目次過去未来


2006年09月20日(水) 読み返すと…。



 ちょっと時間があったので、過去のたん譚を読み返す(→2006/06/28)と、記憶違いやら、綴りの間違いやらを発見した。まだこれからも気がつけば、無知から来るもの、思い違いなどは消してしまわずに、取り消し線にて消してそのまま残して置き、括弧内に正しい記述をしておきます。「ようやく気がついたか」と笑っていただき,これに懲りずにこれからもご愛読、ご批評よろしくお願いします。









2006年09月15日(金) 国(カントリーとネィション)



 皇室に悠仁親王殿下が御誕生し、秋篠宮紀子様は今日病院を退院された。誕生してお目出度いが、依然このままで行くと、「皇室」は先細りになって、また同じような問題が出て来る。アメリカによって解体させられた旧宮家を元に戻す事が最善と思う。
こういうとすぐ憲法云々を言う人達がいる。天皇家は今の進駐軍憲法、ヨーロッパの成文憲法をもとにした明治憲法制定の遥か以前からの存在であり、その存在を後の「法」をもとに考える事はおかしい(と思う)。どうせなら井上毅からくる、「皇室典範」にもう一度戻って考え直してはどうか。

 Symbolを「象徴」と造語訳したのもおかしい。もとは、*中江兆民がフランス語symbole を造語訳した。うまく言えないが、象徴派(symbolists)詩人という時、フランスのマラルメ、ランボー、ボードレール、ヴァレリー、英国ではイェーツ、ドイツではリルケなどが相当し、日本では、三木露風、荻原朔太郎がそれにあたる。本来、「関わりのない別物を何らかの類似性をもとに、関連づける作用」、例えば、鳩は平和、火星は戦い、月桂樹は勝利、赤は情熱、青は憂鬱 黒は悲しみなど。
今ひとつの意味に「ある別の物を示す目的・記号」
「天皇」は上のどれにも当たらないし物ではない。


「天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神(かみ)の名は」
−古事記−

「大君は神(かみ)にし座(ま)せば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いお)らせるかも」
−万葉集−

だから「神」で良いのである。

 当たり前にあると思っている国(countryではなくnation)とはなんだろうか。日本人は「現在ある国々」は世界中に、昔からあり,またあり続けるように錯覚してしまう傾向にあると思うが、すぐ簡単に滅ぶ事は、この前のソ連を見ても分かるように、あっけなく無くなったり、分裂したりするのだ。
今の中国の建国何千年は嘘っぱちで、たかだか六十数年、その前、日清戦争で戦った清は、満洲族で、その当時の公的に使われていた文字は、満洲族の文字で、決して、「漢」字ではなかった事からも分かる。これが、ついこの間、1912年まで(大正元年)使われていた。
 意外に思うかもしれないが、日独伊三国同盟のイタリアは明治三年(1870年)ドイツは翌明治四年に建国した。ずーっと前からあるように錯覚するが、日本の建国(神武天皇元年として、皇紀二六六六年・紀元前660年)からすると、両国建国わずか140年くらいなんである。他で見ると一つの国として続いて来たのは、フランスぐらいで、そのフランスだって、革命を起こして、共和国となり、王はいなくなった。英国は四つの地域、イングランド (England)、ウェールズ(Wales)、スコットランド (Scotland)、 北アイルランド(Northern Ireland)からなる非独立国の集まりで連合王国 (United Kingdom UK)である。他国も似たようなものである。

 日本は神話の昔から、皇室がありそれが連綿と続いて今日に至っている。その驚愕の事実に加え、男系維持の歴史は、現代の遺伝学をもってしても 驚きなのだ。世界に例がない。日本国が日本国たる体(国柄)をなしている根本は何かと言うと、「天皇」に辿り着く。それ以外に無い。昔もそしてこれからも。
もし、皇室が無くなれば,地理的な日本(country)は残るだろうが、民族と政治的結合体の伝統ある日本(nation)はその瞬間から消えてなくなる。

