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2004年11月12日(金) |
「配慮」は「入りよ」 |
「政権は銃から生まれる」 毛沢東
「大国の台頭は必ず拡張の戦争を伴う。台湾は我々の拡張の第一歩に過ぎない。その次は、日本、東南アジア、アジア全体、そして世界全体なのだ」 -人民日報日中論壇-
総兵力600万(陸上兵160万人、陸海空軍284万人、人民武装警察百数十万人)、戦闘航空機 3460機 戦艦 770艇 T-72型対人地雷を世界に輸出(世界中に埋められているT-72 は1億個以上といわれている) また、瀋陽軍区に390発の核弾頭、吉林省の基地及び安徽省石台基地「東風」「巨浪」名の核ミサイル50基(米調査で日本の主要都市、東京・横浜・仙台・名古屋・京都・大阪・神戸・福岡・沖縄に向けられている事がわかっている) を持つ国に、
総兵力24万人、戦闘航空機 480機 戦艦140、(同時に200近くの対敵識別能力を持つイージス艦も、反撃用の武器が取り除かれ、航空戦闘機も、大陸までとべないように、燃料タンクが取り替えられている。)しか持たない国が、上の国の潜水艦が我が領海内を侵犯したら、「配慮」?してやるそうで、国名を言わないそうだ。 「配慮」という言葉は、力のあるものがないものに使う言葉だろう、使い方を教えてやろう。
「首領様のありがたい御配慮で、一か月米4合が人民に配られた」 -治ようせん金主主義貧民狂和酷-
上の国と国内左翼ジャーナリズムは一緒になって、ことあるごとに、何かあると、「軍国主義の復活」だとか、「右傾化」だといって騒いできた。気が付いて見れば、上の通りである。もはや自力で自国を守る事は出来ない。
参考文献:日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 深田匠著 高木書房
2004年11月06日(土) |
首をちょんぎるという事 |
フランスの田舎から帰ってきてすぐに、インターネット上で、イラクの商社に勤める朝鮮人の首切り画像を見た。日本人の画像も流されたようだが、こちらは見ない事にした。同胞であるし、具体的に家族が目の前(国内)にいる。 いくら脳天気な行動を取ったとは言へ、殺されてしまったんだから、せめてもの弔いとして、無念な現場は見ない事にした。 ところで、首をちょんぎるという行為は、昔から世界共通にあって、秦の始皇帝が、十数万人の首を権威を誇示するためにちょんぎったのをはじめ、古代ローマでは、市民に対する処刑も斬首刑だった。 フランスではギロチンで、日本でも、昔は武士は切腹の後、介錯人がいて首を落とした。
この首切りと、かの首切りにどうちがいがあるか。あるのである。 歴史上に刑として現れた首切りは、迅速に事を済ませて苦痛なくしようという態度である。フランスのギロチンなどはそういう思いから考えられた。古代ローマの市民処刑も、キリスト教徒などは、はりつけや、動物刑(蛇を入れた房に放り込んでかみ殺させた)で無惨に殺されたが、市民はそうではなかった。 フランスでも貴族はほとんど首を切られている。首切りは「高貴」な刑だったのである。
しかし、今回見た、朝鮮人の斬首はちがった。 まるで、屠(ほふ)った、食肉動物の首を切るように、横に倒して、ゆっくりとざっくざっくと切り落とし。髪の毛を掴み首を高々と差し上げた。日本の武士も戦って打ち勝った相手の大将の首をこういう風に切り取ったと思うが、これは両者合意の上の事である。
泣き叫び命乞いする朝鮮人を、卑怯にも覆面をして顔を隠し、斜め後ろから横に倒して、ゆっくりと首を切った。 こやつらが、いくら聖戦だといって、たとへ後に政権をとっても、誰がついていくのか。結局テロリストはテロリストでしかない。
