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2004年04月03日(土) 超(鳥)人



 子供の頃から超人に憧れていた。とはいっても、テレビや映画に出てくる安っぽいヒーロー(昔エイトマン月光仮面、今仮面ライダースバイダーマンなど)なんて一切興味も無かったし、ましてやなりたいなどとは思いもしなかった。

 以前、フルコンタクト(実際に打ち、蹴る)系空手の有名な選手が、この手のヒーローに憧れて今日があると言うような事を行っていた。
ちょっと信じられなかった。現実と架空・絵空事の区別がつかないのだろうか。こういう人がやがて道場を開いたとして、門下に集まってくる人たちは何のもとに集まってくるのだろうか。師範の頭がマンガなのにである。

ここで門下生達は何を学ぶのだろう。多分、対敵に対しての強さだけを学びにくる。だから当然のように、体は大きい方が良く、筋肉を膨らませる方へ向かう。大きくて筋骨隆々は小さくて普通の人を教えられない。が、20年経っても象には勝てない。

 それはさておき、小さい頃から憧れた人たちは、上の種類のヒーロー達では無かった。全部実際にこの世に生きた人たちであった。その一人、小学生の頃、*零戦乗りの坂井三郎を知って、子供雑誌や「丸」という雑誌でよく読んだが、もう頭の片隅に残っているだけだった。
映画、ラストサムライをきっかけに、「武士道」をもう一度調べて行く内に偶然坂井三郎が「葉隠」で知られている佐賀県(佐賀藩 鍋島 直茂公)の出身であった事から、著作をまとめて読んでみた。

 戦後、坂井三郎の本は「SAMURAI」の題名で、米国・カナダ・フィリピン・フランス・フィンランド他で、訳され出版されベストセラーになっている。
零戦(れいせんと読むのが正しい)の圧倒的な強さに興味をひかれた事もさることながら、小学生の時になんでそれほど興味を持ったか再度読んで解った。
多分、著者の超人性に憧れたのだろう。読み返すまでまったく忘れていた数々の信じられない逸話があった。

 空中戦に圧勝するためには、先手を取る事、先手とは索敵(さくてき)をいち早く行うと言う事につきる。そのためには目が良くないといけない。
雲一つない空、 何万メートル先の、針の穴に等しい敵機を見つけるためだ。
発見される前に発見する。
誰にでも目が良い事が前提だとは理解できる。目の性能は多く先天的なもので、普通、維持は出来ても今以上にはならない。ところが坂井三郎はそうは考へない。
なんと目を鍛えはじめる。まず目に良いと、機会あらば緑の木々を凝視し、夜更かし、深酒を避けた。電車内から瞬時に看板を読み取る、群れ飛ぶ鳥をすばやく数える。ここまではなーんだで済ませられるが、ここからが常人離れしてくる。
坂井三郎は、目が良ければ、昼間でも星が見えるはずだ ?!と考へ訓練をはじめるのである。

 まず簡単な星図の知識を得て、昼間、天頂(頭の真上)に来る星の中でどの星が一番明るいかを調べ、夕暮れ時には、いち早く一番星を見つける、明け方には最後まで消え残る星を探した。
 
 真昼に飛行場の芝生に寝転がり、ひたすら天を凝視し続ける。そうしてついに星を見つける。回を重ねる毎に、発見は早くなりそのうち立ったままでも見られるようになったと言う。空が澄み切った日には、見つけた星の回りに無数の星が見えた時もあったと言う。(8000m級の山では、昼間星が見える)
視力はこの時2.5になっていた。

 反射神経の鍛錬も驚くべきものがある。止まっているトンボ、飛んでいるトンボを素手でつかむ練習をしてついに出来るようになる。これだけで終わらない。剣豪宮本武蔵がやったと言われる、飛んでるハエを箸で掴むという逸話を地で行く。初めとまっているハエをつかむ練習からはじめ、ついには、飛んでいるハエの軌道予測をし、そこを掴む事でつかめるようになったと言う。
 
 まだある、持久力を養うために、水泳をやり潜水をやった。100m!を潜って泳げるようになった。息を止めて2分30秒の記録を持っていると言う。
 飛行機乗りは、急激な荷重を受けるため、内臓が垂下してくる。それを防ぐために逆立ちをする。その逆立ちは、普通は4.5分が限度だが、15分以上できた。
 また、大型テントの鉄のポール(手では握り込めない位の)の上によじ登り、腕力だけで30分いて訓練生達を驚かせた。などなど…。
 
 坂井三郎は生まれつきの天才ではなかった。学業に失敗して、田舎に帰って、畑仕事の時に、空を舞う飛行機を見て飛行機乗りになろうと海軍に志願する。
 飛行訓練でも、最初はそう優秀な成績ではなかった。
目的に向かってすべての事を、それに関連づけて訓練した。それがおのずと「道」を作って行ったのだろう。 
 ラバウル空戦での圧倒的な強さ(200回以上の空戦で64機撃墜)は、「道」に裏づけされているといっても良い。
 