*中江兆民(1847〜1901)…この人から、幸徳秋水が出、大杉栄伊藤野枝
北一輝にに影響を与え、部落解放運動に影響を与えた。ルソーをその思想の根(無政府主義)とする。政府無き日本を是とする。




→2001年の今日のたん譚


→2002年の今日のたん譚









2006年09月13日(水) きっと助ける



 先の日曜日に大阪の天満橋の近くエル・大阪というビルで、ブルーリボンの会主催の「北朝鮮による拉致被害者救出のための集会」があり、家人と出席した。
ある意味で、有名になってしまった横田夫妻他、政府が認めた人々(拉致被害者)と違い、認められていない人々(特定失踪者という)のご家族が登壇された 。京都・徳島・大阪から来られて、ある日突然消えてしまった家族のことを切々と語られた。涙がどうしようもなく出て、悲しみというより、これは具体的に個人が何も出来ないくやしさ、怒りの涙だった。
 随分前から,我が国は北朝鮮に実質宣戦布告されているのである。こうまで馬鹿にされてもなを経済制裁がじわじわ効いてきているなどと、たわけな事を言っている。

壇上席には、北朝鮮にいる拉致された人々に向けて、家族の伝言や「きっと助ける、それまでがんばって」と言った内容を流している短波放送「しおかぜ」の荒木和博さん、衆議院議員で数少ない「歴史観」・「国家観」をきちんと持った鉄の人西村眞悟さん、それから、八尾市市議の三宅博さんが登壇した。三宅市議は最後のまとめの所で、感極まり涙を流し絶句した。良いお人柄がひしと伝わって来た。会場は満席であった、終わってからのデモは、あいにくの雷雨で中止になったが、これからも取り返すまで共にやっていく。









2006年08月15日(火) 敗戦決定の日



 何度でも書くが、本当の終戦は、昭和27年4月28日。
御霊まつりの日に靖国参拝したので今日は、家で黙祷。マスコミは相変わらず、同じ調子の我が国が間違いを犯したの延長上で物を言っている。いい加減に少しは近現代史を勉強したらどうなんだ。我が国に戦争犯罪人はいない。一方的に異例の多数が処刑されてもいる。天皇も、アメリカ側にしたら「戦犯」かもしれないが、我が国の立場では「功労者」であると、はっきり言っている。

 今日は、特攻の遺書の朗読を聞いた。涙が止めどなく出てしかたなかった。あんなに透明で気高い文章なんて書けない。要点は一つ、この前の戦いは、国家の犯罪でもなんでもない事は、当のマッカーサ−が東条英機の言い分をそのまま、アメリカの議会で述べて、日本が防衛戦争のために戦った事を認め言っている。

 朝日新聞が、靖国神社に勤める人達の宿舎の、事細かな見取り図、おまけに住所まで新聞に掲載して、靖国神社側に、立ち入り禁止をくらっている。どこまで愚かな新聞なのだろう。
かって自社の記者がテロリストに襲われた事を何の教訓ともしていない。
あすこまで掲載してくれれば、テロリストにとって下調べの手間が省ける。どうかしている。

→2002年の今日のたん譚


→2003年の今日のたん譚









2006年07月26日(水) 戦犯・靖国・天皇 最初から考える



 今、天皇陛下が私的に言われた事を書き留めたと言われるメモがニュース(日本経済新聞スクープ)になっている。このメモをまずよーく観察して見る。貼付けてあり,赤線『藤尾(文相)の発言』は以下のどこまでかかるのか。


 (ネット上から勝手に拝借)


その前に、大半の人々が何でこの事をマスコミが鬼の首を取ったように取り上げるのか、分からないのではないだろうか。
「戦犯」を合祀したために、天皇は以後参拝を見送った、だから分祀せよと言いたげである。
天皇が例へ言われたとしても、政争の具にすることは出来ない。そう決まっている。
過去、日経は北朝鮮に社員を拉致されて、どうしたか取り返している。それ以来、変な事を時々する。今回は当然、中国に絡む経済団体と媚中派政治家とこの新聞社の操作だろう。