金曜日に、だんご三兄弟ぢゃなかった、千住三兄弟の一人、千住真理子のヴァイオリンと、能の金剛永謹の共演(コラボレーション)があった。同日に観世会館で狂言のある日でもあったので、少しどちらにするかで迷ったが、狂言はいつでも見られるからと言う事で、こっちにした。 最初に言う。「木戸銭返せ!」
隣に座ったお婆さんが小声で言った。「お兄さん(おっちゃんなのに)、コラモでぇチョンて何え?」 「わはは…! 共演と言えばいいのに持って回った言い方するのが日本人の中にいるんですよ。」 お婆さんは、何だと言う顔をして前を向いた。 カタカナ横文字、新聞で、サッカーの実況で、野球中継で、あらゆるところで聞かれる。最近は映画もカタカナ横文字のままのが多い。何を気取ってというと、必ず「いや言葉はダイナミックに変化するものだからこれでいい、日本文化の活性化に繋がる」と言う人がいる。 ほとんど意味がない。だだ混乱し、一つの言葉に対して認識が曖昧になるだけである。 例えば映画制作に興味を持ち、コンビュータでその専用ソフトを使おうとしたとき、最初の障害は、内容の難解さではなく、この手のカタカナ語なのである。
曰く、ディレイ、セグメント、インスペクタ、サチュレーション、ヒュー 等 もうこれだけで辞書で調べるにも、ABCが分からない。お手上げ。 もう、*中馬庚(ちゅうまかのえ ) がbaseballを「野球」と造語訳した気概はないのだろうか。特殊な分野の専門家に売るソフトならそれでもいいだろうが、販売対象は一般の人である。 一度 数社に「今までの売り上げの10倍売る方法」をこの事に絡めて手紙を書いた事がある。 反応なし。
さて、「共演」はどうだったか。この奇をてらった企画をした連中は、両方の客を集めてどうしたいのだろう。 「上演が始まると席の移動はご遠慮願います」 そうだろう。 「携帯はお切り下さい」 ごもっとも。 ところがである。開演なって前半が終わろうとする頃にも、ばかばか遅刻者をいれる。係員が能に対して無理解で、すすんで拍手してこちらに促す。 能楽は西洋演劇と違って幕がない、顕著なこれから始まると言う境がない。だから拍手はしない。これくらいの事を始まる前に説明すべきである。 たん譚は、何かがあった場合、2.3の動作で外に出られる位置にいつも席を取る。左肩(もしくは右肩)は必ず通路に接する。挟まれる位置には金輪際座らない。映画館でも端の席がない場合、入館していても帰る。 今回は非常口すぐ横に置かれた、ちょっと高級なパイブ椅子に座った。この位置は目付柱(演者が面を着けた際、狭い視界の中で位置決めのためにある柱、観客にはとても邪魔だが取っ払うわけにはいかない)がちょっと邪魔になるが、通路に置かれていたので足が伸ばせた。 少し遅れてやってきた人達は、パイプ椅子席に座った。偶然にも、たん譚の周りは、礼儀を守ってだーれも拍手しなかった。係員が怪訝そうにこちらを見ていた。 千住真理子の出だしのヴァイオリンの音色はびっくりするくらい奇麗な音だった。ヴァイオリン演奏の中でも技術的に難しいと言われる、パガニーニの24のカプリース(24capricio) を披露したが、聞いていて日本人て真面目なんだなぁと改めて思ってしまった。 まことによく弾くんだけれど、「おもろない!」のだ。
なぜこんな偉そうな事を書くかと言うと、この曲、ワデゥム・レーピンとロビー・ラカトッシュの超絶の掛け合い演奏で何度も聞いているからで、最初聞いたときは逆毛立った。 ベルギーの有名レストランを拠点として演奏を続けている、酔っ払いで女たらしのおっさんが弾くパガニーニの方が心打つ。 解説者が言っていたような、「ストラディバリウスとの出会い」なんてあまり関係ない。
第三部は千住真理子のヴァイオリンと、能の金剛永謹の共演は、世に「油と水」の例えあり。合いませぬ。 狂言に行けばよかった。「木戸銭せ!」
