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2005年11月30日(水) 「myrte21」のmyrteの意味



お前のメールの、@の前の部分にある、myrte21というのは、どういう食いもんや(くいもんてあんた!)?と聞かれて、以前たん譚に書いたのを思い出して、探したらあったので、そっくり、も一度貼付ける。




酒(myrte)と薔薇をめぐって。(2001)



 最近、茨城に住む親しい友人の絵描きが、ワイン購入リストを送ってくれる。これがもう、どこの酒屋で買うのも嫌になるくらい安い。本来なら畑のちがう、世界ではけっこう名を馳せている工業関連の会社がなぜか、ワインを扱っている。6000円のカルボーニュが2800円という具合。何ケースか買うことにしてふと、リキュールの所に目をやると、ミルト・アイスとあった。フランスでミルトのリキュールの存在は知っていたけれど、向こうのマルシェでも見つけることが出来ないでいた。
南仏に可憐に咲く白い花でMyrte [mirt]と読む。それが、リストにあった。
この植物はその香りゆえに、ハーブの一種としても数えられている。
 南欧のような比較的温暖な場所に育つミルトの木は、1年を通して緑を保つ為、この木の原産地である南欧やギリシァなどでは「不死の象徴」ともされていた。
ミルト の「不死の象徴」という一面は、欧州でもボヘミア地方に伝えられているそうだ。
ボヘミアでは、「再生」や「永遠の生命」を願って、ミルトの葉や花を葬儀に使うそうだ
 この花の日本訳は、「銀梅花」「祝いの木」などとされている。

Myrteは以下のような場面に登場する。

クラシックでは、シューマン:歌曲集に、ミルトの花、2つのヴェネツィアの歌がある。

●献呈(「ミルトの花」より)Widmung
●月夜(「リーダークライス」より)Mondnacht
●ミルトとバラをもって(「リーダークライス」より)

また、
絵画では、モーリス・プリアンションの「ミルトのある静物(1940)」がある。

ゲーテの詩、ミニヨン中に

レモンの花の咲くあの国を知っている?
ほの暗い葉陰で金色のオレンジが燃え、真っ青な空からは風がやさしく吹く。
そしてミルトの木は音もなく月桂樹は高くそびえるあの国を。
その国にあなたと一緒に行きたい!
私の愛する人、あなたと一緒に行きたいのです。
…以下略

ヘルダーリン の詩にも、

プラタナスの樹かげ
花々のあいだを縫ってケピソスの流れはさざめき
若人たちは栄誉を夢み
ソクラテスは人の心をとりこにし
アスパシアはミルトの繁みをさまよい
友愛の朗らかな叫びは
かしましい広場のさなかからひびきわたり
わがプラトンはかずかずの楽園を作りなし

祝祭の歌は春をにぎわせ
霊感の奔流は
ミネルヴァの聖なる丘から
女神を讃えよとばかりに流れ落ち
百千の甘美な詩興の刻には
さながら神々の夢のように 
老いの影は消えうせた
             『ギリシャ』川村次郎訳 河出書房新社


最後に車では、BMWの328iセダンにミルト・ウッド・パネルが標準装備されている。









2005年11月11日(金) 仰天2題(下 -1- )仙人現る !    



 南フランスの田舎にしばらくいた。十月の初めに帰ってきた。南フランスというと、大抵海辺の風光明媚な、ニースだとかカンヌだとかを思い浮かべるのだろうが、85年に南仏に初めて訪れ今日まで海辺の都市や町は行った事がない。
偏に、興味がないの一語に尽きる。だから人から聞かれても答えようがない。

 でまたあきもせずに、いつもと同じ所の同じGite(貸別荘)と思って予約Faxを入れおいたのに、あら大変!去年、2棟続きのいつも借りている大きい方のジットには、静かで心地がいい(TV.ラジオ無)事を知ってか、ペコポン大学の教授(プロフェッスール)が長期滞在、住んでいた。この先生は今年、同敷地内の平屋一戸建てのジットに移って、その後に新たに、ボコペン大学のドクターが、いつもたん譚が逗留するジットを借りていた。
そのことが、フランスに向かう8日くらい前こちらからの確認電話でわかった。
多少泡食ったがなんの、インターネットの時代である。ジット協会につないで、星(epis)を選び、条件を選択してあっというまに、メネルブ(menerbe)村の農家のジットをきめた。

