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2004年07月12日(月) サマワ自衛隊宿営地へのデモから見えてくるもの



 サマワ住民約七十人の自衛隊宿営地へのデモがあったと言う。左翼系の新聞ならそれ見た事かと書立てそうだが、しんとして書かない。それも道理、デモ隊は日の丸の旗を振り「サマワ市民と自衛隊で安全な街を再建しよう」と書かれた垂れ幕を掲げて、おまけに、佐藤隊長に花束まで贈った。
 
 この様子を米CNNが五月六日に放映した。デモの直前まで、宿営地周辺では迫撃砲弾が相次いで撃ち込まれていた。なんでイラク市民が、自衛隊を守ろうとするのか。米軍が反応して、陸上幕僚監部などに問い合わせしたらしい。そこにひげの佐藤正久一佐(四三)がいたからと言う事になったが、多分なぜなのか西洋人には分からない。
 
 有力部族長が出した布告「日本軍を攻撃したら一族郎党を征伐する」
ここまで言ってくれるのはなぜだろうか。向こうではひげを蓄えている事が、大人の男としての証である。ひげならアメリカ人もたくわえているのもいるだろう。日本は何でも金で解決する、財布の紐がゆるい事は、以前にも、ODAのことで書いたが、そういうことを知っているイラクの部族長達は、遠路 自衛隊に面会を求めやってくる。

 この時である。この時に、日本人隊長は満面の笑顔で持って迎へたに違いない。西洋人がうす気味悪がるあの意味不明の「笑い」である。ようきたなぁ! ニコニコニコ。終始笑顔を絶やさなかったに違いない。無心をしにきているのに、この笑みはどうだ、と思ったろう。

 こういう 西洋人に理解できない日本の美徳は他にも多くあり、その大半は滅びた。「裸を人に見られたらはずかしい」と今は普通に思われているが、そうではなく「ラスト・サムライ」の映画に、ワンショットではあるが、沐浴シーンを見られても、恥ずかしがる事無く普通にふるまって対話する場面がある。よくぞ、ここまで昔の日本人の事を調べたものだと驚いた。

「裸がはずかしい」というのはキリスト教の思想なのである。アダムとイブが、禁断の果実を食ってから、羞恥心が芽生えて、局部を葉っぱで隠しはじめる。「知」すなわち「羞恥」という考え方。
 
 ところが、江戸時代前後に日本に来た西洋人は、日本人の性意識に異様に驚く。禁欲的でなく、野放図に見えた。なのに道徳・規律が守られている。
 キリスト教の司祭など、「世界で一番みだらな国民だ」とまで書いている。想像に絶したのだろう。
 だが。日本に何年も住むうちに、「性」を肯定した生き方が西洋人にも理解出来はじめる。
 西洋の価値体系とまったくちがった文明圏との遭遇であった。
 
 庭先で、行水していて、外国人が通りかかると、彼等を見るために平気で、素裸で外に飛び出していく。町の銭湯は、老若男女混浴で、若い女が体を洗っている横で、家族が洗っている。この事が信じられない西洋人達は、着衣土足のままで、銭湯に押し入り、見物した(体中毛むくじゃらの無礼なお方達を見て、日本人は彼等の事を、南蛮夷狄とよんだのである)。当の日本人は皆笑っている。
 
「性」を忌諱したわりには、サディズム・マゾヒズムを生み出し、胸元まで深く切れ込んだ服を着た西洋の女を見て、侍達は、紅毛の夷狄(野蛮人)と一笑した。
こういう観点から日本人を見ると、日本人はすでに滅びて久しい。
 
陸自幹部は「*戦わずして勝つことが大事です」と米軍担当者に語った、そうだ。(7/11 産経新聞朝刊)
 
 
*孫子の兵法「百戦百勝は最善ならず、戦わずして勝つことが最善」
 









2004年06月25日(金) 樽掃除



 そろそろ暑い夏が来るので、昨年に仕込んだワインを醸造用瓶から木樽に移しかえた。
 樽は、ソーダ灰を水に溶かしたものを満たし、栓をして、絵を描いている足下において時折蹴ってやる。
こうすることで、樽内に付着した葡萄滓などの除去促進になる。十二時間位続けたら捨てて水ですすぎ、次は殺菌、相当する重亜硫酸塩ナトリウムを適量溶かすのだが、これが強烈な刺激臭があり、むせながらの作業。ここからは、筋力トレーニングのつもりで、十二リットル入りの樽を持ち上げ、ひきつけ振り回す。真上に持ち上げた樽を、頭の後ろに、肘を固定した状態であげおろし。
ふらふらになりかけた頃、完了。