その前に「戦犯」とは何だろうか。
いわゆる、日本を無謀な戦争に引きずり込んだあげく負け、ひどい状態にした悪党達が裁判でA級戦犯と有罪を受けた人達の事なのだろうか?
「騙されて、心ならずも徴兵され、死んで行った兵士達を祭ってある靖国神社」に、A級戦犯の人達が一緒に祭られた事を、このメモではけしからんといっている。だから以後行ってないと。しかし、これには論理の矛盾がある。
「戦犯」と言われている一人、時の首相東条英機は、戦後、天皇がアメリカによって、「戦犯」にされないよう最後まで尽力し、その事は、天皇自身も良く知っていた。天皇自身も前に書いたように、全責任は私にありとマッカーサーに語って驚かせている事をおもいだしてくれ。信頼関係の厚かった両者の関係からしても、このメモはおかしい。

 もっと先に戻る。日本が始めたと言われている大東亜戦争(米側呼称は太平洋戦争)は、1941年12月8日にはじまった。この時、日本の石油備蓄は半年、俗に言うABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網による圧力で輸入が止まり、どうしようもなくなった。米国との再三にわたる交渉も、幾重にも重なった画策で、成立するわけがなかった。

一つは、当時の英首相チャーチル、米大統領のルーズベルトが、ひどい人種差別主義者であった事、また一つは、米国の政治中枢深く入り込んだソ連のスパイ、ハリー・ホワイトが書いた日本への最後通牒「ハル・ノート」で、これで日米両者を戦わせ疲弊した後に,共産革命を画策しようとした事など。

今の日本と違って、気概があった当時の日本はあんまりな理不尽を言うアメリカに見切りをつけ、ついに開戦に踏み切るのである。ここで言う事を聞いていれば、晴れて植民地となっていただろう。

 宣戦布告がお粗末な手違いから暗号解読が遅れ、米国に手渡した時にはすでに攻撃していた。これを機に卑怯者大キャンペーンが始まり、米世論が怒りルーズベルトの思惑通り戦争となった。
 
しかし、こういう事実がある。
1940年、戦争の始まる前年、米海軍情報部とFBI が協力し、ニューヨークの日本総領事館から、暗号解読表を盗み出し、それ以降の日本外交文書は全て即座に解読されていた事が、1982年に解禁された米安全保障局(NSA) の文書で明らかにされている。


アメリカは、すべて知っていた。
ルーズベルトは、選挙公約で「戦争はしない」と言って当選したから口が裂けても、するとは自分から言えない。ただし、相手が仕掛けた場合は別である。こういう事をチャーチルと画策していた。だから、日本がいくら、アメリカと会議を開いても、端から、裏で戦争して東洋の猿を叩き潰すと決めていたのだから、戦争を外交で止められるわけがなかった。

こうして始まった、マッカーサーも認める、止むに止まれぬ防衛戦争であった大東亜戦争の事を思えば、「戦犯」の言葉がいかに無意味かがわかるだろう。
東条英機がやらなくても、当時だれが首相になろうが、確実に戦争になるようになっていた。

これでも猶、我が国内で同胞同士が争い、戦で亡くなられた英霊に対して、戦犯だの分祀だのというのか。こういう輩を亡国の徒と言う。



 戦争直前、英国領自治ビルマ(ミャンマー)の首相、ウ・ソゥは、兵を戦争に参加させる事の見返りにチャーチルに戦後独立したいと直訴したが断られ、その足で、アメリカに行きルーズベルトに頼もうとするが待たされたあげく断られる。帰途途中、ウ・ソゥはハワイで日本人の真珠湾攻撃を目撃、日本人と組む事を決心する。そのルーズベルトは戦後チャーチルにこう書き送っている。
ルーズベルトがいかに人種差別的であったかがわかる。

*「私はビルマ人が大嫌いでしたが、あなた方も一ビルマを植民地化して以来一この五十年間、彼らには随分、手を焼かれたことでしょう。幸い、日本と手を結ぼうとしたウ・ソゥとかいう彼らの首相はあなた方の厳重な監禁下に置かれています。どうか一味を一人残らず捕らえて処刑台に送り、自らの蒔いた種を自分で刈り取らせるよう、願っています