 最近、現在、米国に残る最後の一機、零戦21型(坂井三郎が主に乗っていた)が実際に空を飛んでいる所を収めた、米国製のDVDを手に入れた。このDVDは、最初にFBIの警告がある貴重なものだ。
 独特のエンジン音を持つ、栄十二型エンジンも心地いいが、何よりも驚いたのが、飛んでいる時の羽のような軽快さである。例えて言うとUFOみたいだと言えば良いのか、重力にひっばられている感じがしない。本当に軽い。これに鍛え抜いた坂井三郎が乗っていたのなら、敵機15.6機に追い回され撃たれても、ラダーフットペダルを左、と同時に操縦桿を右に、といった激しい動作で巧みによけて無傷で帰還したというのもうなづける。とにかくふわふわ浮いている感じがある。
 昭和17.8年当時、830リットル(増槽含)で台湾の台南からフィリピンのルソン島まで480海里(1海里約850m)往復出来た。
 戦後9年を経ても、マッカーサーは航空母艦を使ったのだと信じていた。そのくらい信じがたい無給油での飛行距離で、現在でも坂井三郎がだした記録は抜かれていないはずである。現在の新鋭機と言えども、バケツ単位で湯水の如く燃料を消費する。

 日本人は、何かを追求する所に、自ずと「道」をつくってしまうのかもしれない。
 
 *零式艦上戦闘機二十一型(れいしき・かんじょうせんとうき・にいち) 
総数一万四百二十五機作られた。終戦までに十四回の改良がなされたが、二十一型がパイロットにもっとも信頼された。
どれだけ強かったかと言うと、どこの国でも、敵前逃亡は軍法会議ものである。が、戦争初期、米国では、零戦にもし遭遇したら、ただちに逃げ帰ってもよい事になっていた。そのくらい、他を圧倒していた。
空の要塞、死角ゼロと言われた、大型爆撃機B-17も落とされている。体格差はねずみと蟻くらいだろうか。
 これほど強かった零戦も、格闘戦でどうしても勝てない戦闘機があった。九六艦戦(九六式艦上戦闘機)である。この戦闘機は、零戦に全て(格闘戦)において勝ったが、航続力と貧弱な武装、固定脚などの問題で主戦闘機には採用されなかった。


*参考文献:
大空のサムライ(正・続) 光人社
坂井三郎空戦記録 講談社
ゼロ戦の栄光と悲劇 "
坂井三郎の零戦操縦 並木書房
大空の決戦 鱒書房
撃墜王との対話 坂井三郎・高城肇 著 光人社
昭和研究会 ある知識人集団の軌跡 TBSブリタニカ
零戦の運命 講談社
零戦の真実 "
DVD A6M5 ZERO -Navarre corp-



     









2004年03月24日(水) にわか映像作家



 この「日々たん譚」が滞っているのは、映像を切ったり張ったりして、作品化していくのが面白く、それに没頭しているためである。ビデオが発明される前は、個人が映像を撮ろうとした場合、8mmで撮るのが一般的で、その昔、某映像作家の家で゛世界の多くのマイナー映画を見せてもらっていた時に、その作家の部屋中にはり巡らされた洗濯綱には、8mmの長・短フィルムが所狭しとかけられているのが常だった。

 聞けばこれを編集し、繋あわせたり張り合わせたりして一本のフィルムにすると聞いて、なんとまぁ面倒な作業だろうと思った事がある。映像作家でなくてよかったとその時思った。ところが月日は流れ、ビデオが普及し、パーソナル・コンピュータが出来ると、映像処理が存外簡単になった。おまけに特定の処理をすると、インターネット上にも公開できる。
 誰が言ったのか忘れたが、インターネット普及で得る所あれども、同時にその弊害大なることに「バカが意見を言うようになった」と。
してみると、にわか映像作家のネット配信は、へっぽこにわか作家が発表するようになったことと置き換えられる。救いは、自分のコンピュータにデータはあり、自分からつながない限り見られないと言う事だろうか。少なくとも垂れ流しではない。
それにしても面白い。









2004年02月23日(月) サーバーを置く。



 ようやく、どうにかサーバーを自分のコンピュータ上において、ためしにライブ中継、自作filmのストリーミング実験をやってみた。ライブは画像の圧縮のせいか、画像が汚く見るに耐えないので当面あきらめた。映像のストリーミングは上々の出来。相手のコンピュータに負担をかけないのが良い。

 この映像習作は、まだ作品となっていず、一部の友人達にモニターになってもらって試しています。よってまだ未公開ですが、一般にADSL・光ファイバーが当たり前に普及したら見てもらおうと思っています。(普通の回線では、負担がかかり、イライラするため)