樽の外側には亜麻仁油を塗っておく。ワインを移しかえ、専用の冷蔵庫に入れて、これから一年寝かせて、、瓶詰めコルク打ち。
 快汁葡萄鏡(日本三大名鏡のひとつ海獣葡萄鏡(国宝) のもじり)頁を作ったのだけれど、作業途中を記録しながらの作業は難しく、途中の行程を幾度も記録し忘れてしまう。で、今に至るも更新されていない。

 今ワインは、AOC(原産地管理呼称・フランス)ワインが六百円位で買えるようになった。もう自家醸造ワインには、実益は無く、閑人の趣味となってしまった。ビールと違って、手間ひまかけて作っても美味いものが出来るとは限らない。樽熟成させたからと言って、味がよくなる保障もない。

ようするにひとりよがりの、手間のかかる趣味ということだ。
わざわざ作り方を発表しても、きっと、手打ち蕎麦の蕎麦打ち風景を見せるようなもので、誰も見やしない。だから、更新はどうなるかわからない。

 途中のワインを味見をする度に、フランスの昔からのワイン作りの文化伝統に、敬意をはらってしまう事になる。
他方、日本の清酒に至っては、難しすぎ、素人には到底できないレベルで、西洋がパスチャライザシオン(火入れ)を発見する二百年前に、すでに日本酒の世界ではそれが行われていた。他国の酒を造って、わが国の酒のすごさを知る。

  









2004年06月15日(火) 小六事件と大人の軟弱



 佐世保の惨殺事件が起こって、その後、他の子供の心的禍負担はともかく、救急の消防隊員達が、凄惨な現場を目撃したことによる心的禍負担を覚え、苦痛を訴えたりしている。
 最近しばしば言われている、日本国が瓦解し初めている予兆がここにも見て取れる。あまりにも軟弱な感受性をもったその道のプロ達がいて、井上惇(あつし)市消防局次長は「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞)なんて言う発言をしたりしている。
 
◆ 毎日美味しいものを食って、ほぼ無菌の中で暮らす中で、戦争のない平和な世界を声高に叫ぶ、すると腹がへる。その日の夕飯は、焼き肉。が、一度でも自分達で生きた豚の喉をかっ切り、ほとばしる血を一滴も無駄にしまいとバケツに受け、腸の汚物をしごきとり保存し、生きて行く糧とした事があるだろうか。美味いとり肉を食べるため、自分で潰して(屠殺して)、食べる人がどれだけいるだろう。あらゆる残虐行為は他人まかせにしておいて、戦争(殺しあい)のない平和な世界を叫ぶ。

 もともと日本には、こういうほ乳類をたたき殺して食うという習慣は、鯨(くじら)以外なかった。
これは世界共通の事と思うが、獲物は血の一滴まで無駄にしない。鯨なんて、ひげまでぜんまいの代用にして使った。ところが明治からこっち、食肉の文化がぽんと入ってきて、以後急速に、加工され、商品化された「肉」が、味噌・醤油・どぶろくなどのように、本来の自家製造過程を経る事なしに出回り今日に至った。

 フランスの田舎の農家で、飼っているうさぎを料理するために潰す時、どうするか知っているだろうか。まず血を飛び散らさずに抜くためと、一瞬にして致命傷を与えるために、先の鋭い、たこ焼き返しのようなもので目を深く突き、殺す。その後、後ろ足を縛り木にぶら下げておくのだ。
こういうことに、食肉を歴史としてきた連中は抵抗がない。日本人なら気絶してしまうかもしれない。

*「アーロン収容所」と言う本の中にでて来る目撃譚。略奪する原住民が、死んだ兵隊の遺骸の歯から金を取り出す時どうするか。躊躇なく石で頭蓋骨をぐしゃっとたたき潰す。それを見た著者は震え上がる。が、著者はやがて食肉文化の中では、そういうものだと悟る。