ウ・ソゥは日本との関係を作ろうとしたが、例の暗号解読で全て見通され、早い時期に英国に捕捉され、戦後釈放されるも、ビルマ(ミャンマー)に帰って見れば英雄はアウンサンと言う男になっていた。
釈放時にウ・ソゥは、英国から銃と車を与えられる。それで英国の傀儡とみたアウンサンを銃撃してしまう。英国の手を汚さずに、上の手紙のように晴れて、両者自滅させた。
娘のスーチーは英国が引き取り、向こう流の教育を施し育てた。スーチーの夫は英国人である。それが祖国に帰って来て、独立した筈のビルマ(ミャンマー)に英国の影響を受けたスーチーと旦那がなんやかや口出しする。それでは独立の甲斐が無い、そこで自宅軟禁とされているのである。




参考文献
*クリストファー・ソーン「英米にとっての太平洋戦争」草思社 上・下巻
世界は腹黒い 異見自在 高山正之 高木書房









2006年07月21日(金) 普通の人達の大行進



 先週の土曜日、東京に行って来た。めぐみさんを初めとする拉致された人々を返せというデモ行進に参加した。総勢700名くらいになったようだ。しかしこの大きなデモを報道したのは民放ではフジテレビだけであったらしい。スカイパーフェクTVのチャンネル桜(767ch)は一部始終を報道していた。

 もう、二十数年前になるのではっきりとは覚えていないが、京都の丸善の前や、南禅寺の山門の横で、小さなイラストや、プレートなどを地べたに並べて売っていたことがあった。
その頃、京都大学の西部講堂を中心として活動していた、自主上映グルーブ「織蕗屁の袋工事(おるへ?のふくろこうじ 仮名)」のメンバーだった友人から、「こういう奴見た事が無いか」と、写真を見せられた。その友人の友に見覚えは無かった。

その後、営業の終わった丸善の前、日中、修学旅行生でにぎわう寺の山門の前などで、上のいなくなった友の友を探す母親に何度となく会った。あわただしくタクシーから降りて来て、この写真の人見ませんでしたかと聞く。そのころ、「蒸発」と言う言葉が結構使われていて、何でも蒸発だろうで済ませていた所があって、まさか、北朝鮮が拉致して連れてったなんて、誰も思いもよらない事だった。

 聞かれても知らない物は知らないので、「いえ知りません、見た事ありません」としかいえなかった。時は流れて、ほとんどその事は忘れていた。
そして数年前、新聞に、特定失踪者の顔写真が何十名だったか載った。
そこに、先の母上が血眼になって探しまわっていた京都の大学生の顔があった。
 これとは別に、1992年に出版された関川夏央の「 退屈な迷宮」をきっかけに北朝鮮関連の本をかなり読んで、最初あまりなことが北朝鮮の人々におこっていることが信じられなかった。しかし、脱北者その他いろいろな人の証言で、現代にもこんな国があるのかと、あきれていたその国が、今度は「拉致」である。人ごとと思えなかった。国会でこの事を最初に言ったのが西村眞悟代議士であった。
その時の中継を見た事がある。どこぞの馬鹿議員が、ひどい野次を飛ばしていたのを覚えている。
 デモは、砂防会館別館 を出発して 平河町 ー 溜池山王 ー三河台公園で終わった。途中首相官邸前、在日が多く住む地区を通った。三つの梯団に別れて行進した。
4時半から始まり、6時半に及んだ。終わってから大急ぎでホテルに帰り、昇殿参拝をするために、服を着替えて靖国神社に向かった。みたま祭りで靖国神社は大混雑で、到着した時には、ちょうど昇殿参拝がおわったところだった。
仕方ないので、中に通してもらって口と手を清めて、下の廊下から二人して、本殿に向かって参拝した。