これからは、プロバイダのメモリの不足からくる追加料金などを気にしなくて良くなった。150GB、家にあり、一本の映像が25MBくらぃなのでまったく心配なし。

遅れていた、ホームページ近く更新します。









2004年02月17日(火) 再び日本はどこにも行かない



 新しい歴史教科書をつくる会の西尾幹二さんが、「日本の歴史」(講談社)全二十六巻の編者で著者でもある網野善彦を批判している。 西尾幹二のインターネット日録→「今月のi日録」をクリック「学者とイデオロギー(三)」

たん譚の友人も執筆している。これによると友人は「おとり」かも知れない。
いま繪の更新もままならないので、もうすでに過去のたん譚 2003年01月25日(土) 日本はどこにも行かない。 にまた違った方向から委曲をつくして書いているのであわせて読んで下さい。









2004年02月03日(火) 映画「タイムライン」に見える米国の言い分?



 またまた、でた、米国のプロパガンダ映画(と見える)。粗筋はニューメキシコに、不審な状態の人間が病院に担ぎ込まれ死んだ。それのレントゲン写真が臓器、血管、骨格など、あらゆる組織が断層のようにずれ、欠損していた。

 
 同じ頃、フランスの南西部ドルトーニュにある、修道院の発掘現場。14世紀の地層から、現代の製品としか思えない眼鏡のレンズ、そして“HelpMe”と書かれたメモが出土した。それは、発掘プロジェクトのスポンサーを訪ねるため現場を離れた後、行方不明になったジョンストン教授のものだった。
近くには、寄り添って横になり、王妃は王の手をしっかりにぎっているめづらしい石棺が発見された。

 プロジェクトのメンバーはスポンサーを訪ねる。そのスポンサーは物質転送の技術、(あのスタートレックに出てくる、人間を宇宙船から地上に転送するというあれ。)を荷物・物資をアメリカヨーロッパに運ぶ手段に研究していて、それが、偶然時代を超えて、それも毎回同じ時代、同じ場所(フランス、アキテーヌ地方)にいってしまう。
教授もどうやら行って帰って来れないらしい。そして、先のレンズなどを遺跡となるところに埋めて助けをこうたらしい…。
何度か行き来する内に、個人差はあるが、先に書いたようなずれが生じ、事故が起きるようだった。

映画の解説は一般の評論家にまかせて、ちがう見方を書いてみる。

 プロジェクトの連中がみんなで、量子テクノロジーによって開発したタイムマシンを使って、過去にとんでいく。行くところは固定されていて、1357年のフランスアキテーヌ地方(当時は英國領、現在のボルドー)。
そのジロンド河の支流ドルトーニュ。時代は英仏百年戦争”の真っ只中である。実際の歴史はポワティエの戦い(1356):英エドワード黒太子の活躍、14Cの両国混乱:仏ジャクリーの乱・英ワット=タイラーの乱などが起こって、この後、あのジャンヌダルクが登場して、はれて、英國を追い出して、現在のボルドーの辺りはフランスの物となる。

 さて、映画。この時、教授救出作戦に参加したプロジェクトのメンバーの中に、フランス語が出来る男がいる。彼等は転送されてすぐに、イギリス軍に捕まり、先のフランス語が出来る男がスパイと疑われ、みんなの目の前で、あっという間に刺し殺される。男の名前は「フランソワ」であった。

 いろいろどんぱちあって、助けに来たプロジェクトの一員の男は現代に帰らず残りフランスと共に戦う。やがてフランス側の王女と結婚し、それが後の現在に遺跡として、仲良く寄り添って手をにぎり合い眠る、石棺の当人達だとわかる。

映画制作時の世界情勢に重ねて解釈すると、アメリカとイギリスがイラクに共同戦線を張っているときに反対しやがって!と言う思いをこめてだろうか、フランス語が出来るフランソワが殺されることで警告がなされる。また、仲良く手を沿え寄り添った石棺の意味は、フランス(王女)はアメリカ(現代から来たアメリカ人、王)に寄り添わなければ、やっていけないよという、メッセージだととれた。
かどうか、現在フランスは協力表明している。

それにしても、最初にフランソワという名前の人物が、あっという間にイギリス人に刺し殺される場面にはびっくりした。名前がフランスそのものの「フランソワ」なんだから露骨すぎる。

 ところで、この手の映画や小説には必ず問題となる、タイムパラドクスは一応横に置いておくらしい。


ボルドー(Bordeaux)
ボール・ドゥ・オー、つまりBor-de-aux「水のほとり」という言葉がもとになって出来た地名。古くは、アキテーヌ(水の真ん中)と呼ばれていた。