それはよかったのだが、行き方の欄に、
「ボーメッツで、メネルブの方に向かって行く、3キロ行きそれからボーニュウの方へ左に曲がり2キロ行き、ラコストの方へ左に曲がり、一キロで、左に糸杉の垣根の家」
なんて書いてあるきりで、こんな説明で目的の農家につけると思う方がどうかしている。大体方角が書かれていない。ミシュランの地図には、N100とか、小さい道にはD14とか丁寧に記されてあり、これが読みこなせると多少迷っても必ず目的地までたどり着けるようになっている。
一本道ならいいけれど、地図と照らし合わせてみるに、ぶどう畑の中の道は、多く枝分かれしてとてもこの説明文ではたどり着けそうもなかったが仕方ない、

向こうに着いて、飛行場からとりあえずボーメッツまで行って、そこから書かれてある通りに、だいたいの距離を測りながら行ってみた。
この辺は何度となく来てはいたが、多く点在する中の、特定の農家を捜すとなると話は別である。「糸杉」で囲まれた農家なんて珍しくもないし、あちこちにある。
これはメネルブの村(centre ville)へ一旦行って、カフェの親父にでも聞かないとたどり着けないと思いながら車を走らせた。
 ところがである。説明文のとおり、野を超え山超え、ほとんど勘で行ったら、ぶどう畑の向こうに,それも高さ10m,幅20m位の巨大な糸杉塀が、こつ然と現れた。
それでも、こことは限らないので車を止めて、庭をいじっているおばさんに聞いたら、はたしてここであった。なんと一発で到着してしまった。
迷う時間を考えての出発だったので、早く着き過ぎてホテルで言う所のチェックインは午後からで、いれてもらへなかった。
それを幸いに、イルシュールラソルギュ近くのスーパーマルシェに、滞在分のワイン・食料他を買いに行った。その日午後、無事契約を確かめ合って、日本の都会では経験出来ない、真の静けさの中で眠った。










2005年10月30日(日) へんな夢を見た。



台湾の李登輝さんが、ニューヨークを訪れた。ブッシュにお土産を出した。どんぐり400個。









2005年10月18日(火) 仰天2題(上)



 先日、南仏での滞在を終えて、最終日はパリにいた。この日の夕飯は、南西地方料理を売りにして、ミシュランの星**をもらっている「Helene Darroze」を日本で予約していた。めずらしい事に、女料理人で経営者でもある。 
京都での予約は最初FAXでし、返事は出来たらE-mailでくれと書いておいたら、Eメ−ルできた。「必ず一日以上前までにコンフェルマシオンせよ」とあり、つまり、予約の再確認をせよと言う事で、ここまではどこでもそうである。ところが、こちらが指定した時間を勝手に三十分早めて、午後7時30分に来いとなっていた。その上、お前の滞在するホテルを知らせよと書いてある。どこのホテルに泊まろうが知ったこっちゃないだろとは思ったが、日本を出る直前に、予約確認を兼ねて、メールを出して置いた。田舎にいる間は連絡がとれないので そうした。通常はそれで十分なのだが、今回はちがった。