 拉致された人達が全員帰ってくる可能性は、北朝鮮が崩壊する(させる)以外にないと思っている。行き帰りに使ったタクシーの運転手に拉致の事を聞いたら、ほとんど無関心であった。これは、東京京都のタクシー運転手に聞いた。少しがっくりきた。が、昔は全人口の7%にみたなかった武士達によって維新が達成されたし、ほとんどの人々はそれについて行った。
だから、無関心な人をせめずに、その人達のぶんも背負って、のつもりで今回行進した。善かれ悪しかれ、今も昔も世を動かす人々は一握りであると言う事には変わりない。

 天皇陛下がある年から、靖国参拝取りやめた理由が書かれてあるメモが、今の時期突然出て来た。
天皇が個人的にどう思われようが、戦後、国会で全員罪なしとしている。
どうもA級と言う言葉から来る誤解がある事は、通信簿のABCから、 Aだと一番すごいから一番悪いと友人の娘さんなんかは思っていて、じゃぁ、オリンピックのウルトラCは?と聞いたら初めて気がついた。
この区分けはむしろ、A項、B項、C項と思えば良く,罪状の重い軽いで分けてはいない。
どういう前後の話で昭和天皇がそういったのか、まだ真相はわからない。民放のニュースでは分からないので、今夜のチャンネル桜の特別番組を見る事にする。












2006年07月08日(土)  戦争と言う選択



 北朝鮮がミサイルで脅し、韓国が領土侵犯をやっても、「話し合い」と「情報収集」の馬鹿の一つ覚え。小泉首相は記者の質問に「これ以外何の選択があるんですか」と逆に聞き返していたが、あるのだ。何でも話し合いで済むのだったら、世の中テロや戦争なんかはとっくに無くなっている。
 この時、戦争と言う手段が、世界には最後の手段として認められていると、誰もいわない。

 昨日、チャンネル桜の「報道ワイド日本 フライデー(城内実)」のゲストに藤原正彦が、たとえ日本にミサイルが落ちて、一万・二万死ぬとしても、動じない心で応じないと駄目だ、それくらいの気概で、やるならやるぞと言わなければ駄目だと言っていたが、その通りである。
 アメリカに守ってもらうと言う前に、自分の国は自分で犠牲が出ても守るという武士の気概が必要だ。この前、せめて一助にと、自衛隊補になろうと要項を見たら、年齢でだめだったので技能関連でも見てみたけれど、医者とか、消防士とかは年齢を超えてなれるようだが、へっぽこ絵描きには用が無いようだ。

 東京の美術館で見た、*藤田嗣治の展覧会の白眉は戦争を描いたものだ。パリでのなよんとした女の絵や、飯食う途中の絵(猫は別)などどうでもよい。
画家としての力量はあの皇紀で日付された,戦争画に尽きる。



藤原正彦…数学者、最近「国家の品格」が大ベストセラーになっている。父は山岳小説家新田次郎

*藤田嗣治 …Leonard Foujita
1886年11月27日 – 1968年1月29日)画家・彫刻家。
馬鹿らしい、戦争に協力した画家と言うレッテルを貼られて日本を捨て、パリに。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れた。

独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたが日本人にとって騒ぐほどのものでもない。日本画には艶消しで上品な女図がごまんとある。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家。
圧倒的に戦争画がすぐれている。



→今日のたん譚の関連記事









2006年06月28日(水) 位階勲等をめぐって(賞の一)



 先頃、郷里から電話があった。叔父(母の弟)が受勲したという。 最初何の事か分かりかねて、話を聞いている内、この春、叔父は皇居に出かけて式に出たと言う段で合点した。
 叔父は漢詩を良くする。その中に「酒互酌み交わす」という詩語がよく出てくるので、さっそくお祝いに相応しい酒を送った(後に叔父は酒が飲めないと判明、作詩のためのものだった。叔父がきっかけで漢詩の影響を受けて血迷い、へぼ作詩を始めるきっかけになった)。