ドルトーニュ
ワインの産地ボルドーを流れるジロンド河の南西の支流ドルトーニュ河辺。(ここの東岸沿いには、優れ たワイン産地であるサン・テミリオン地区(St-Emilion)やポムロル地区(Pomerol)、などがある)

タイムパラドクス
「時間を遡って結婚前の親を殺したらどうなるか」といった“タイムパラドクス”と呼ばれる奇妙な問題。









2004年02月01日(日) 日曜はだめよ



 本日、新大阪のメルパルクホールで、中西輝政「国民の文明史」発刊記念の講演があった。同討論参加者に、つくる会の西尾幹二、他に加地伸行、松浦光修、西村真吾。前売り券も手に入れてあり、準備万端、京都駅にタクシーで向かった。

 ところが、途中非常に、いやな建築を見てしまった。それは、京都七条大橋の西たもと北側、橋すぐ横の川に面した三階建ての建物。これが全体山吹色!!(正確には川の対岸からは見えにくいが下の方は真っ白)している。イエロー!なのである、イエロー!

京都は駅前のコカコーラの看板でさえ、京都という特殊な環境を企業が考慮?して、ロゴの赤の使用をひかえておとなしい色にしている。
七条大橋のその、ばか建物の対角線上にある、すなわち南東たもとのマクドナルドでさえ、マクドナルドの赤い色の地を控えめにおさえている。本来は目立たなければ意味のない、広告も観光都市、古都京都ということを考えて控えめにしているのにである。

 橋を渡って見たら、正面に「近畿ホーム・テナント募集」の看板。
建築家よ!そこまでして利益を得たいか!町並みを一つの色彩でもって台無しにしたいか!注文を受けたとき、断れなかったのか。 ここで一つ目の癪の虫が興った。

 二つ目は午後二時からの講演まであと二時間弱であったので、どこか適当なところでなにか腹の足しになる物をと思って、ふと、京都の駅ビルに新横浜のラーメン博物館を模した、拉麺小路というのが出来ているのを思いだして、行ってみた。どこの店も行列が出来て、とてもすぐには入れない。あきらめた。

 時間は刻々迫ってくる。仕方ないから新幹線で行こうと思い、当日券売り場に行って料金を見たら、在来の5倍くらいする。いくら何でもあんまりだ。二人だと、往復で京都-大阪間一万円位する。これだけあれば、良い酒が買える。馬鹿らしいのでこれもあきらめて、腹ごしらえはやっぱり必要だからと、先ほどから気をつけて駅ビルのレストラン街などをそれとなく見たけれど、どこも人、人、人。

ところが、新幹線と烏丸中央口を結ぶ通路の新幹線側階段下に、カレー屋があり、なんと、一組くらいしか人がいない。これ幸いとのれんをくぐり、入って注文した。が、一口食べて、この店が、日曜日にもかかわらず、他の店は結構な人出で、すぐに入れないくらい繁盛しているのに、ここだけ閑散としているわけを、たちどころに了解した。
不味い…!!水も変な臭いがし、米は欠け米を使っていて、とにかく酸っぱい味がするのである。 山吹色の家と、どこも人だらけ(日曜だから当たり前)な事、この不味い、普通たいていのカレーは、そうまずいものにはお目にかかる方がめづらしい位なのに、その稀有な例に遭遇した事で、もう完全に気分が壊れすぐ店を出た。
講演に行く気も失せて、タクシーでそのまま家に帰ってきてしまった。

 考えてみれば、日曜・祭日に町中に出向くことはほとんどない。イノダ珈琲店も常連は土日祝日は避ける。

 講演の券二枚無駄にした。この前の、東京講演の方にはフーバー元研究員の片岡哲哉さんが討論参加していた。そちらの方はビデオを販売するようなので、それを買って見ることにした。西尾幹二さんの国民の歴史は主に近現代史で、網野善彦に江戸(02/02訂正 鎌倉-室町)が書けないのだろうと悪態つかれていたのだけれど、この国民の文明史はそれを補う内容になっている。









2004年01月24日(土) 「強制連行」設問は採点から外せ -転載-



 こりもせずどこでどう繋がっているのか、また入試に困った問題がでた。
以下は新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝 さんの産経新聞正論の転載です。読んで下さい。


  拉致解決妨げるセンター入試問題

                  藤岡信勝

 《《《不公正かつ不適切な設問》》》

 日本人拉致事件についての川口外相の演説に対し、昨年9月24日の国連総会で
北朝鮮代表は、「日本は朝鮮半島占領時代に840万人を強制連行し、筆舌に尽くしが
たい被害を与えた。たった数人の拉致被害者の死とは比べものにならない」と反論
した。拉致という犯罪を、ありもしない「強制連行」で帳消しにしようというたく
らみである。