 南仏で短い夏休み兼、取材を終えてオルリー空港からパリへ。ここ数年常宿(簡単にインターネット 無料接続が出来るのが主たる理由)にしているホテルに着いて、ネットで産經新聞他を読んでいると、電話が鳴った。
フロントからで、電話がかかってきていると言う。家人が出た。目を白黒させている。ちょっと話して何事か了解したらしい。
かけてきたのは、「Helene Darroze」で、ようするに、「ほんまに来るんやろなー?」の念押し電話!!であった。こんな事は初めてで、そこまでする、過去三ツ星二つ星その他料理店、皆無であった。今まで訪れた店とたった一つ違うのは、「女の料理人で経営者」だと言う事だ。なんだか、執念深さを感じてぞっとした。「そこまでするかぁ!」
まだある。レストランに着いて、フロントで、予約した誰それと告げている時に、テーブルに拡げられていた帳面が目に入った。予約とおぼしき走り書きがびっしりと書かれていて、とても、今夜さばききれるとは思えないものだった。飛ばし飛ばし赤線で消してあるのは、もう来ているのか。

 午後7時30分といえば、日本と違ってパリの高級レストランは宵の口で、閑散として、食っているのは、日本人観光客位なものである。ここでピンと来た。
ははぁ、予約時間を勝手に早めて指定してきたのは、日本人を早く食べさせて帰して、もう一二回、回転させる腹づもりなのだろう。そうは行かない、ねばってやるゾ。

 案内された席は、二階奥の上席だった。やはりと言うべきか、早い時間に関わらず既にほぼ満員で、宴、酣(たけなわ)であった。話す言葉から、イタリア人、アメリカかイギリス人の観光客だとわかった。多分早い時間に逆指定されたに違いなかった。案の定、着席してほどなく隣のカップルは勘定して席を立った。ちょっとして、すぐに違うカップルが席に着いた。満員。

 地方料理にしては、盛りつけや、色使いは洗練されていた。フランスも健康ブームで、再び、量が控えめのヌーベル・キュイジーヌなんだが、どこか片手落ちなのだ。チーズデザートの後、お茶の前に、横4・5列が2段になったガラスケースに入った、ヌガーやキャンデーが出てきて、さあ、選べという。

これでは、いくら主菜に気を配っても、こんなのに手を出したら、総じて高カロリーになってしまうのが、分からないのだろうか。これは、先日までいた南仏の星*のレストランもまったく同じサービスの仕方であった。目はパリにいつも向いていて、田舎ですぐまねするのだろう。チーズとデザートを断って、アンヒュージョン(香草茶)だけにしたら、「何て亊するんだ」というような顔をした。それでもお茶が終わる頃、12時近くになっていた。ザマミロ。その間頻繁に席交代があった事は言うまでもない。

 勘定を済ませて階下に降りると、テーブルなどありようのないと思っていた場所のカーテンがわずかに開いていた。それとなく見ると、その中にもテーブルがしつらえられて、数人が食べていた。そんなに広いとも思えないこの建物の中で、いったい何十人が夕飯を食べ(させられ)たのだろう。女経営者恐るべし。ホテルまで電話かけてきて確認して、一体この日は何巡したのだろう。料理の味付けは総じて濃く、残したものもあった。外に出ると、来る時は降っていた雨はやんでいた。










2005年09月14日(水) ♪村の鍛冶屋は…。



♪〜しばしも止(や)まずに槌うつ響き
(一時、「休まず」に改訂されたがもとにもどされた。)
飛び散る火の花 走る湯玉
ふいごの風さえ 息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋〜♪
(鍛冶屋の減少とともに昭和55年度教科書から外される。教科書から消えた唱歌・童謡より)



この鍛冶屋、江戸時代の身分は? 
鎌を作ったり、鍬を作ったりする人達の事だが、当然、士農工商で言うと「工」と思っていた。ところが、どうもそういうものでは無いようなんである。
驚いた事に、どうやら学んできた教科書で違っていた事がわかって、愕然とした。
それも最近になっての学説ではなくて、教科書によって早い段階から、そうなのであった。
どう言う事かというと、「士農工商」という言葉は、支那の古い文献にはでてき、江戸時代そういう言葉も現れるが、実体は、例えば、町に住む鍛冶屋は「町人」、村に住む鍛冶屋は「百姓」に分類された。
分け方としては、「武士・百姓・町人」の 三つの身分を区別していた。
カースト制度は、床磨きは代々床磨きだが、日本の身分区分はカーストのように、血統では分けない。
扶桑社の新しい歴史教科書によると、 農民は「百姓」の部分集合で百姓=農民ではない。町民・百姓が武士に取り立てられる例もあり、逆に武士の次男三男子が農家の養子になる事も多々あったという。町人とは、武士以外の、城下町に住むさまざまな職業の人達をさし、百姓は,村に住む人をさし、漁業や林業を営む人達も百姓に分類された。「名字」も、町人・百姓も持っていた。