 ここで、はたと気がついた。皇居で賜る「章」とは何だ。文化勲章のことか。無い頭に浮かんだ単語、「旭日章」「菊花章」「紫綬褒章」…。後が続かない。興味が無かった事もあるが、とにかく何にも知らなかった。
知っている事と言えば、古くは、京都の陶芸家の河井寛次郎、画家の熊谷守一、ちょっとまえでは、作家の大江健三郎が、受勲を辞退したという事くらいであった。
 少し調べたら全体像がつかめた。図のようになっている。文化勲章は全体の一部で、頭に浮かんだ「紫綬褒章」は、文化勲章などに該当しないその他の章として「褒章」があり、これに入る。叔父が賜ったのは、瑞宝双光章だそうである。国や人のために尽力した人に授けられるようだ。仕事で言うと、自衛隊や警察の人達等。ここでようやっと了解した。文化勲章位しか知らなかった事を少し恥じた。

 国(民)を守る人達の章が文化勲章の上位にあることも当然だろう。昔、防人、今、自衛隊がいて国を守り、国あってこその文化勲章である。
 ところで、これを有り難くいただこうが、先きの人々のようにつっぱねようが個人の自由である。ただ、作家の大江健三郎の辞退の理由がひねくれている。辞退するなら黙ってすれば良いと思うが、いろいろ宣うのである。文化勲章辞退の事も含めて、以下大江が言った事を挙げてみる。

 大江が、「天皇制打倒、天皇制廃止論者」である事は、各方面で書いている事を読めばわかる。だから、文化勲章はいらないと言うのは理の当然と言える。なぜ天皇制が気に食わないのかと言えば、「前世紀の遺物で、近隣国を初めとして悪い事した親玉だから、民主主義国なのに天皇の存在はゆるせん憲法違反」という。

 この事は、国内向けには言わないが、外国メディアなどには言っている。一方、ノーベル賞なら喜んでもらうのである。ノーベル賞をだしているのは、スウェーデンで日本と同 じ立憲君主国である。あっちの王は良くてこっちの皇はだめらしい。ご先祖を辿れば、日本の天皇は神様の子孫(信じようが信じまいがそう言う事になっている)で、スウェーデンの王のそれはヴァイキング(海賊)である。ノーベルはいうまでもないが、近代大量殺戮戦争を可能にした「爆薬」をつくった。それで巨万の富を得て出来たのがこの賞である。

 昭和天皇は、帝王学の最重要科目「倫理」を杉浦重剛から学んでいる。その巻頭にあるのは、「武士道精神」だった。この帝王学は「自己犠牲」をもって極とした。

 「武士町民に先立って、天皇こそ自己供献のお覚悟を」と教えられた。

だからこそ、大東亜戦争敗戦後、単独でマッカーサーに会い、「戦争の全責任は朕一人にあり」と告げた時、てっきり国外亡命すると思っていたマッカーサー(父アーサー(→本人。訂正9/20)は、日本軍がフィリピンを攻略した際、I shall retern(→return 訂正9/20) の言葉を残して敵前逃亡した。)は、感動して、思わず「陛下…」と言ってその手を恭しく押し頂こうとさえしたと言われている。
こういう例は過去世界を探しても日本にしかない。

 今上映されている*「バルトの楽園」の中でも見られるように、国(ドイツ)が降参すると、王(ウィルヘルムニ世)は国外に亡命(要するに逃げる)するのが当たり前のことであった。こういう史実を知ってもなを「皇室」だけをあしざまに扱うのだろうか。

 無効が言われている東京裁判の、東条英機供述調書中においてもあるように、天皇は最後まで戦争に反対し、一度近衛内閣に於いて決まった戦争決定を白紙に戻して、抜擢され首相になった東条英機は、もう一度御前会議を開き、米国に対して譲歩に譲歩を重ねるが、ついにどうにもならず、我が国の存亡をかけた開戦となった。この戦争は、「自存自衛 ための防衛戦争」であった事を大江は知らないのか。  −続く−


杉浦重剛…1855〜1924
安政2年、滋賀県生まれ。東京開成学校に学ぶ。選抜され明治9年年(1876)イギリスに留学。帰国後東京大学予備門長などをへて、同18年東京英語学校を創立。同21年三宅雪嶺と雑誌「日本人」を発刊、欧化主義に反対し、国粋主義を提唱、衆議院議員、國學院学監などをへて、大正3年東宮御学問所御用掛となり、儒教的道徳に基づく帝王倫理を講じた。