 ところが、最近になって、この北朝鮮の宣伝に呼応するかのような動きが日本国内に現れた。驚くなかれ、大学入試センター試験の問題としてである。1月17日に行なわれた世界史の試験で、「日本統治下の朝鮮」に関連して次の中から正しいものを一つだけ選ばせる問題(第一問の問5)が出題された。

①朝鮮総督府が置かれ、初代総督として伊藤博文が就任した
②朝鮮は、日本が明治維新以降初めて獲得した海外領土であった
③日本による併合と同時に、創始改名が実施された
④第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた〉

  たん譚 注  ******
①は伊藤博文は初代ではない×。
②は台湾が先×。
③は創始改名は1940年×。
残るは
④が正解ということになるらしい。

        ********

 正解は④とされる。しかし、これは極めて不公正で不適切な問題である。まず、①から④までの文中に登場する用語のうち、「朝鮮総督府」や「創始改名」は、当時もその言葉が使われており歴史的事実に属するが、「強制連行」は次元が異なる。「強制連行」は政治的な糾弾の機能を担う造語であり、その語の使用者による歴史の解釈を示す用語であって、歴史の事実を指し示す言葉ではない。
それは、対象指示機能よりは情動喚起機能の優越する、政治的色合いをもった「唸り言葉」(S・I・ハヤカワ)なのである。それ故、使う者の政治的目的に応じて、対象指示に関しては伸縮自在、融通無碍となる。

 日本政府は徴兵による戦時中の労働力不足を補うため、「国民徴用令」によって工場などに労働力を動員したが、朝鮮半島についても、1944年9月から徴用が実施された。当時は朝鮮半島の人々も日本人であり、徴用は日本人に平等に課せられた、国家による合法的な行為であった。だから、④を「第二次世界大戦中、日本本土へ徴用された」とすれば、それは歴史的事実を述べたものであり、設問として何の問題もない。

 《《《受験生には踏み絵効果も》》》

 では、「強制連行」という言葉はいつから使われたのか。鄭大均氏によれば、1965年に出版された朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』の影響である(『中央公論』2002年12月号)。しかし、「徴用」を「強制連行」とするのは不当な言い換えであり、虚構である。「従軍慰安婦の強制連行」説はこの虚構の上に建て増しされたものである。

 こういう系列の言葉を入試問題に含めるとどんな問題が生じるか。「強制連行」が間違いであると正しく知っている受験生にとっては、一種の踏み絵効果をもつ。難点は、「強制連行」を信じ込んでいる受験生にとっても少しも解消されない。問題は端的に定義の困難さと、不確定さにあらわれる。金英達氏は「『強制連行』とは何かということは、人それぞれの定義によって異なってくる」とし、その概念規定にかかわる要素として、
①時期
②移動地域
③渡航形態
④連行方式
⑤連行目的
⑥適用法令
⑦離職・転職の自由⑧民族的な差別・虐待、の八つの次元を列挙している(『金英達著作集Ⅱ・朝鮮人強制連行の研究』)。

 《《《設問ミスを直ちに認めよ》》》

 例えば、時期についてみただけでも、センター試験の問題が前提としているような、「第二次世界大戦中」だけの出来事を指すとはかぎらない。日韓併合後の朝鮮半島からの日本への移動をすべて「強制連行」としてとらえ、「在日=強制連行の犠牲者」とするイメージも盛んに吹聴されてきた。

 こういう言説を信じていた受験生が、設問の④を引っ掛け設問であると判断することも大いにありうる。つまり、どちらの立場からも、この問題は「正解なし」と判断されうるのである。入試問題は立場の如何を問わず万人が認める知識の範囲に限定されるべきである。

 誤った不確実な知識を、若い人の頭に、政治宣伝的にたたき込む害毒が、将来に及ぼす影響は計り知れない。こういう虚偽の概念の横行を放置してきたことが、日本人を知的に拘束し、不要な贖罪意識を生み、拉致問題の解決を四半世紀にわたって放置してきた根本原因である。

 大学入試センターは、この設問が欠陥問題であることを認め、「正解なし」として採点から除外する措置を速やかにとるべきである。

           産経新聞コラム「正論」1月22日













2004年01月22日(木) 友だち(哀悼)



 小学生の頃の友達が死んだ。小学校から中学にあがるときに、たん譚は転校した。それきり、音信は途絶えて、それぞれの道を歩んだ。そうして、ここ何年か前、もう一人の親しかった友達をネット上で見つけた。そこの掲示板にStepというハンドルネームで書き込んでいたのが、上の非常に親しくしていた友達だった。

Stepというのは、Stephane Grappelliというフランスのジャズ・バイオリニストにあやかってつけたらしい。自身もブルーグラスをやり、フィドル(バイオリン)を演奏しプロ並の実力があったようだ。ついに生演奏は聴くチャンスがないままに終わった。