*明治の文豪・ 正岡子規 の筆名の1つ「野球(のぼーる)」が野球の語源であるという説もあるが誤り。baseballの意味で「野球」という単語を子規自身が使ったことはなく、「ベースボール」「弄球」「投球」と言っていた。弟子の河東碧梧桐 と言う人が回想禄の中で、ベースボールを訳して『野球』と書いたのは子規が最初だが、それは本名の升(のぼる)にかけた、野球(ノボール)の意味であった。」と書いたため、「子規がbaseballを野球と訳した」ということになったらしい。
ただいま東京銀座の画廊企画の四人展を開催中、終了とともに来月はじめから少しフランスに行くため、絵の更新はおくれます。向こうから更新しようにも、電話もテレビもない所なので不可能です。今年中には更新します。
2004年09月17日(金) |
わっはっはの尾形光琳 |
最近、尾形光琳「紅白梅図屏風 (国宝)」に当然使っていると見られていた、金箔が使われていないと騒いでいる。先日、その一部始終の映像を見た。 東大の権威ある評論家だか研究家が、科学のメスによって金の含有が無いに等しいと結論が出て、あわてふためいて、あらためて、伊豆の MOA美術館を訪ねて、目を白黒させ困惑しきって、挙げ句、「これは新技法でそれを研究するためのものだ」と新 (珍)解釈を開陳していた。 これを見て、しばらく笑いが止まらなかった。 嗤ったわけは、それならば、その後の作品「燕子花図屏風」には、なぜちゃんと金箔がはられているのか、説明してみよ。どうだ、出来ねえだろう。 研究や実験は、点ではなく線である。それだけポンと出て終わるたちのものではない。評論家、無自覚な日本画家、なぜそういうことになったか、多分永久に分からんだろうから、たん譚の解釈に耳を傾けよ。 多分今の時点で誰も言っていない、一私見である。光琳の箔押しの痕が、京友禅に使われる渋紙を使った、型押しらしい事はわかっている。 光琳の生家は染物屋だった。 光琳のやった事は簡単にいうと、西洋の絵画でいうとトロンプルイユ (だまし絵)なのである。箔押ししたように光琳は型紙を使って描いたのである。
 
ここで、なぜだろうという疑問が出てくるのは当然で、そこから先は、口先だけの東大だか、へっぽこ研究所の先生には永久に分からない、にもかかわらず、たん譚センセーには、たちどころに光琳先生の冷や汗もののご苦労が手に取るようにわかったのであった。
モーツァルトの未完の曲「魔笛」は、スポンサーに金をもらって書いていた。天才に多い後先考えずに金を使ってしまい、やむにやまれず仕事する。光琳もそうだったと確信する。「紅白梅図屏風」の注文を受けて当然金箔などの材料費としての準備金をもらったに相違ない。
ところが使っちゃったんだなあ、そこでどうしたか、後は言わずもがなである。必死になって 「見せかけた」のである。 なぜこのような事を言うかというと、かって無名とは言へ、同様な経験をしたからである。時代が変わっても人の考える事は変わらない。 今は昔、ある縁で、大きな家を借りた事あり、持ち主は家族を伴ってイタリアに赴任していた。 家の一階最奥の部屋をトレーニングと鍛錬の部屋にあてて、バーベル、ベンチなどを置いていた。そのバーベルの鉄のおもり (プレート)を、それぞれ重ね合わせて畳の上に直に置いていた。 梅雨の時期を挟んで三ヶ月ほど欧州に旅行に出かけて家を空けた。 帰国して、トレーニング再開しようとプレートを持ち上げたらなんと、プレートから出た錆がくっきり畳みについていた。十何カ所も。
しばらくして、引っ越す事となった時、困ってしまった。畳は比較的新しく、丸替えするには、当時経済的に無理だった。 そこでどうしたか。思案の末、アクリル水彩にカゼインを混ぜたもので、錆びがついた部分に畳色をあわせ、一目一目そっくりに描いていった。プロにはともかく、素人目ではじっと凝視しない限り、絶対見破られないくらい色を合わせて描き込んだ。 やがて引っ越しとなり、裏庭の松の木の虫食いを言われたが、畳はなんのクレームもつかなかった。 …という経験から、きっとそうにちがいないと直感したわけである。 これが真実! か?