「バルトの楽園(がくえん)」
第一次大戦時の日本国内に10近くあった俘虜収容所の一つで、徳島県鳴門市大麻町坂東にあった収容所の話。日本で初めてベートーベンの「交響曲第九」が演奏合唱された。劇中の俘虜、ドイツ人バウムは、後に神戸のユーハイムを作った。板東英二(もとプロ野球投手、現タレント)は満洲引き上げ後、一時ここに住んでいた。バルトとは「髭(劇中の松江の髭は俗にカイゼル髭、当時のウィルヘルム二世の髭のこと)」の意。後に模範的収容所ということで、世界から表彰されている。 

。。余談 。。
よく行く刺身の専門店に、モンゴルから働きに来ているバトルさんと言うのがいて、どうしても、「バトルの楽園」と見えてしまう。

→収容所に関する関連たん譚


→2002年の今日のたん譚









2006年06月06日(火) スギたる和ダ猶およばざるが如し



 今は昔、京の都の経営する美術学校に入るべく算数国語理科社会を猛勉強、美術科入学、彼は喜び勇んだ。入ってからはたと気がついた。何をやっていいのかわからない。あらかた、熱意は受験で使い果たしてしまっている。白いキャンバスを前に考え込んでついに四年間、黄ばんだキャンバスを残し、一枚の作品も残さず、英語の単位をも落として仮卒業してしまった。豪傑である。年下の友人の本当の話である。
 
 その豪傑、 もし在学時に、留学試験があったらどうしたか。件の人と同じく、多分現状から逃れるために受験しただろう。件も豪傑も、もとより、受験勉強はお手の物。あら、受かっちゃった、てなもんで、期待に胸膨らませて異国に行っても、無いもの(才能)は無いのである。
どうするか。とりあえず、気に入った友達の絵のまねっこを始めてついに数十点、試しに、ちょっと片々を変えて見た。
他人の褌のしめ方を変えたら何だかよくなった(ように思えた)。そうこうする内、留学期間も終了、帰国。成果を問われる。仕方ないから、色を変えた他人様の褌で、展覧会に出したら、あらら、賞をもらってしまった。もう後に引けない。が、昔も今も、才能は端から無い。のだから、いまさら作風を変えたくても出来ない。ままよ、同じ作風の予備がまだ数十点、小出しにして行けば、しばらく大丈夫だと思ったのかどうか。

     
和田義彦「宴の後」       アルベルト・スギ「妻と夫」


…ついに破綻の時が来た。それまでなんの和田かまりもなかったのか。
 昔は、大工他・職人、技能職は、試験など無かった。入りたければ這入って、去る者は追わなかった。考えてみてくれ、絵描きが大学院出て、絵の博士号とって何すんの?絵の博士てなんだ?

 数十年前、ある科学的油彩画の技術とやらの本を信じて勉強した。その著者は芸大のセンセで画家であった、ある時、その著者が出品している展覧会を見に行った、目の前の著者の絵が、あまりにも稚拙に見えたその言行?不一致に驚いて、すぐに、うどん屋の釜(湯だけ)図書と認定、破いて捨ててしまった。いくら、絵を科学しようと何しようと、絵が描けなくてはどうしようもない。
これじゃ、グザヴィエ ド ラングレと同じじゃないか。絵画は無言の説得である。
「うーむ」と圧倒させるものが無ければ、プロとは言えない。これに学歴は関係ない。

 はっきりしている事和田、彼の人には絵を描く才能が無かったと言う事である。確かに難しい試験に通ると言う才、デッサンをちょこっと描く才はあったかもしれない。
芸大の入学試験に通る位勉強の出来た只の人だったのだ。もとより絵描きではない。


グザヴィエ ド ラングレ(1906〜75仏ブルターニュで生まれる)…油彩画を技術面から 分析、「La technique de la peinture a 'lhuile (油彩画の技術)」を著す。 ファンアイクから始まり、フランドル画派の技法などを紹介、しかし、その成果を示せるはずのラングレ自身の作品は、末流。俄に、その内容の信憑性を疑ってしまった。むしろ、ブルトン語で書かれた小説の方が高い評価を得ている、中世文学に深い造詣。
画家としてのラングレの名は残っていない。




