諸藩に出入りして説を講じる。上総大豆谷に閑居して著述をしていたが、再び江戸に出て幕府の神道方吉川源十郎に入門し、さらに平田篤胤に就いて学ぶ。国学の古道説に西洋天文学を交えた宇宙論を哲学的基礎として、農政経済論を説き、空想的な社会改革論を展開した。
                  『日本政治思想史講義録』

 その佐藤信淵、十三歳で蝦夷地探検!?、十八歳で津山藩に招かれ財政改革!!を成功させ、後に阿波藩蜂須賀家に赴き、徳島滞在の一年とちょっ との間に、火術(砲術)を研究し、数十の大砲を作り、自走火船(エンジン付きの船)を発明し、異様船(一種の潜水艦)も 発明したという。その他実行不可能、夢物語が履歴に五万と書かれているのだ。
 さらに、「三銃用法論(さんじゅうようほうろん)」や「西洋列国史略」を著述し、当時阿波藩の家老、集堂氏に請われて 淡路の産業視察までしたのだという。
まるで日本のレオナルド・ダヴィンチだ。だが、ダヴィンチと佐藤信淵とは、天才と詐欺師ほどの違いがあった。ダヴィンチは総じて天才と言われているが、中途半端にやり残した仕事も多い。が、紛れもなく実績が後世に伝えられ残されている。
 ところが佐藤信淵は、その全てがペテンで、大嘘であった。本人は、先祖の学問の集大成をし、著したとしているが、すべて自作自演であった。
 
 この人物を、進歩的文化人の羽仁五郎が「佐藤信淵に関する基礎的研究」で、かつぎあげて、これがきっかけで ペテン師が大思想家になってしまったのだ。
とにかく自称天才といってはばからない のに、当時の蜂須賀家の公文書など、あらゆる記録にこの人 物が載っていない事を証明したのが、「森銑三(せんぞう)」 だった。

ここまで明確に分かっているにも関わらず、教科書に載ってしまうのである。貝原益軒(は、まちがい。安藤昌益に訂正10/14)なども、その名とは裏腹に空虚な存在である。

  羽仁五郎 明治34年生まれ 東大法学部中退
  日本におけるマルクス主義歴史学の確立(講座派)
  近代革命における百姓一揆、農民戦争、農奴解放の意義の発見(人民史観)昭和58年没

  森銑三  明治28年生れ。
大正15年、文部省圖書館講習所卒業。
東京大學史料編纂所、尾張徳川家蓬左文庫、反町弘文莊に勤務。昭和60年沒。



参考文献:「こんな「歴史」に誰がした」谷沢永一・渡部昇一
      森銑三著作集









2002年10月10日(木) 個展終了



 徳島そごうでの個展は無事終了した。今回の個展は出身地の事もあり、友人達の暖かい心遣いが嬉しかった。皆それぞれに地場で着実に、俗に言う出世していた。会場にでんと贈ってくれた特大の花束、これなくしては、今回の会場入り口の華やぎはありえなかった。また、高校時代の有志が催してくれた宴は、数十年を経てもなを、昨日別れたばかりのような感覚で、とても近しく、嬉しいものであった。人のためにこれほどのことが出来る友人達というのは、何ものにも代え難い有り難い存在である。

 後で知ったが、目が飛び出るような高価な花、それもあちこちかけまわって、個性のあるものを探してくれ、贈ってくれた友人達とその家族。超有名人でも何でもない一絵描きにこれ以上の事があろうか。

 論語に、益者三友(えきしゃさんゆう)というのがある。意味は、人には交際して益になる三種類の友人があり、それは、正直な友、誠実な友、見聞の広い友の三種だという、また逆に、損者三友(そんしゃさんゆう)というのもあり、
交際すると損になる三種類の友人を言い、不正直な友、不誠実な友、口先だけうまい友の三種を言う。