 再会してジャズバーで一度、家に訪ねて一度の二回しか会っていない。そうして3度目は死の間際、知らせを受けて、京都から故郷の病院に駆けつけた時。本当に3度目の正直になってしまった。病室で聞いてもらおうと、1930年代に若き、ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリ(DJANGO REINHARDT・STEPHANE GRAPPELLI)がパリで録音した競演盤を持っていった。
病室に入った途端、そういう空気・状況ではなく渡せずに結局持ち帰った。

 小さい頃の友達は、太っていて40数年近く後の再開時には、その面影はまったくなく、むしろ逆に痩せていた。だから容姿に限って記憶が当時の本人とは結びつかず、これは死んでしまった今も同一人物として結びついていない。
 友は趣味まで似ていた。グラッペリは一度きくと忘れられない哀愁がある。これは断然米国ではなく、ヨーロッパであった。

 本当によく遊んだ。実家は土建屋をしていて、炬火組(仮名)と看板があがっていた。ここの庭先や大間(おおかん-外の事)で、日本の子供なら普通ちゃんばらをやるのだが、炬火(仮名)くんはちがった。
ここで働いている若い衆(といってもその筋の人達ではない)に凝った木製のサーベルと盾をつくってもらい、西洋チャンバラをやる。カーンカーンと剣を合わせ、3振り目のは盾で受け止める。これをつまれた材木の上や空き地でやるのだ。
 炬火(仮名)くんの部屋にはギリシャ神話の本が十数巻あった。そのせいか、学校の国語の時間、誰にも読めない漢字が出ると先生は決まって炬火(仮名)くんにあてた。
そうすると必ず読んでしまう。漢字博士であった。
多分小学生には難しいと思われる大人向けギリシャ神話を読んでいたのだから、いつの間にか漢字を覚えてしまったのだろう。

 また、初夏のある日曜、朝日の昇る頃に、近くの公園に集まり、近所の人、組の人達と大人子供ごっちゃ混ぜで、草野球した。終わっても日はまだ高くなく、日曜日が長く感じた。早起きが気持ちがいいことをこの時知った。

 当時、子供達(女は除)の間ではやっていた、2Bという、プリッツエルの半分くらいの長さで、一回り太くしたような爆薬があった。これを炬火(仮名)くんは100発位を箱に入れてポケットにねじ込んでいた。
これが、とある午後、ポケットの中で暴発した。その現場にいて呆気にとられていると、炬火(仮名)くんは部屋中を走り回った末、台所に飛び込んで流しの水をかけた。追っかけて一緒に水をざぁざぁかけた。
翌日その事で、朝礼時に校長先生からお話があった事を覚えている。以後2B弾は禁止になった。
大人になっても右太股にはかなりなケロイドが残っていたと思う。
駆けっこは太っていたのでいつもびりだったが、最後まで一生懸命走っていた。水泳は得意で良く長く泳いだ。

 晩ご飯を呼ばれたことがあった。一家の長のお父さんは恰幅が良くて上座にでんと座り、長い食卓机に座る僕達や、若い衆のお菜よりも一品多く刺身がでた。晩酌の用意もされていた。
ここで、働くお父さんは偉く、そのためにおかずが家族や子供達より多いのだと知った。子供心に炬火(仮名)くんのお父さんをあらためてみて、何だか尊敬してしまった,威厳があった。

 一度、社長室?に二人で侵入して、りっぱな机の上に置いてある煙草入れからハバナの葉巻を失敬した。炬火(仮名)くんは堂に入った手つきでケースから二本取り出し、口で表面のコーテイングをぶちっとばかり噛みきり、こうやるのだとライターで火をつけた。

見よう見まねで真似をして肺深く吸い込んだ。さぁ大変!咽せて咽せて、世の中がぐるぐる回った。目の前が紫色になった(紫煙と何か関係があるかもしれん?)。
この時を境に、煙草から足を洗った。以後今日まで煙草を吸わ(え)ないのは、あの時の事があったためだと思っている。

 お父さんは南米で客死している。同じように恰幅の良かったお母さんも亡くなっている。お姉さんは何の因果がフランス人と結婚してフランスにいる。妙なところで因縁がある(下の友達から一報があり、お姉さんは日本人と結婚して日本にいると言う事でした。訂正しておきます)。

 より親しいもう一人の友達、羽毛(仮名)くんが臨終間近に病院の友達のベッドの脇にいた時、呼びかけに意識朦朧の中、我に返って、「ありがとう」と言葉にならない言葉を言ったという。この二人も浅からぬ因縁で結びついており、同じように建築科を出て、、趣味が多彩で、同じ職種で、同じようにコンピュータを駆使し、おまけに同じ日に結婚式をあげている。お互い死んだときに骨を拾う約束までしていたという。良い別れだと思う。