 中学生の頃の事、山麓の石切り場に住む、今思うと、うぐいすとめじろの密猟をしていたと思われる(六畳間位の所一杯に天井まで鳥かごがあって、鳥屋に売っていた)、友達のお父さんに、鶏を食うかとすすめられ、生まれて初めて鶏を潰す現場を見た、目の前で、鶏に袋をかぶせ、あっと言う間もなく、喉をかっ切った。
瞬間、血しぶきとともに鶏は4.5m飛んだ。、鶏が飛ぶのをこのとき初めて見た。可愛そうもくそもない。ただ現実があった。が、事はそよとすすめられ、庭には、いこった炭が入った七輪が用意され、友人の父親とその友人を交えて宴が始まった。お相伴にあずかった。とても美味かった。先の悲惨な屠殺現場があってこの幸福があるのだとこの時諒解した。
 以後、近くの裏山で、メジロを捕り(今は禁止されている)に入った山で、かすみ網(これも禁止)で獲っていると、つむぎ・あおじなどがかかった。この鳥は美味いので、その場で首をちょんぎり、羽をむしり、腹を割いて塩と醤油をかけ、携帯燃料に火をつけて、焼いてよく食った。

 以前、教徒(きょうと・仮名)大学医学部の解剖図のイラストの仕事をした事があって、実際の人間を解体した写真を見ながら、要所を描き出す作業で、吐き気をもよおす米・独製写真集であったが、やがて客観的に見られるようになり、それらのすべての遺骸が、なぜか東洋人であることも発見した。
 これは、江戸時代の外国人の記録を見ても、日本人の事を「有機体」と表現しているように、白人以外は人間ではないと言うのが、当時の目で、その習慣が残って解剖のサンプルは人間によくにた?、東洋人としたのかもしれない。
 
 ずいぶん前に、京都-大阪を結ぶ京阪沿線の踏切で、飛び込み自殺事故直後、偶然そこに居合わせた。ばらばらの遺体は線路脇にまとめられ、白い覆いをかぶせてあったが、踏切のそこここには肉片がまだ落ちていた。が、以外に冷静でいられた。
 少年期に経験した事やこういう経験のおかげ?で、佐世保小のような事件に遭遇したとしても、心的禍負担になるような過剰反応には至らないと思っている。
 
 それはさておき、このような経験や、凶悪犯罪で血を見てきた人、検死官、交通事故処理経験者、外科医経験者などを、そう言う現場におくのだ。
 先の消防局次長の「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞) は、打つ手はあるのである。

参考文献:
*「アーロン収容所」‥‥著者が敗戦後、イギリス軍に捕虜となっていた2年間の記録。イギリス将校の妻は、日本人が部屋に掃除に入った時も、平然と裸でいる。人として見ていない、猿や犬と同じに見ていた。虐待のすごさ。何日も飢えさせて、川の中州においておく。取り残された日本兵達は、寄生虫を持っているカニを食べて死んで行く。それまでほったらかしにしておくなど。白人種(アングロサクソン)の東洋人を見る目がよく書かれている。会田雄次著
 

 









2004年05月25日(火) 牛に惹かれて神宮詣で



 先日、伊勢神宮に参拝した。京都からは二時間で行ける。題のように、伊勢に行く手前、途中下車し、牛肉に惹かれて、肉を食いに松阪市の目的の店に向かった。
 一つの誤解がある。二十年くらい前に小説家がエッセイにここの事を書いて以来、松阪肉が有名になったが、実はこの店「渡多金(わだきん 仮名)」の独自の肉が美味いんであって、松阪の牛肉がうまいとは、最初から言ってないにも関わらず、松阪牛がうまいと言う事になってしまった。

 ここの牛は、但馬の牛でこれを、渡多金(わだきん 仮名)の初代が松阪に持ってきて、牧場にて育て以後、これが有名になった。だから但馬(兵庫県)の牛であって、松阪出自の牛君達とは何の関係もない。
 すき焼きは、たった一枚のぺらぺらロース肉。
網焼き肉は、八十g位のヒレ肉一枚、このセットが売りなのでこれを頼んだ。

 以前他所で、霜降りの中に赤みがあるような、体にいいとは思えないステーキを食った事があるが、只只、柔らかく、噛みごたえなく、口中で溶ける。確かにとても旨いが、ばーさん、じーさん向けであった。

 ところがここのは他にはない、箸で切れるのだけれども、適度な噛みごたえがあって、なを溶ける。結構な料金も、たん譚は相応だと了解した。
 
 伊勢市駅近くの宿は、玄関正面 の「翠光入玉簾」を揮毫している伊藤博文をはじめ 、広田 弘毅(外交官・政治家) 東条 英機 (陸軍軍人・政治家) 岸 信介(政治家) 佐藤 栄作(政治家) 福田 赳夫(政治家) 重光 葵(外交官・政治家) 松岡 洋右(外交官・政治家) 西園寺 公一 (政治家) 小林 一三(実業家・政治家) 正力 松太郎(政治家・実業家)
 