これは初耳であった。ところが、この三分法の記述はすでに、東京書籍は1966年から「士農工商」併記の形で出始め、97年には「武士・百姓・町人」となっている。教育出版・日本書籍は今にいたるも、「士農工商」のままである。
扶桑社の新しい教科書は「武士・百姓・町人」の三分法をとっている。
97年に教育出版・日本書籍で学んでいる子供は硬直した歴史観を持ち、東京書籍・扶桑社(は今年)で学んだ子供は生きた歴史観を持つことになる。


  参考文献:「日本文化 夏号(平17・22号)」−拓殖大学日本文化研究所編−













2005年08月18日(木) 教科書(2)



 届いた扶桑社の歴史教科書と公民教科書(市販本)をざっと読んだ。公民の117Pに面白い項があった。41「世論とマスメディアの役割」中、「マス・メディアの問題点」の説明文に、「マス・メディアは、常に正しいとは限らず、誤った情報で国民をミスリードする事もある」と書いてあり、例として、最上段右隅に「特ダネ欲しさに事件をねつ造した例もある」と、「↑」のさきに、かって朝日新聞記者が珊瑚にみずから落書き、傷つけて、「こんなひどい事をする奴がいる」と捏造し記事にした、それがそのまま載せられている。芥子粒位の小さな字だが、「朝日新聞社」とはっきり読める。

なるほど、これで朝日新聞が、社説にまで「こんな歴史教科書でいいのか」と、国定でもなく検定済の8社のうちの一社でしかない、扶桑社の教科書を目の敵にする訳がわかった。多分、朝日は、公民にも目を通しているだろうから,載せられている事は知っているだろう。だからといって、「公民教科書」を直接非難すると逆宣伝になって、読まれたくない、事件を知らない、若い層まで「公民教科書」を手に取るかもしれない。それは避けたい。だから執拗なまでに、歴史教科書=扶桑社を攻撃する。

朝日新聞しか読まない善良な読者は、そんなにひどいのかと思ってしまう。これを世論操作という。かくて、扶桑社反対の声が巻き起こる。思うつぼである。
末期症状である。









2005年08月16日(火) 靖国神社昇殿参拝



 今は昔、物事がわかるまで、戦争は無条件に悪、日本悪、他、無意識の内に否定的な見方をしていた時期があった。多くは今でもそうだろう。
だから、相変わらず首相はこの日に及んで、「近隣諸国に迷惑かけました、もう戦争は起こしません」などと談話して自己満足している。あまりな歴史認識の無知である。

 先の戦争のきっかけ、アメリカからの最後通牒、俗にいう、「ハル・ノート」はハルが書いたものではなく、ハリーホワイト(財務省次官補)という、米政府内部に深く入り込んだ、共産主義者でソ連のスパイだった人物によって書かれた事がわかっている。もちろん、日米を戦わせ、相殺させて共産主義を広めるために。当のハルはいやがっていたらしい。後に「こんなめちゃくちゃなもの(ハル・ノート)を突きつけられたら、小国のモナコ公国でも宣戦布告するだろう」といっている。

 戦争を始めた、張本人で悪党のように思われている、日本側の首相で大将でもあった、東条英機は最後の最後まで戦争回避のために動いていた事もわかって来た(東条英機供述調書。GHQはこれを発禁処分第一号にして,日本人の目に触れないようにした。最近本になって出た)。

 時のアメリカの最高司令官、マッカーサーは昭和26年五月三日、米軍上院軍事外交合同委員会で、はっきりと、「日本が戦争を始めたのは、侵略ではなく、自国の安全保障のための防衛戦争であった」と証言している。