 今の自分は、他からの反射みたいな物で自我が形作られたと考える。小学校時代のそういった友達は紛れもなく自分全体の一部である。
蔑ろには出来ない、そう言う思いがある。

 炬火(仮名)くんは、友人葬であった。友人葬と聞いて、ある日本のカルト宗教?団体「粗画描会」の言い分を思いだして少しいやな気がした。日本のその団体はフランスでは日本のカルト宗教ということになっている。オームその他と同じ位置づけである。関連団体が政治にまで入り込んでいる。

 粗画描会は葬式と言わない、友人葬といってそれを行っている。「釈尊(釈迦)は、葬式は在家の人々によって行われるべきであるとし、出家は 修行に専念して、僧侶が葬式を行う事を禁止した、日蓮大聖人も自ら葬儀を執り行った記録はないといい、現在のように「「僧侶の読経や引導がなければ故人は成仏しない」」という考え 方は、江戸時代の檀家制度の成立に伴って普及したもので、仏教本来の行 き方ではない」という。

 友人葬が仏教の教えに最も適った葬儀の在り方だという、だから友人葬がいいというのだが…。

だが待て、江戸の庶民は、友人(在家)葬だけでは後々どうしようもない空虚が心に去来して、きっと寺か、托鉢僧に町でであった時に、ひとつ家のものを弔ってやってくれと、始まったのではないかと推測する、庶民の希求が今の檀家制度とともに慣習としてなったのではないか。
それならそれでいい、原理主義におちいって何もかも元に戻そうとすると、アフガンを牛耳っていたアルカイダと同じ事になってしまう。貴重な仏像を壊しても何ともないと言うことになる。

 炬火(仮名)くんの友人葬はそれ(粗画描会)ではないと思うが、人間(日本人)はやっぱり、節目を求め、拝む対象を求める。それが、初七日や49日そして何回忌と言う形で故人を偲び、連続させていく。葬式や儀式は、生き残った人達のためのものなのだ。

 小学校の友達とは、いまだにお互いくん付で呼び合って何の違和感がない。これは本当に貴重だと思うのだ。そう呼べる相手が一人いなくなった。

くん(君)
①天子・帝王・諸侯など、天下を治める人。主君
②敬称。
③尊敬すべき目上の人などにつけて呼ぶ語。父君・母君
④同輩または同輩以下の人の氏名の下に添える語。諸君・加藤君 
(広辞苑3版)










2004年01月13日(火) 美しきもの・ 汚きもの



 昨日の事、近くの勧業館で成人式があったのだろう。だろうと書いたのは、勧業館の前は込み合うので、家から普段は勧業館前を通るが、タクシーはそこを避けて、国立美術館沿いの疎水べりを通って仁王門通りを走り抜け、鴨川ベリに出て、町中(三条・四条方面)に向かったためだ。

その途中、異様な物(者)を見た。国立近代美術館の南西角、勧業館の真裏のT字路の信号のある所、少し幅が広くなっている、そこを通りかかった時である。
車体を少し低く下げた車に乗ろうとしている、金髪に近い茶髪に、黒い無精ひげ!、耳に金色の丸いピアス、着ている羽織・袴がなんと真っ白のものをきた輩をみた。

 此奴が時間から見て、ここに駐車違反して式に出席、終えて帰ろうとしていることはすぐにわかった。
そこにくっついている、振り袖をきた女二人。
その立ち居振る舞いが、質の良い振り袖とまったく調和せず、とても不潔で汚らしく見えた。

 男は、成人式をただのイヴェント(祭りではなくて、企画ものと言う意味)としか多分見ておらず、女はファッションショーのつもりなのだろう。
他にも道行く式帰りの脳天気を見たが、歩く姿がもうなんて言うのか、汚い。着物を着ても西洋歩きが染みついている、教えてもらっていないから、体をねじって踵から足を着地して歩いている。これで、着物前が開(はだ)けないはずはない。それに初々しさという物がまったくない。

 戸板康二(作家・歌舞伎評論家)が、花森安治(暮らしの手帖 編集兼発行人)に、「なぜ成人式というと、普段着慣れない日本の着物、それも極上の振り袖を着たがるのか」と聞いたところ、笑って「硫酸魔(昭和45.6年頃、振り袖を狙っては劇薬の硫酸をかける犯罪が多発した)の気持ちがわからんでもないね」と言ったという。
たん譚も気持ちの上では、男の頭と着物にぶっかけてやりたい気持ちがした。

 若者に迎合する大人が、人間は見た目ではないと言う。そんなことはない。今・現在の心の持ちよう、在りようが衣服に現れる。服(着物)は心の鏡なんである。歩き方も勿論である。
学生の頃、同じ黒い制服を着ていても、随分人によって違って見えたものだ。