いずれにしても、今回の展覧会に尽力してくれた友達には、益者三友でなければいけないと心から思った。

  皆さんありがとう。

個展会場がどんなだったか、見たい方は以下、初日朝だったので、花などの置き方にまだ不具合があり、完全ではありませんが、ご勘弁。

  会場風景









2002年09月27日(金) 困った人達



 来週から、徳島のそごう百貨店で個展がある。小学校時代の友人や、高校の同窓生、後輩の一家などが自分のページや、他の友人に案内状などを配ってくれたり、ネット上を走り回って他の人達に知らせてくれている。
だが、その小学校時分からの友人の面子を潰すような事があった。

 先頃から、ネット上で知り合いになった尊敬すべき人達が、相次いで誹謗中傷されて、人ごとながら心を痛めていた。若き武道家N さんは、極真会館支部の師範代まで勤め、今は司法試験目指して頑張っている、現代の快男児である。
 京都の同流派に通っていた事もあり、メールで、すぐ意志疎通が出来た。年は若いけれども人生経験は、同年の人達の二倍は生きていると感じられる。武勇伝や、極真会館の総帥であった大山倍達がついに勝てなかった?おばあちゃん、内弟子の経験を持つ父上を持つ言ってみればサラブレッドの家系である。
それがあらぬ事や、揚げ足取りをされて、嘘つき呼ばわりされている。全体の文章や生き方などを読みとればそれが嘘かどうかなんて、同じ武道をやっていたものにはすぐわかる。事実は小説より奇なりと言う言葉はこの人のためにある。頭が切れてユーモアがあり、これ以上理想的な人はいないと思う。

 N さんのページは武道のページということもあって十万ヒットは軽くしているらしい。これをやっかむ人々がいる。信じられないが、あることないこと書かれているらしい。ほとんどが何らかの屈折した嫉妬の裏返しである。少しかいま見たがやめてしまった。また、ねぎらいのメールも書かなかった。
Nさんはきっと自分で解決できるという思いがあった。
 
 知らない掲示板にも参加せず、自身のページにも掲示板を置いていないので、こういった事を対岸の火事だと思っていたら思わぬ所から、少し気分の悪い話があった。

 当人は生まれ故郷で展覧会をやることは、まだ十年早いと思っていたが、画商さんの薦めもあって、開くことになった。錦を飾るという思いは全くない。だけど、小学校の頃の友人や、高校の頃の友人山岳クラブの後輩の一家などが、とても気を使ってくれている。ところが、こういう目出度いときに水をさす輩がいて、当人のあずかり知らぬ所で、これもネット上で一般にではないが、中学生の頃の言動?を流されてしまった。こと人格にかかわることである。
流した当人はわからない。が、展覧会の案内をよかれと思っていろいろな人に出してくれていた、友人にその事を言ったようなのだ。その友人の立場はどうなる。友人の面子を潰したことにならないか?

 こういう輩が嫌いである。こういう人は片手に権利を主張しながら、こっちで、かって間違いから人をあやめたが、今幸せにしている人を指して、「あの人昔犯罪者だったんだよ、だから僕は遠ざけているんだ」と人に言って何とも思わない人だろう。(当人は犯罪歴ありませんが、過剰防衛で一回京都の警察署に連れて行かれて、裁かれた経験が過去にあります(^_^))
 友人とは、時に苦いことも本人に言ってくれる人の事だと思う。小さい頃から秀才で級長を務めていた友人(今回の展覧会を多方面に知らせてくれた)は、さっぱりとした様子でその事を教えてくれた。
 中学の頃の事を何十年もたって言われる程の事をした覚えもない。恨みを買う覚えもない。
なのに、みんなが目出度がってくれている時に、こういう事を言う人が、余程信じられない人間だと思うのである。それは、ホームレスであろうが指導者であろうが同じである。
自分なら黙して語らない。
 









2002年09月19日(木) 何をするつもりか!



 例えば、自分の身内が行方不明になって、それがどうも宗教団体に無理矢理入れられて出てこられないと言うことが警察の力でわかった。そして長年の努力で、ついにその教主に、白状させて、その団体に居たことを認めさせ、そしてすでに修行中に死んだと知らされた。
そうしたら、よく言ってくれたと、あなたは顔をひきつらせながら、仲良くしようとその団体に、一兆円を寄付する事にした…。

今日本がやろうとしている事だ。もう何度も個人的に外務省に抗議した。

これを読んで下さっている方々も個人に於いて外務省に異議ある場合は抗議のメールをおくってはどうか?