小泉首相は、これらの事を知ってもなを、世界中に悪かったと言い続けるのか。

今年、日露戦争100周年、大東亜戦争60周年。先人達のご苦労を偲び、15日靖国参拝した。靖国神社では、西村真悟さんの呼びかけた人達に混じって、正式に昇殿し参拝した。

普段はネクタイを締める事少なく、ほとんど真夏のネクタイ・ジャケット姿は、拷問に近かったが、やむにやまれぬ開戦で、死んでいった人達を思うと、不思議と数時間炎天下のもと(昇殿は社内)でも耐えられた。昇殿参拝が終わり、階段を下りたところで、お神酒が配られた。東京の真ん中とは思えない、蝉時雨の中でいただいたお神酒は、深く胃の腑と心にしみた。

 午後からの記念行事で、終戦後日本に帰らずインドネシア独立のために戦った(映画「ムルディカ(独立)17805」を見るといい。ちなみに、独立記念碑に彫られているこの17805の意味は、日本に感謝して、日本の皇紀「2605(=西暦1945年)8月17日」から、日・月・年で書かれている。)、日本兵(インドネシアでは英雄として祭られている)とともに義勇軍幼年兵として一緒に国のために戦ったアイマド・ダマさんも参拝に来られていて、飛び入りで壇上に立たれた。これを我が国の首相はどう思うのか、聞いてみたい。

8/16 午後 たん譚に載せてから、少し書き換えました。









2005年08月11日(木) 下山



登山ではない。文字通り富山駅からバスで一挙に室堂まで行き、北アルプス立山室堂から下山した。年一回の親類の集いが、今年は弥陀原高原だったので、せっかくだから,現地集合ということにしてもらって、歩いた。

 室堂は、大にぎわいで人でごった返していた。
天狗小屋の情報によると、日本人の登山客は少なく、台湾人の団体観光客が非常に多いとの事で、実際に台湾語が飛び交っていた。大陸の支那人の金持ちは「登山」なんか金輪際しないだろう。何の得もない事を金だしてするわけがない。その点、台湾人は感覚が日本人とよく似て、俳句も嗜む。
 ごった返す室堂を後にして、かってガウランド(「日本アルプス」呼称の命名者)、アーネスト・サトウ(英国領事館書記官 後、公使、は幕末富山湾から見た立山連峰の勇姿に感動して、外人で初めて書き留め紹介した。)や、ウォルター・ウエストン(英国山岳協会会員、牧師。 上高地に碑がある)が苦労して歩いた旧道をとった。

 ガイド本には、役行者(えんのぎょうじゃ)が祈祷した修験道の道は整備され推奨されているが、選んだ旧道は、X… 現在不通とかいてあった。
 が、地図をよく読むと、森林地帯だし、急峻な岩峰群があるわけでもなし、廃道になっていれば、学生時代によくやったように、強引に林道に向かって降りればいい。
そう思って決行した。
 何年も山から遠ざかっていたので、登りなしの最初からの下山は膝にこたえた。だけれど、それにも増して、深山を歩く楽しさは言葉に表しようがない。木のざわめき、鳥のさえずり、岩間をぬって流れる沢の音、深い靄、適度の緊張感。旧道には人っこひとりいない。静謐そのものだ。

 熊に出くわした時にあわてないように、心の準備をして歩いた。4・5時間の短い山歩きだったが、終盤近く、旧道を来る小学生10人位が一組になった3組とすれ違った。前後を指導員が挟み登っていった。
すれ違いざま、それぞれがこちらに挨拶してくれる。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
山では登り優先なので、こちらは、端によけて通り過ぎるのを待つ、その時に言ってくれる。いい子達だった。
ほどなく,弥陀が原に出、ホテルに入った。