2週間くらい前の午後遅く、雷が遠くで鳴っている中、雪見障子を開け放ち庭に向かって座り毎度の瞑想の時間。両脇に2匹の猫を従へて。瞑想は半眼で行うので景色はぼんやり目に映る。 初めてしばし、庭の楠の木の向こう側に隣家の柿の木があって、そのすぐ上で青白い光の玉が見えたと思った瞬間、「ドーン」という音とともに停電した。 このとき、二匹の猫は一メートル位丸まったまま飛び上がった。 夜九時頃電気は復旧した。 サーバーとして使っているコンピュータはつけっぱなしにしていたので心配したか゜無事何事もなく起動した。
ところが、台所の換気扇が全く動かない。どうもこれが被害にあったようだ。翌々日に換気扇を新調して事は済んだと思ったが甘かった。サーバーに使っている親コンピュータが、何の前触れもなく突然ストンと切れてしまった。 やはり、雷の影響を受けてしまったようで、現在神戸の病院に入っている。 雷の大体の距離は、光と音の関係から距離が計算できる。いつも無意識に計算してて、あまり近いとコンピュータを消すようにしていた。が、今回はそんな時間などなかった。
山で遭わなくて本当によかった。山で雷に異常接近すると、もっているピッケルがジジジッと唸り、髪の毛が逆立つ。
映画「アーサー王」を見た。こういう英雄譚は昔から好きでよく見ている。 アメリカの西部劇など、小さい頃からよく見ていて、大人になってから、過去いろいろ見た西部劇がかなり史実に忠実で、悪漢、主人公も実在したと知ってびっくりしたことがあった。 今回見た「アーサー王」はちょっと変わっていた。ありゃ、「七人の侍」です。 その「七人の侍」の監督 黒沢明は日本映画の代表視されてるが、黒沢映画はハリウッドスタイルの日本映画である。特に*ジョンフォードに影響を受けている。
アーサー王と言えば「聖剣伝説(エクスカリバー)」と「トリスタンとイゾルデ」が話を膨らませ面白くする。ところがエクスカリバーもトリスタンとイゾルデの恋愛話もなし。期待していたエクスカリバーのシーンなんて、火事場の泥棒野郎見たいにささっと持ってってしまう。 ローマがヨーロッパを席巻していた頃。今のイギリスも支配下にあった。帝国の運命でその力は徐々に弱まり、イギリスからも撤退をはじめる。撤退時のローマ人達を守り送り届ける仕事をアーサー達が引受ける…。詳しい物語は映画で見てもらうとして、で、アーサーを慕う円卓の騎士達、映画で見ると日本の武士と重なるが、実の所は、これはもう天と地ほどちがう。長々と違いを書き連ねるより一つの事でまったく異な物だと分かる、当時当たり前にあった挿話がある。
ある日の午後、野試合があった。日本ならば粛々と事が進み、一つの統制された下、試合が進んでいく事はまちがいない。 では、西洋の騎士達はどうしたか。戦って負けた相手から馬、甲冑、金品を奪い取って自分の物にする。剛胆な騎士は、戦利品を金に換えるための計算をさせるため、僧侶を雇って供としたりした。殺し合いが目的ではなかったが、死傷者は出る。野試合の後は負傷者が血まみれで呻いている、死骸は放ったらかしであった。*2本当の所は、趣味と実益を兼ねた悲惨な遊びの延長でしかなかったようだ。
円卓の騎士の一人トリスタン、ダンテの新曲にも出てくる、南フランスペリゴールの城主で騎士だったベルトラン・ド・ボルンという人も今に名を残しているが、ともに、トリスタンは、恋愛譚で、ベルトランは、文学に「吟遊詩人(トルバドール)」で名を残したからである。「騎士道」の士としてではなかった。 12世紀頃、「騎士道」としての儀式の肝心は、先輩騎士による「峰打ち」だった。その他、司祭の祝福、武具の通夜などあったようだか、「道」と呼べるような思想的のものはなかった。