以前送った抗議メールを載せておきます。
  
             ******

前略

京都の*実名(逃げも隠れもせんぞ!)*と申します。外務省内、日中友好会副会長野田英二郎、小原雅博が、まったく先入観なしで行わなければならない教科書検定に、特定の一社だけを中国のいいなりのままに不合格にするよう各方面に画策したというのは本当でしょうか?

まったく信じられない売国行為といえませんか? その後の情報では、教科書審議参加は自粛するらしいことが解りましたが、これだって産経新聞がすっぱ抜かなかったら、中国の思うままのいままでの自虐教科書が採用されたと思うと、ぞっとします。

私は右翼でもなんでもありませんが、近ごろの外務省河野外相の態度というものはもはや漢女干(かんよう)です。
上の二人は中国の工作員といっていいでしょう。更迭を要求します。


とまぁこんな過激なものでも、一応は読み、返事はよこします。

              *******

  外務省  kokunaikoho@mofa.go.jp









2002年09月17日(火) 何と言うこと!!



 北朝鮮での拉致者は一年以上前に、たん譚はこうなると思っていたしどこかに書いた記憶がある。
あちらの立場にたてば、知らないと言ってきた以上、最後は全員死亡にして殺してしまえば一番楽だ。殺したか事故で死んだかは問題ではない。
死んでいることによって、これからの交渉は楽になる、そうすることで、もうこれ以上追求されることはないからだ。横田めぐみさんや、李恩恵が日本に帰ってきて、あったこと全て喋られると世界的に人権問題などで大事になる。これは端からいないことにし、殺してしまえと普通独裁者なら考える。そうして全員ではないが大体そのようになってしまった…。

 北朝鮮が無くなれば、ほうって置いても家族は帰ってくると、醒めたこという学者評論家がいるが、それならば、いずれ太陽は膨らみ爆発するのだから、何をしてもしょうがいないと言うことに似て、あほ評論家の言い分で、そんな奴は本でも書いてればいい。
 
 本当に残念だ。
北朝鮮関連の本はあらゆるものを読んできた。よく分かっているつもりだ。やっぱり…というのが正直な感想で、本当に残念だ。こんな国との国交正常化をして何をするのだ、その前に遺体を返せ。!!

 こういう国家になぜすり寄って、しなくても言い、全く根拠のない「謝罪」をしなければならないか? 小泉首相、それから声高にTBSの昼の番組で「一体日本は北朝鮮になにをしてきたか!!」と言っていた、同い年の井筒監督、はもう一度、日本統治時代からの勉強をする事を望む。あやまる事実も、謝罪などする必要もないことは、キムワンソプという朝鮮人自身が第三者的立場で述べている。
 井筒は環境から一方的に在日の言うことを信用して来たろうが、ヨーク考えてみてくれ、それほど虐げられたはずの朝鮮人が日本のパチンコ業界を牛耳り、繁栄している事実はどう説明するのか?これはキムワンソプがいっていることだ。
それと植民地植民地というな!植民している筈の日本に何十万単位で日本にすみたがって、もうこれ以上受け入れられないと、朝鮮に帰国してもらっていたりする事実を、当時の朝日新聞も伝えている。どこかイギリスでもフランスでも当時植民地の人々が、なだれを打って植民している国に住みに行くなんて言うことがあったと思うか?皆無である。今いる在日はほとんどが自分で望んできて、自分で望んで住んでいる。そう言う中で、どこの国でも差別は存在する。それを強制連行や、併合のせいにしてはいけない。これもキムワンソプが書いている。真にその通りである。
 
 植民地ではなく、何箇条かからなる条文の下で取り交わされた、りっぱな吸収合併なのだ。そんな歴史的なことを知らず、いたすらに植民地と言う言葉を使うな!