 翌日は、美女平のブナ林滯を歩き、巨木の下で,ひんやりした微風を感じながら、おむすびを食べ、立山を後にした。












2005年08月06日(土) 象さんゆうり…か?(2)日本人と支那人



70 年前の支那、2005年04月09日(土)六畳襖の下張りの頃の日常茶飯事。

日本人…以下、
支那人…以下、

芝居見物でみる。
可哀そうな場面、例えば、息子が死ぬ、嵐に家を吹き飛ばされるなど、涙を誘う場面。

…深く我が身の事のように思い、哀れみ同情し、泣く。他文明国も似たような反応。
…驚くなかれ、ここで大爆笑が起こる。(古い宣教師や商人の日誌にも同様の話がたくさんある)ところが、金で損した話になると非常にがっくりし、ヘナヘナになる。

チップでみる。
下男又はクーリー(苦力)がよく働いたので、相場より多めのチップを与えたら。
…素直に嬉しがり、主に感謝する。他文明国も似たような反応
…こいつは,相場を知らないと考えて、その数倍を要求、恫喝する。

教科書
…国を愛する内容であることはあっても、排外的なものではない。(今は逆に拝外的)
…極端な排外的内容。孫文の「三民主儀」に外国資産に関する件がある。そこでは、「外国人を追放すれば資産はすべて中国人のものとなり、その恩恵は国民全体に行き渡る」としている。そして、山分けしたら一人当たりどれくらいの額になるか、具体的数字まではじいている。

カンニングしてみつかったら。

…叱責を受け、それなりの処罰がある。
…ある高校で二人の生徒がカンニングをしたので、アメリカ人の女教師が厳しく叱責した。逆恨みをした二人の生徒が、生徒会や校長とグルになってこの女教師に迫ったため、生徒総会の席上でなんと、謝罪させられたのである。

恩を受けたら。

…感謝の心を持つ。
…恩と感謝は特に関係ないと考える。滯中米国人女性が、奴隷扱いされていた子供を養子にして世に送り出したが、後年、その子は、排外運動の先頭に立ち,その育ての親を殺してしまった。(最近も九州で、親代わりになって、中国人留学生の面倒を見た日本人が、その中国人留学生に強奪され、殺されている)

女医療宣教師の半生をかけた体験
「三十四年も片田舎で中国人のために医療宣教師として勤めました。義和団事件の頃だって病院を離れなかつたわ。私には向いてなかったんです」かれこれ三十年以上も病人を看病し、衛生指導に当たった。が…、希望が持てなくなって六二歳になって帰国。
「ここでは何をしても無意味で、感謝もされないのです。本当に残念です」

池で溺れる人を見たら
…反射的になんとかしようとする。
…数メートル離れた所で人が溺れても、ただ見ているだけである。よくあること。

アメリカ人領事が目撃。揚子江上流でのこと、豚と中国人を満載したサンパンが岸近くで波に呑まれ転覆し、豚も人も川に投げ出された。岸で見ていた者は直ちに現場に漕ぎ出し、我先に豚を引き上げた。舟に泳ぎ着いた人間は、頭をかち割って殺し、天の恵み、とばかり新鮮な豚肉を手にして、意気揚々と引き上げ、後は何事もなかったかのようにいつもの暮らしが続いた。
 (最近も北京の湖で女子学生が溺れたが,誰も助けなかった。逆に、貸しボート屋は、「験(げん)が悪い。「溺れた女子学生の乗っていたボートは、貸せなくなる」と遺族を訴えた。)


…別に問題もなく、行える。
…一人旅は危険なので、必ず知り合いか身内と一緒に行く。もし途中で倒れたりすると、誰も助けてくれないばかりか、身ぐるみはがれて殺される事もある。

子供が死んだら
… 子を思う親心は世界共通と思っている。手厚く葬る。
… 親は平然としたもので、ぼろ切れか何かで包んで問に合わせの木箱に入れ、「どっかに埋めといで」で終わり。葬式も何も出さない。これなどはまだ良い方で、田舎では城壁の外やそこいらにほうり捨て、犬の餌になる。(最近見た、南京大虐殺のやらせ写真の一つに、ぼろきれのように、死んだ子供を片手でぶら下げているのがあったが、まさにそれである。
最近は胎児を食べている写真がネット上に流れている。)