三遊亭 金馬 (落語家) 春風亭 柳昇 (落語家) 板東 三津五郎 (歌舞伎俳優) 吉井 勇(歌人) 今 日出海(小説家・評論家) 久保田 万太郎(小説家・劇作家) 川端 龍子(日本画家) 杉本 健吉(画家) 辰野 隆 (フランス文学者) 伊東 深水(日本画家)福田 平八郎(日本画家) 川島 芳子(男装の麗人) 金森 徳次郎 (憲法学者)たん潭(画家、フランス愛好家 だれや??)

錚々(そうそう)たる人々が投宿している老舗料理旅館で、頭拿屋・利用庵(とだや・りょうあん 仮名)という。皆、神宮詣での宿としたのだろう。泊まれる客数は十人くらいで、部屋は二つ。改築後は昔とは違うようだが、窓から、人工だが池に滝が落ちている庭園が眼下に見える。

 歴史ある宿で、歴史上の人物がここにいた事を思いながらの静かな夜は、また格別であった
 
 伊勢神宮の外宮(げくう)は、天皇の食事(御饌・ミケ )所で、稲を、水を祭り、食べ物をまつる。内宮(ないくう)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られており、古来毎朝、外宮に食事にこられるらしい。
 御饌 (みけ)は神の食事だと聞いて 家の三毛猫のえさは大丈夫だろうかと、おもわず思ってしまった。

宮内の、欧州にはない、巨木がそそり立つ森、流れる沢(五十鈴川源流)。ここには確かに人ではない何者かがいる。昼飯に、宿で作ってもらった、おむすびを食べ、正式な参拝をし、伊勢を後にした。

*この旅を実行する数日前、まったく同じ店に産經新聞の産経抄が訪ね、エッセイに書いてましたが、偶然です。
 









2004年05月20日(木) 真珠の耳飾りの女



 17世紀オランダに生きた画家ヨハネス・フェルメールの作品「真珠の耳飾りの女(青いターバンの少女)」をテーマにした小説が映画化された。 何年か前にもカラバジオを描いた映画を見て、これは別の意味で意表をつく映画で、アトリエのモデルの光の当て方(映像作品としての)に感心してしまい、今回も、物語はさておき、監督があのフェルメールの光をどう再現するのか、それを見に行った。
 
 映画人にとって、今や画家の画室の採光再現などなんて事はないのかもしれない。金があればだれか一人、スタッフを自分が思うような光再現のために雇いたいと思ったくらいだ。本当に感心した。
 
 映画は「真珠の耳飾りの女」のモデルをめぐっての地味と言えば地味な話。
画家とモデルが共有する時間を過ごす時、不思議な親和感を持つ。これは、ヌードモデルを描いている時に、何にも触れていないのに描き終わる頃、関係を持ってしまったかのような感じになるのにもにて、そういう感情を経験した事がある。
着衣していても同じことである。

映画でも、互いに精神的の中では成就してしまっている。
これを見ていたら、ふいに「*日本霊異記」だったかに、修行中の坊主が、弥勒菩薩像を眺めているうちに、ついに達してしまう話があったのを思い出した。精神的昇華に於いては、この坊様のほうがすごいなぁなどと、余計な事を思った。

フェルメールの画法をめぐって、カメラ・オブスキュラ(素朴なスライド映写機と思って下さい)を使って描いたのだ(根拠の一つに一枚のエスキース-下絵-も、残されていない)とか、「いや、消失点の位置にピンをさした後があるので、当時の建築学に基づいて描かれたのだ」などの説か゜今でも飛び交っている。
 カメラ・オブスキュラのようなものは、それ以前からあった。遮光された部屋の壁の一方に穴をあける、すると外の景色が反対側の壁に映し出しだされる。簡単なカメラの原理で(コダックが世界で初めてこの原理で写真を撮った。)、これを写し取って絵を描く。
 
 絵描きの立場から言えば、天才的絵描きと言えども、下絵なしで描くためには、それに至るまで、おびただしいデッサンをしてきて初めて可能だといえる。避けて通れない。だから、一枚の下描きもない、デッサン帖も残さないフェルメールはやはり使っただろう。
 