 

本当にこの国(北朝鮮)は悪の枢軸と言っていいだろう。今回は激情のまますぐ書いた。


【警察庁認定の8件11人】

 生存者 地村保志、浜本富貴恵、蓮池薫、奥土祐木子

 死亡者 横田めぐみ、田口八重子(北朝鮮での呼び名は李恩恵)、市川修一、増元るみ子、原敕晁、有本恵子

 安否不明者 久米裕

 【その他】

 死亡者 石岡亨=札幌市出身、松木薫=熊本市出身











2002年09月15日(日) 言い訳



 本日当頁更新日ですが、出来てません。ごめんなさい。十月一日から徳島そごう百貨店での展覧会に向けてまだ二点未完成で現在制作中です。
と言うことで、更新延期します。展覧会が終わり次第更新にかかりますのでよろしくお願いします。

リンクも戸塚ヨットスクールを奉仕で支援している方の頁、まさに現代の快男児、元極真会館師範代の頁、BTORON OSだけでホームページを作っている方の頁、政治家平沢勝栄の頁など一言付きで紹介する予定。
 ただ、たん譚は簡単にどこからでも書き込めるので、思いついた時書き込みますので、見てください。

 今年は夏休み無しだったので、晩秋の頃に、マルセル・パニョルの映画「泉のマノン(原題、「フロレット家のジャン」)」や、自伝的映画「マルセルの夏(原題、「父の栄光」)」、「マルセルのお城」の舞台になった、マルセイユの北にあるエトワール山付近でジットしてこようかなと思っています。


 最近、ネット上で尊敬すべき方達が相次いで、誹謗中傷されて、片や掲示板閉鎖(掲示板はどこのもほとんど見ないし参加しない、顔の見えない知らない人と会話するのは苦手)、片や楽しみにしていた、メールマガジン配信停止になって残念に思っている。先日見た狂言の、「月見座頭」の曲と重なって見えてしまう。人は相手に絶対的にわからないとなると何をするかわからない。
だが、絶対しない人もいる、人間としての己がプライド高き人はしないだろう。









2002年09月14日(土) 馬鹿も休み休み言え!



 日本で二番目の標高を持つ北岳(3192m)のある山梨県芦安村を含む六町村が合併して新市名を「南アルプス市」に決定したそうだ。
例えばルツェルン湖が、スイス琵琶湖とスイスで呼ばれているとして、各町村が合併のおり、南琵琶湖市と名称を付ける発想が、議会で出てくるだろうか?
あくまでそれは俗称で、一種のコンプレックスをともなったものだ。
「なにそれのハワイ、…のラスベガス」昔々、ウエルターウェストンが日本の信州に来て、その言う日本のアルプスだと言ったとか言わなかったとか。ただそれだけである。そんなに外国の地名がつけたいか!
 酒を始め嗜好品ならまだいいだろう。
これを書いていて思いだしたことがある。昔サントリーは、甘い模造ワインを「赤玉ポートワイン」として売り出した。日本のポート(ポルト:ポルトガルで産するワイン)というわけだ。軽い気持ちで付けたのだろうが、当のポルトガルから訴えられ恥をかいて、そっと銘称を「赤玉スイートワイン」と変えた。
 
 アルプスは固有の地域名である。それにアルプ(牧草の事)は、日本の南アルプスにも中央・北アルプスにも存在しない。日本の山が似ているとしたら、牧草地の上の急峻な岩峰群が似ていると言えば似ている。

 もういい加減にカタカナ横文字はやめにしよう。意味がまず分からない。じゃ横文字で書くか?もうそうなると日本ではない。スイスの国内地図に、地名を日本の漢字や平仮名で表記してあったら、どうかしていると思わない方がおかしい。

来年から正式になるらしい「南アルプス市」。スイスから訴えられない事を願うばかり。ああ恥ずかしい。

ちなみにルツェルン湖. は、正式名をVierwaldstattersee 「4つの森の国の湖( フィーアヴァルトシュッテルゼー)という。なんていい名なのだろう、こういうのを見習え!









2002年09月12日(木) たん譚観劇!