身内に自殺者が出たら
…交通事故か、病気でという事にして、葬儀も質素に行う。
…相手の面子を汚すために自殺する事があり、例えば、嫁が腹いせに自殺したとする。そうなると、実家の連中から法外な葬儀代を迫られる。葬儀は実家が取り仕切り、料理から招待客まで何でも決めてしまう。横暴な亭主を世間の笑い者にしただけでは収まらず、ここぞとばかり高価なものを大量に注文し、事実上破産に追い込むのである。こういうことは今でもかなりの地域で見られるそうである。

各社会の特色
…「和」をもって尊しとなす
…「幸災楽禍シンツァイロオホゥ」他人の災禍を楽しむという意味。「みんな死ね、オレだけ生きる」という心情が社会に強く存在する。


上を参照した本が書かれた時に生まれた人は、今年70歳になる、その頃の国民性・国柄は、果たして変わったのだろうか。今日起こっている事を見ていると何も変わってはいないと思える。まだまだあるが、上はほんの一例にすぎない。

参考文献
 「歴史から消された日本人の美徳」 黄文雄
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント
 「中国宣教師の歴史」 K・Sニフトーレット

 









2005年07月15日(金) 教科書



 はやばやと扶桑社の新しい歴史教科書の採択が栃木県大田原市で決まった。
まずはめでたい。
 4年前の教科書で、見開き2ページにわたって文豪、夏目漱石森鴎外を詳しく取り上げたのは、扶桑社の新しい歴史教科書だけであった。他にもコラムの形でいろいろな人物、神話などが紹介されている。
 今年の教科書はまだ販売されていないので、どうなっているのかわからないが、良いものは文章がわかりにくいと言っただけで、消し去っていいものではない。

 扶桑社の新しい歴史教科書反対派が、「子供たちを戦場に送り出そうとする教科書?」採択反対を叫んでいる。どこにそういう記述があるのか、何ページに書かれているのか言ってみろ。

「戦場に送り出す云々」について言うと この人々は、「権利」を主張するけれどどうやら「義務」については知らぬ存ぜぬらしい。昔日本に一旦緩急あれば、国民の義務として戦場に赴いた。善悪好き嫌いの問題ではない。国家存亡の問題である。(国家がなくても、個人が生きればいいと考えるのなら、その思いの丈をユダヤ人に言ってご覧。自分の国があるという事の大事を、口角泡(あわ)を飛ばしていってくれるだろう。)
そういう時は、あげて国(自他の家族)を守る、当然の事である。永世中立国のスイスさえ、最悪のシナリオを考えて、アルプスの山々のどてっ腹深く、各方面に向けて、ミサイルを随所に眠らせている。各個人の家には、「民間防衛」という冊子が配られ、その時に備えている。

今のところ、戦争の心配のないスイスでさえそうなのに、めんどうな国が二つも隣に存在する我が国で、いまだに「戦争」を絶対悪と見なして、それを教科書採択反対の具にしてしまう。「侵略」したから「悪」で、されたから「善」にはならない。世界警察が存在しない以上、自分で自分を守るしか手はない。負ければ滅びるのみである。侵略をはね返す強靭な国力を持った、民度の高い人々がいて初めて平和を勝ち取る事が出来る。

それはさておき、
扶桑社の新しい歴史教科書の他との大きな違いは、「権力者・国家・金持ち」なら悪で、「弱者・びんぼたれ・障害者」なら「善」とする、マルキシズムのような史観から解き放たれている事である。
大金持ちにも善人はいるし、弱者の中にも悪党はいる。
国家を単純に悪、民衆を善と置くと、必然として、松前藩とアイヌの闘争、百姓の一揆と言うような視点ばかりが強調され書かれる事になる。現行他の7社の史観は概ねそうである

悪しきマルキシズムに染まったおっちゃんおばちゃんは、もうすぐ死に絶える。その後どうするかは、後に続く人たちの責務である。











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