 絵と言えども、当時の絵画技法に、精神はまったき自由ではあり得ないわけで、光学的な光の解釈(光っている部分が玉のように解釈されて描かれている)は、目で見て描くには無理がある。
 どちらも使ったと見るべきだろう、目と機器と。
 
 '90年頃、この絵ではなく、ウィーン美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum Wien)に、「画家のアトリエ(絵画芸術) 」を見に行った。本来なら強く印象に残ったはずのこの絵が、あまり印象に残っていず、同展示室にあった、まったく有名ではない、一枚の絵が強烈に印象に残っている。
  
 絵には貴夫人が描かれていた。去年だったか、日本人画家で初めてフランス政府から、シュバリエ芸術文化勲章をもらった、松井守男さんを紹介された神戸の画廊の、そこに勤めていた女の子に、その貴婦人が、まぁ、瓜二つだった。
 
 つんとして、気高い感じなどそっくりで、一緒に行っていた絵描きと笑い転げた。そういうわけで、「画家のアトリエ」よりも、近くの、他人のそら似絵画の方が、印象深かったのであった。
 
 西洋の絵画が、まだリアリズムに汲々とし離れられずいる17世紀の同時期、すでに、わが京都には、光悦・宗達に影響を受け、装飾性に富んだ琳派様式を確立した、*尾形光琳(おがた・こうりん)がいた。
 

 題を再び見返して見ると、あれれ!「首飾り」となっていました。「真珠の首飾りの女」という作品もありますが、ここで書かれているものではありません。「首飾り→耳飾り」訂正しておきます。(04/06/24)

*日本霊異記
九世紀のはじめ、奈良薬師寺の僧景戒が編集した仏教説話集。因果応報の理を説く話が多いが、幹となったのは当時民間に伝承せられていた説話で、人獣交婚譚や怪力譚もあれば、妖怪変化譚として神々の零落してゆく過程を窺わせる話も多い。説話文学の先駆として、後の『今昔物語』『宇治拾遺物語』などに材料を提供 している。

*尾形光琳(おがた・こうりん)
画家。工芸家。乾山の兄。京都呉服商の家に生まれる。
装飾性に富む琳派様式を確立。晩年は京都に戻り、絵画の大作を次々と制作する一方、弟・乾山の焼き物に絵付けするなど工芸デザインにも大きな影響を及ぼした。代表作は『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』など。蒔絵では、『八橋蒔絵硯箱』などの傑作を残す。

 









2004年05月03日(月) 憲法記念日



過去のたん潭をどうぞ
2002 5月3日憲法記念日に寄せて









2004年05月02日(日) 判官(半眼)びいき



 イラクでの日本人人質の行為を擁護する人々や、マスコミの後ろ楯になっている、米国パウエル国務長官の発言

「イラクの人々のために、危険を冒して、現地入りする市民がいることを日本は誇りに思うべきだ」は、腑に落ちないでいた。

 ところがこれがマスコミがよく使う手で、自分達が都合の良い部分だけを引用していた事がわかった。実はこの後に続いて

「また、イラクに自衛隊を派遣したことも、誇りに思うべきである」
                      (04/28 産經新聞)
と言っているのである。これなら分かる 。どっちがどうと言う事は強調されていない。

◆ ボクシングの世界戦において、アメリカ人は、外国選手に自国チャンピオンがノックアウトされても拍手を送る.その光景を何度も見た。
一方日本での世界戦で、日本のチャンピオンが打ち倒されると、水を打ったようにシーンとしてしまう、拍手はない。

 
ボクシングは、主な戦いの場がラスベガスにある事で分かるように、賭けの対象になっている。そういうことも考えに入れないといけないが、やはり心からかどうか、大勢が拍手する。米国は人工国家で、多数の人種が集まって出来ている国家である所以である。

 太平洋方面での戦争の時に、体当たりして来た零戦が、艦上にひっかかった。搭乗員はすでに死亡していた。だが、ちゃんと敬意を表され、体当たり死した兵士は手厚く葬られている。

 米国は、フロンティア・スピリット(開拓者精神)が基本にある。このスピリットには、精神とか意気と言う意味がある。
このことからも、個人の「意気」は、思想信条を越えてまず褒め讃えるということがあるのだろう。