→2002年の今日のたん譚









2006年05月29日(月) 印度・アンド・インディア −其の二−




*オーパーツ(錆びない鉄塔)を求めて

 

 クトゥプミナール(世界遺産)は、かって、イスラムが印度を席巻した(現在は、ヒンドゥ八割、イスラム一・三割)時の、勝利を記念した塔で、デリーの南にある。ここのモスク(礼拝堂)の一角に、これとは別になぜか、ヒンドゥ教の鉄塔がある。歴史的背景はさて置き、この鉄塔は四世紀に鋳造されて千数百年、雨期と乾期が交互に来る、モンスーン気候に晒されてなを、錆びていない

実際に動画を見て(←ここをクリック見えるまで少し待って下さい)もらうと分かると思うが、下方表面には赤錆がある。しかし未だ中上部は純然たるグレーの鉄色をしている。
 後に、この鉄は、純度99%の錬鉄だと分かった。純?だから錆びないと言う説もあるが、いくら、純鉄(Fe)でも、組成的に鉄は、Fe2O3が安定した状態である。この状態は、酸化鉄、すなわち酸素と結びついた状態、錆びた状態と言う事になる。他に、ごく微量のリンが含有されていて、これが鉄と結びついてリン酸鉄を形成して鉄の表面を覆い、防錆効果を持っているとの研究もある。
 防錆効果については諸説あって、触る人の手に印度に昔から伝わる、日焼け止め油の成分がついていて,それが鉄に絶え間なく触る事で表面を保護しただとか、ある植物の抽出成文が塗られているのだとか、言われて来た。
 この錆びない鉄は、ダマスカス鋼(ウーツ鋼)と言われるもので、この鉄塔よりさらに古い年代に於いて、印度を中心に、近隣国に輸出されていたらしい。*これで作った剣に、上から絹のサリーをそっと落とせば、それ自身の重みでまっ二つになると言われた。

 これを、旅行家のP・スコットと言う人がイギリスに持ち帰り、あの*右手の法則(電磁誘導)で有名なファラデーが、錆びない刃物を作るべく研究を始めた。
 ファラデーをきっかけに、研究はロシアにもおよび、冶金(やきん)学者のアノーソフはついに本物のダマスカス鋼の製法を解明した。そしてフランスで、ファラデーの研究に触発された、ベルチェと言う人が、研究の末、とうとう「錆びない鉄」を完成させた。
それが、現在どこにでも使われている、「ステンレス」である。

 ステンレス(「錆びない」と言う意味)は、合金である。印度の錆びない鉄塔の研究から100年近く、人類はそれを目標に、全く新しい鉄、ステンレスを手に入れたが、依然として「錆びない鉄塔」はオーパーツなのである。ステンレスはクロム,あるいはニッケルなどとの合金だが、この鉄塔はほぼ何の混ざり物も無い、ただの不安定な鉄Feであるにもかかわらず、最悪な条件下に置いて、1500年もの間、ほとんど錆びていないと言う事実の解明には至っていない。

今回訪れた時は、柵が張ってあり、触れられないようになっていた。いくら何でも、世界中の観光客が毎日触ったら、ひとたまりもない。下方の赤錆は、近年の観光客によるものだろう。


絹のサリー云々…でそんな阿呆なと思った人もいるだろうが、法隆寺の宮大工だった、西岡常一は、祖父が、角材の上に置いた鉋(かんな)を、キセルで引き寄せたら、シャーッとかつぶしのように木が削られたのを見たといっている。あながちほら話とは言えない、あり得る。

ファラデーの右手の法則… フレミングの法則ともいわれているが,ファラデーの方が早く、また、フレミング左手の法則もローレンツのものだ。これらを混ぜてフレミングの法則と書いてあるものもある。

オーパーツ「Out of Place Artifacts)(時を越えて場ちがいの加工品)」



→2003年の今日のたん譚











myrte21 |MAILHomePage