*ジョンフォード 「西部劇の神様」職業:製作者、監督、俳優、脚本家、撮影監督、美術監督、編集者、スタントマン 代表作:『駅馬車』(39)『怒りの葡萄』(40) 他 太平洋戦線(海軍少佐)やヨーロッパ戦線で戦争ドキュメンタリー映画製作。ミッドウェイでは零(れい)戦の空爆を撮影中に負傷、野戦撮影班を率いて撮影したドキュメンタリー『ミッドウェイ海戦』(42)と『真珠湾攻撃』(43)はアカデミー短編ドキュメンタリー賞。戦後、戦争での敗者の美学を描いた『コレヒドール戦記』(45)、OK牧場の決闘を描いた『荒野の決闘』(46)を発表
*2「フランス中世史夜話」渡邊昌美
先の日曜、京料理屋の主人の誘いで、お麩屋(麩屋町にはなぜかない)でやるという「水の會(「お」はつきません。)」というのに夕刻行ってきた。この會は、京都の有名な料理屋・老舗Bar・麩屋などが集まり開いている。 麩屋(ふうや)は、屋号「麩嫁(ふうか、-仮名-」といい。府庁前畔にあって典型的な京町屋の佇まいである。ここの家前の15~6畳ほどの駐車場と、家の左右の空間を利用して、右側には子達のために金魚すくいが、左隣には、美山からの蕎麦の屋台、駐車場には、焼き鳥屋、お好み焼きでもちぢみでもない上等なクレープに似た具沢山焼き物。焼そば、肉の串焼きなどが出されている。 家の中は玄関奥、厨房 工場 居間、すべて解放されて、好きなところを見つけて、落ち着き、調達してきた食べ物と一緒に、酒屋にあるような大きなガラス張りの冷蔵庫ふたつにある、ビール・酒・ワイン・焼酎・他を勝手に好きなだけ飲んでもいい。最奥は特設立ち飲みバーが開かれ。まるで小村祭だった。 この食べ物を全て一流の料理屋の主人、店の板前が真剣に作っている。屋台の横には、「寸志」の箱があった。しかしこれは今回の會の主旨「ドイツ・トーデンドルフのシュロス(城)・ミツコに日本庭園を作る」のための寄付とされる。 一流が作ると、似たようなものでも祇園祭にでる屋台の、茶髪の兄ちゃん姉ちゃんのつくるものとは違う。 笹でくるんだ、こぶでしめた白身魚の寿司は、あまりの美味さにうなってしまった。大皿にてんこ盛りのてんぶら(薩摩揚げ)の中に入っていた、ごんぼのかりっとした歯触りにもうなった。美味い!! お麩をからっと油であげた突き出しもてんこ盛り、俵の赤飯、お稲荷さん。京壬生菜をちらし、梅酢であえた田舎蕎麦。 日本庭園を作ろうとしているのは、今日都外国語大学(きょうとがいこくごだいがく-仮名-)の、京都在住40年だかの独逸人教師(齢70超)で、画家でもある人。名前を裸出露麩(ラデロフ--仮名-)という。 お腹一杯になる頃、競売(オークション、各人持ち寄りのもの)がはじまった。売り上げはすべて日本庭園造園のために寄付される。漫画「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん、俳優のタク(TVによく出るらしいけれど見ないから知らない。 注* 渡る世間は鬼ばかりに出ている人で角野卓造と言う人だそうです)さん、陶芸家の辻村史郎さんもオークションに参加、出品していた。 北見さんは骨董級の二眼のローライフレックスを出品していた。面白いもの、版画、絵画、肉筆チベット密教の曼陀羅画。銅の手打ち鍋、ワイン、鞄 などが出て、人気のないものには宝くじ10枚がつけられた。 音頭をとって、ハンマーを振るったのは、大徳寺真珠庵のなまぐ、ぢゃなかった住職で、ユーモアがあり、和気あいあいの内に終了した。都合全部で100万円になった。 一つ気になった事、アロハを来ている人が目立った。北見さん、タクさん、他、たん譚、全部同じ銘柄、波波寿(ぱぱす-仮名-)だった。