 二人の記者会見をみた。北海道の18歳で半眼の目、一晩で十数万の署名を集める謎の餓鬼と、恋人に収入が安定しているからといわれて自衛隊に入隊したらしい、自称ジャーナリストの元自衛官。

 おどされて、演技したのは結局、向こうのテロリストと一緒になって自国を批難した事になる。
「あの時、おどされて断れますか?」とこの元自衛官はいったが、果たして断れるのである。
確固たる信念で行ってるのであれば、即座に「私は一個人として来ている。君たちの言い分を伝える事は記事を通じて可能だが、自衛隊撤退の要求は自分とは関係ない」と。
 だいたいこんな事、イラク人と通訳を介して以外、喋られるわけがない。通訳を介しての取材で、「自分なりのイラクが伝え」られると思うのか。
(小泉首相が平壌を訪れた時、金正日は「よう来たなぁ、われ」とため口をきいたが、通訳は勿論伝えなかった)
ところがもともと、米国や日本よりイラクが好きな人である。これ幸いと同調したと言うわけである。

 半眼の少年の父親は、北海道の日教組(旧社会党系)だか、高教祖(共産党系)だかに所属している教師であるそうで、これで一夜にして十数万の署名が集まったのだと合点がいった。
 
 常に非難しているはずの米国に、自分にとって都合の良い意見があるとその部分だけ取り上げる。なりふり構わずとはこの事である。

    餓鬼の目に水見えず










2004年04月14日(水) 反日の日本人



 今朝の産經新聞の産経抄に、
「イラクで拉致事件に巻き込まれた国の中で、犯行グループでなく自国の政府を批判する家族や団体が際立つ国は日本だけ」。それがさらなる交渉条件を上乗せできるという誤解を拉致の犯人に与えているというのである。世界で最も反日的なのは一部の日本人だという見方がここでも成立している」
とあった。

周囲を見渡しても多い。反日で、国家解体論のような事を口走るのがいる。が、皮肉な事に、その同じ口が古くは英国、今フランスのボルドーのワインを愛でる。ワインは国そのものなのである。そこまで思い至らないのが悲しい。
なぜと言うのに、ワインはとても厳しい法律で、規制され管理されているものなのだ。作付け面積や、収穫量、糖度、添加物 等などにおいて。

 ドイツ国境近くのアルザスという地方がある。一時ドイツに占領された。
ここはフランス屈指の白ワインの産地だが、戦後に再びフランスが取り戻した時、そこに植えてあった全ての葡萄の木を引っこ抜いて、植え直した。

たかが葡萄の木ではないのだ。ワインは法律である、他国の管理下におかれていた葡萄の木は、他国の法で規定されている。そのまんま使い回しはできない。だから植え替えてしまうのだ。

国なくして、銘酒は作りえない。 国家解体のような事を口走るのは、日本が環海であり他国に接していない事もあって、危機感が薄いせいだろう。
戦後7年間、アメリカが行った、国内にいるソ連(当時)シンパ(同調者)を使って、日本国内の、言論や教育を分裂させた成果が見事なまでに花開いている。

もし「左」という言葉に、何か知的なものを感じる人がいたとしたら、かなり「痴的な左巻き(向き)」である。









2004年04月13日(火) 証文を書け!



 イラクで人質にされた者の家族達、ありゃなんだ!  無事帰って来て、息子が再び危険地帯に行くと行ったらまたいかせるそうだ。行くのは勝手だ、行けば良い。しかし今度、行くなと言う所へ行く時は、日本政府に対して「私は、殺されても、レイブされてもかまいません、一切の助け不要」と書いて、家族に印をついてもらい、届けを出してから、それから行きたきゃ行け。

 この家族は、普段、人権や個人の権利、プライバシーが何のとすぐ声高に言う種類の人達だろうと見ていたら、やっばりでました。なんたらかんたら人権委員会?? んなものイラクにあるの会。

自分は清く正しく思っているのだろう、個人の正義で動いているはずが、窮地に陥ると、子供を助けるために、自衛隊をひっこめろと、自国を相手に居丈高になる。自分の子供のわがままのあげくの結果を、自衛隊の撤退に結び付ける神経は、厚顔無恥と言う他ない。
 
 北朝鮮に子供を拉致されている家族とくらべて、この家族達は何なんだろう。「さーよくわかんねぇ」と横にいた爺さんは言った。


 
 