 今年のえべっちゃんは仕舞い福をもらいにお参りした。二礼二拍手一礼し、ちゃんとお賽銭も奮発し、御神籤をひいた。小吉と半吉だった。「半吉ってあんた!」大・中・小にまだ全と半があるんか!? 
くさって、笹を買い、大黒さんの張りぼてと鯛をつけてもらおうとしたら、「売り切れです。」
売り切れってあんた!もう、残り福どころか残り不服だらけ。

仕方がないので、熊手と、笊籬(いかき)に大黒さんの顔の付いたのを付けてもらって、順路を行くとなんと、祇園の、着物姿の舞妓ちゃんが二人鎮座ましまして、まことにしなやかな振る舞いにて、残り福餅を手渡してくれた。それでだいぶ機嫌がよくなって帰ってきた。

 景気が良いのか悪いのか?恵比寿神社の人出は去年より少なく感じた。それと相反して、駅ホテルの日本料理店「吉兆」は、奥の部屋も、カウンターも玄関すぐの部屋も満員であった。えべっさんに頼まんでもええ人が増えたのか??









2004年01月10日(土) わっはっはの初笑い



 先日夜に京都宝ヶ池プリンスホテルでおこなわれた初笑い狂言・晩餐会に行って来た。

 普段は、観世会館が主な見物場所だけれど、お正月でめでたい時期でもあるし、なにより普段は、しゃっちょこばって小さい堅い椅子席で、それもほとんど正面席は無理で左右後ろの方の席でしかみられないでいた。
観世会館(京都市主催)のこの催しは廉価である。そして早いもの順で着席する。
だから、午後六時開場にあわせておっとり出かけようものならまず上席はない。一度などかなり早く出かけてもすでに暇な(失礼!)人達は来ていて、真正面の前の方の席はとれなかった。
以後、見られりゃいいやときっぱりあきらめ、二階席、舞台左横一番前から見ることにきめそこが定席となっていた。
 そこに、上の催しがあると聞き、おまけに席は決まっていて、飯食って一杯やりながら見物出来るというので、飛びついた。
それに、人間国宝の茂山千作を今の内に見ておかないともう、かなりご高齢なのでいつ舞台からおりてしまわれるかわからない事もあったので、奮発して家人と見に行った。

 出し物は、「二人袴(ふたりばかま)」、新春対談をはさんで、一端食事(なぜかフランス料理)になり、後半は「呼声」「素袍落(すほうおとし)」でいずれも過去に見た曲であったが、とにかく丸テーブルでゆったりとして、調度良い席位置で、何百人かいるのだけれど、みんな高いお足を払ってまで見に来ようと言う人達だから、一体感があって心地良い。
前の方の席には、芸能人や和服のきれいどころ、元きれいどころ?がちらほら。

 給仕のお姉さんがこちらがあまりにワインをおかわりするのに気を使ってくれて、食事時間が終わって後半が始まる前に、別に足付シャンペンクーラにシャンペンを席横にセットしてくれ、誠に恐縮してしまった。そこそこ音などに遠慮しながら、いっぱいやりながら見る。これが本来の楽しみ方だろう。
お相撲も、観劇も昔からそうだった筈である。いつの頃からか、気取った人達が出現して、映画館でも、ものを食べないようにとか持ち込みお断りとかいいはじめた。

 新春対談で、千作さん、息子さんの、千五郎と千三郎との思い出話のなかで、狂言を教えるのは父親ではなくて、祖父から教えられると聞いて驚いた。
たしか法隆寺の宮大工だった西岡常一も、お爺さんから教えられたと書いていた。お爺さんに現場に連れて行かれて、放って置かれた。その内どの大工が出来るかが見極められるようになったという。大工の仕来りはすべて口伝で伝えられる。

狂言も同じようで、口伝で教えられる。今回は出演していなかったが、千作さんの弟、千之丞さんは、家にいた頭のいい女中のお梅どんが狂言の台詞を覚えてしまい、それを千之丞さんの子守りの時に何度もうたうのをいつの間にか覚えて、それではと三才だかで初舞台を踏むことになったという。関西の狂言は口伝、言葉から始まり、関東の狂言は形のまねから始まるという。

 東京の日本料理はほとんど関西の懐石風料理に席巻されている。料理と同じく狂言もここの所、関西の狂言が圧倒し始めているという。そうだろう、狂言に出てくる場所はほとんど京都なんだから。本場もんと言うことで。

 話は変わって、千作さんはこのホテルに、毎朝スポーツ新聞(阪神ファンらしい)をもって現れ、朝ご飯をいただくのだそうだ。
 三時間におよぶ晩餐会と狂言会は無事終わり、さんざ笑って、夜空に雪のちらつく宝ヶ池プリンスホテルを後にした。










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