 長い間?前売り、売り切れで狂言を観劇することが出来ないでいた。ようやく切符が取れ、今日実に久しぶりに行くことが出来た。某大学の先生で茂山忠三郎の弟子?でもある、米国人の知人Jなどは、いつ行っても見に来ている。
別に、もぎりをして手伝っているわけでもないのに、いい席に座っている。かたやチケットも手に入らない日本人がいる。
 本日の曲の一つは一休さんの話しでも有名なもので、主(あるじ)に、これから留守をするので、これの見張りをしておけ、大変な毒物(附子)で、空気感染さえもありうると脅かされたそれが、実は水飴で当時貴重品、しかし太郎冠者と次郎冠者はウソだと見抜き、さんざ賞味した後、主の軸、焼き物をこわし、責任をとって、それを食べて自害しようとしたと、主にいいわけする話。
 狂言の題は「附子(ぶす)」という。附子はトリカブトの根を精製して作る毒物で、前説では、当時局部麻酔として使っており、顔などに塗ると、その部分がよじれて見にくい様相を呈するところから、現代の不美人を言うようになったといっていたが、樋口清之さんが書いているところによれば、その毒物を飲んで、あえぎ苦しむ顔の形相が真に醜い、そこからきているとも、読んだことがある。

 古典とは同じものを繰り返し見ても飽きないものをいう、筋はすでにわかっている、みんな知っている、それをともに見て、また笑う。これが文化である。わずか二百年ちょっとしか歴史のないアメリカでも、映画ですでにそれがはじまっている。タイタニック他などはそれである。
話を狂言に戻す。

 今回はっとしたことがあった。茂山千作の「鵜飼」という小舞が終わり、次の出し物「月見座頭(つきみざとう)」を見て感じたことである。この曲は、今は絶えた鷺流(さぎりゅう。他に和泉流・大蔵流がある)
で演じられていたようだ。題名からして今の人権派の人々から糾弾されそうな題名(なぜというに、めくらにも位があり、上から検校-けんぎょう-別当-べっとう-勾当-こうとう-座頭-ざとう-)である。琴の宮城検校、勝新演ずるところの座頭市の名にも見えるように。
 今回これを見ていて、もし鷺流がこのような曲目ばかり演じていたとしたら、絶えてしまったのもしようがないかなと思ったのだった。決して専門家でもない淡譚の感ずるままのことだけれど、この曲には笑いがほとんどと言ってない。

 話は、目あきが月や自然を吟じたり唄ったりする、座頭はそんなことはついに出来ない、せめて鴨川のほとりに出て、虫の音でも鑑賞しようと河原で聞き入る、そこに目あきが来て、目くらが風流をすると感じいって、最初は互いに句などを披露するも、当時著名な俳人(この狂言、月見座頭は江戸時代の後期の作と言われている)のまぜこぜだったりする、ここが唯一笑える場所だが、後は、その河原の席で酒を酌み交わし和やかに歓談の後別れるも、目あきが座頭に意地悪することを思いつく。わざとぶつかって難癖つける、ところが座頭はわざとだと言うことを「目あきが、めくらにぶつかろうことがあるわけない」と喝破する。
そしてかわらでくっさめを一度して、しずしずと帰っていく。
 これは、目あきが、まったく相手にわからないという前提でする、悪魔のささやき的な行為だ。言い換えてみれば透明人間になって何でも出来るという事とおなじである。その時人はどういった行為にでるのか?そういう事を見ている側に突きつけてくる。が、しかしこれはもう狂言ではないと思うのだ。狂言では、人の刃傷沙汰はなく、人の死ぬ場面はない。皆無である。狂言は本来、弱い者が、強いものを笑うものである。
 
 この曲に関して、多くの観客の拍手のとまどいがあったように思えた。例えば吉本新喜劇の中で、葬式の設定で悲しみのまま、終わってしまうような光景を思えばいいだろう。
見ている観客はとまどう、何か落ちはないのか?というわけである。それがくしゃみを一つしてめくらは目あきにしてやられて去っていくのである。
 猿楽から能狂言が分かれ、洗練された笑いが狂言として残った。この曲はどちらかというと世阿弥を感じるのだ。能楽に見られる暗さ(悪いという意味ではなしに哲学的)を。
そう言う意味でこんな作風ばかりを鷺流が演じてきたとしたら、鷺流が絶えたのも無理がないと今回素人目に思ったのだった。










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