おっさんの趣味は一緒らしい(そこいらの、同じブランドもの持って喜んでいるおねえちゃんと基本的に変わらん)。 こういう集いにさりげなく*越後上布の薄物で現れたら、これ以上の伊達ぶり(ダンディズム)はないと思う。ま、これは夢物語だが。 *小千谷縮でなら出来そうだ。 *越後上布(重要無形文化財) …苧麻(ちょま)の茎の皮を剥ぎ、晒して、幾行程をへ、一本の繊維にして、さらに手で一本一本つないで糸にする。約1000万円(仕立代別) 小千谷縮 …新潟小千谷市で生産 しぼ'(皺状の凸凹)のある麻織物 高級スーツ一着分で買える。
宵山の室町、*役行者山(えんのぎょうじゃ山)、を祭り公開している民家の奥深く、二つの蔵の後ろにそびえる無機質なマンションビル。京都を皆が持っているイメージ通り、これからも観光の都で売りたいなら、これではだめだろう。 外国コンプレックスのない、環境設計家が出ないとだめた。
昨日夕刻、庭で 日暮しが鳴いた。紫式部が小さな可憐な実をつけ、山ごぼうも花が咲いた。蝉は朝四時半頃に判で押したように鳴き始める。
部屋の中では、四季に全く関係のない、コンピュータの内部をいじる作業が続いている。ファンがない上に、新しいハードディスクに交換してから起動しているのが分からないくらい静かになった。深夜三時、柱時計のカチコチの音の方が大きく聞こえるくらい静かだ。
*役行者 えんのぎょうじゃ 生没年不詳。7世紀末から8世紀初めに実在した、修験道の祖とされる呪術(じゅじゅつ)師。役氏の出身で、名は小角(おづの、おづぬ)役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。多くの奇跡をおこしたとつたえられるため、架空の人物とする人もあるが、平安初期の「続日本紀」の記事に流罪になったとあることから実在した人物と考えられている。
2週間くらい前に、フードプロセッサの鋭い刃で、小指を切った。 去年だったか、大型のカッターナイフで段ボール箱を解体している時、勢いあまって、刃が折れて段ボールに突刺さったその上に、カッターを握っていた手の親指が激突した。血がどくどく出てとまらない。タクシーを呼んで救急病院に行った。 8針縫った。見ていてこれは局所麻酔なんてかけなくとも、我慢すれば自宅で自分で縫えるとその時思った。
小指は、つめ下から、第二間接近くまでぱっくりと口が開いて、5~6針縫えばふさがる位の傷のように思えた。傷を縫う針はクエスチョンマークの「?」の点を取った部分、もしくは洋服ハンガーのかける部分のような特殊な形をしている。 自分で縫ってみたかったが、家にはそんな針は置いてない。
そこで、まず、横になって小指の両側をつまんだ状態で、上に伸ばして、5.6分小刻みに中風のように震わせ、出血をある程度止める。そうしておいて、70%アルコールで消毒して、バンドエイドでパックリ開いた傷口を閉じるように巻き付け、包帯で補強した。
自分でやったら変な痕が残るかも知れないと思ったが、かまわずほっておいた。でどうなったか。まだ現在皮膚が完全には出来てないようで、ちょっとものに触れると飛び上がるが、なんと、病院で8針だかぬった縫い痕は、いまだに痛々しく親指の先から根元まではっきり痕跡があるが、小指の方は、パックリ割れていた所さえ分からない。
10針くらいなら、わざわざ縫う事はないかも知れない。その方が傷跡がめだたない。もっとも、変な折れ方した刃で切ったのと、鋭利な刃で切ったのとは違うかも知れないが‥。
次回は麻酔なしで、自分で縫ってみたいと思う。
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