2004年04月12日(月) 都をどり



 
先日、祇園に都をどりを見にいった。庭園の桜が池に舞い散っている。

     はるの日の うららにさして 観る舞は 

 観劇前の点茶の、點前は小喜美。一服頂いてから、着席。満席の大盛況。地方からも観光バスで来ている。横浜からの観光バスはベンツであった。なぁにベンツといって驚くな。向こうじゃベンツのトラックも走ってらい。日本のトヨタ・日産と同じ車の会社じゃないか。
 
 それぞれに歳を重ねて、以前にも増してまんまるな顔の芸(舞)妓、あごのしゃくれた芸(舞)妓、どうしたらそんなおでこにと思ってしまう芸(舞)妓、さまざまが舞い踊る。よくもこんなに個性的の顔が集まるもんだと踊りそっちのけで鑑賞。
 その中でも、アイドル歌手と浮き名を流した佳つ乃はやっばり際立って目立つ。
 神戸の知人推薦の小亜希もなかなかよろしいな。
 「二条城大広間の雪見」にそろって出ておりました。その襖繪には、(豹のまちがい。訂正04/06/10)と虎が描かれている。京都における江戸幕府の本拠地としてあった二条城の大広間の控えの襖繪は、ここに登城する*大名達を威嚇するためのものだったという。
 
 都をどりを通して、各時代のさまざまが見て取れる。それは色彩にもおよんで、「紫」ひとつとっても、紺桔梗・藤鼠・紅掛花色・藤色・二藍・藤紫・桔梗色・紫音色・滅紫・紫紺・深紫(こきむらさき)・浅紫・薄色・半色(はしたいろ)・菫色(すみれいろ) 杜若(かきつばた、別名 江戸紫(桃屋のあれではありません))。まだまだある…。芸妓の着物はさておいて、日本人の色彩感は、総じて各時代を通じて、けばけばしくなくシックであった。

 嘉永六年(1853)、プーチャーチン使節団の一員として長崎に渡航したゴンチャロフも、「その中(接待の役人達に)に、どぎつい鮮明な色がない事」「赤も黄も緑も原色のままのは一つもなくて全てがその二色、三色の混和色の穏やかな軟らかい色調である…正装の色調はヨーロッパ人のそれと同じである。私は老人が花模様緞子(どんす)の袴をはいているのを5人ばかり見たが、これもくすんだ色であった」
 
 また 安政5年(1858)、日英修好通商条約提携のため来日した、エルギン卿使節団を乗せて来た船の船長オズボーンの訪日記にこんな事が書いてある。
 
 「日本の役人や、ジェントリは、大抵着飾っていたし彼等自身の流儀に従って、服装によってかなりのダンディズムを発揮していた。だが日本では、衣服の点では家屋と同様、地味な色合いが一般的て、中国でありふれている、けばけばしい色や安ぴかものが存在しない事に我々は気がついた。ここでは上流婦人の外出着も、茶屋の気の毒な少女達や、商人の妻のそれも生地はどんなに上等であっても、色は落ち着いていた。
そして役人の公式の装いにおいても、黒、ダークブルー、それに黒と白の柄が最も一般的であった。
 彼等の家屋や寺院は同様に、東洋のどこと比べてみてもけばけばしく塗られていないし、黄金で塗られているのはずっと少ない。この日本人の趣味の特性は、われわれが日本を訪れた際の第一印象のひとつで、多くの第一印象がそうであるように、結局正しいと言う事が解った」。
 「一口に言うと最新の流行色が全部揃っていた」と書いている。
 
 今あげた二人の他に、多くの訪日した異邦人の認識は、この世界でも奇跡と思われる類い稀な独自の発達をとげた文明が、我々が来た事で壊れてしまわないかと言う危惧だった。そうして、それは見事に適中し、今日 あらゆるものが西洋化されてしまい、日本人としての矜持を持たない人々であふれている。
 
 昔日本人と今日本人のわずかな共通項は、「言葉」である。冒頭にあげた句、
 
 はるの日の うららにさして 観る舞は 
 
 はある有名な句をもじって作ったものだが、日本人なら、この大和言葉だけの句を読んで即座に理解できる事だろう。だが今後、タレントや流行作家の詩や文章を載せ、万葉集を教えない教科書でそだった日本人もどきは、ついに毛唐にも日本人にもなれないだろう。

 

 参考文献:
 *美と宗教の発見 梅原 猛 
 逝きし世の面影 渡辺 京一 葦書房
 日本の伝統色彩 長島 盛輝  京都書院

 










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