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昨年、2006年12月19日(火) 無防備都市宣言とUFO中の「京都無防備宣言」は、無防備都市宣言があまりにも考えられないので、電話にて確認、京都府→京都市→消防局→総務課とたらい回しの末、結局「宣言」?であって議会などには通っていないとの事であった。日本語は難しい。何の記事だったか探したけれど見つからず。しかし、何で消防局なのだ! 訂正しておきます。何にしてもよかった。
残り福をもらいに、えべっさんにいく前に、神社近くの仏料理屋「鼈種(仮名)」にて腹ごしらえをした。北山で穫れた「鹿」と、比叡山で穫れた「猪」を食った。猪はしっかりした噛み応えがあり、鹿はホワっと膨らんだうす桃色の肉がうまい具合に焼けており、どちらもとても美味かった。これに合うワインはCh.マルゴー二級のパピヨン??ルージュか,ボルドーのサンテフテフ村??の物がいいのだが,生憎なかったので。クローズ・エルミタージュにした。これはこれで獣肉によくあったのだが、先のどれかにするとこれが今年の干支を含んだ目出たい役となる!?。
「猪^鹿^蝶」 ここの料理屋は、川端からも入れるし、置屋の多くある東側(恵美須神社西側)からも入れる。終わって東側から出ると置屋から出て来た芸妓と すれちがった。景気ええのか?お参りを済ませた所でご無沙汰している日本料理屋の主人一家とばったりあった。京都はせまい。 新しい笹を買い帰宅した。
→2002年の今日のたん譚→ゑべっちゃん
さ、さ 一献。
おにいさん、朝から一献,また一献。
酒 手前の左・屠蘇 左奥・シャンペン 酒の肴 中央・白みそ仕立ての玄米もち雑煮 左奥 くわい,れんこん 冬筍、きぬさや、金時人参 右奥 ぐちだけの紅白かま鉾 からすみ 数の子醤油漬け 右真ん中 いくら醤油漬け

初詣は近くの神社で済ませ、また一献。酩酊せり、箸少し行儀悪し。
→2006年の今日のたん譚 →2005年の今日のたん譚 →2004年の今日のたん譚 →2003年の今日のたん譚 →2002年の今日のたん譚
蕎麦を打ちながらチャンネル桜の「人間の杜」を見る。 終戦まぢか本土に爆弾を投下しに来たB-29に対して名機「*飛燕」で決死の体当たりをし、二度に渡って生還した板垣政雄 元軍曹そして生野文介元大尉(数々の伝説的な空中戦で帝都防空に活躍。陸軍飛行第244戦隊)がゲスト出演していた。 一部評論家が書いている特攻の前夜、未練を持ってやけ酒飲んで刀を振り回したなどという幻影はこの244戦隊には無い。板垣・生野さんも語っているが、「微塵もわたくしごころはなかった、怖いと言う事も無かった.ただ一矢報いて道連れにしてやる」と機銃も体を守る装甲板も外して(外さないと高高度まであがって行けない)B-29のいる高度一万メートルに飛んで行く。
そして真正面から近づき(後方からだとスピードの差だけで接近するため時間がかかりその間に撃たれるため)交差するや否や反転し、なんと敵機の上に馬乗りになり、プロペラで敵の胴体をかっ捌(さば)いた。板垣さんは一度目は衝撃で機内から放り出され、落下する時に正気に戻りパラシュートを開き助かる。後また特攻する。運のいい事にまた生還する。
「ここに恐怖などというものは一切無かった。特攻の前日、生への未練で泣いた人も中にはいたかもしれない、が多くはそんな事無く果敢に飛び立って行った」と淡々と語った。
評論家の立花隆は、特攻隊の最後の写真を見て、「死にに行くのにこんな清々しい顔など出来ない、これは*ヒロポンをやったためで、戦後この軍にあったヒロボンが市井に流れて民間に中毒者が多くでた」等とまるで軍を悪者扱いして書いているが、馬鹿を言え。ヒロポンは*昭和17年に既に一般に向けて「覚せい剤」として広告され売りに出ている。
その往時を語る佇まいに感動してしまって、涙が打っている蕎麦に入ってしまい、今年の暮れの年越し蕎麦は少ししょっぱかった。 東京上空で果敢に突っ込んで行った光景を見た人は多い。
除夜の鐘重なるを聞きつつ食す蕎麦飲むモンラッシェ。
*飛燕…< ドイツのメッサシュミットの改良型。エンジン部は高額な契約金を二重に支払って(既に海軍がライセンスを取得しており、ダイムラーベンツ社もそちらから譲って貰うよう忠告してくれたにも拘らず、海軍への対抗意識から独自に契約を結んだ。故障が相次ぎ、稼働率は低かったが高高度には向いていた。川崎重工製。
*ヒロポン…「アサヒグラフ」昭和17年8月26日号に掲載されたヒロポンの広告
頭脳の明晰化 作業能の亢進 疲労除去 睡気一掃
本剤は、未だ曾つて知られざる特異なる中枢神経興奮作用を有する最新の薬剤であって、その服用により、気分爽快・明朗となり、意想の奔流、思考力の増強を来し、同時に体力の昂揚と作業欲の亢進を促す。のみならず、疲労感、倦怠感の防止及び睡気一掃に効果があり、従って非常時に於ける精神的及び肉体的活動には勿論、徹宵、夜間作業等に甚だ好適である。その他乗物酔、宿酔、頭重、憂鬱時等にも奏功し、医界、産業界等各方面に異常なる注目と愛用を喚起しつつある。
参考web … 兵器生活
→2006年の今日のたん譚 →2005年の今日のたん譚 →2003年の今日のたん譚 →2002年の今日のたん譚
2006年12月19日(火) |
無防備都市宣言とUFO |
*京都はついこの間、無防備都市宣言(無防備地区宣言)をしてしまった。無抵抗で占領をしてもらうと言うことである。偽善の宣言であり、奴属・屈辱の宣言である。 ジュネーブ諸条約追加第一議定書第五十九条に基づいていると言っているが、過去完全に守られた例などない。守られたとしている所は、戦略的に価値のない所だったりする。
最近、家人と自然災害の際の落ち合う場所、戦時になった場合の避難場所を再確認した。 最悪の、京都に核ミサイルが飛んで来た場合、多分十数分位で飛んで来るだろうから、情報から離れているとだめだが、万一、発射されたと解ったらその時点から十分以内に某寺院の地下深くある百人くらい収容出来る避難壕まで辿り着かねばならない。以前模擬的に歩いてみた。歩いては間に合わない。自転車ならどうにか可能だ。信者でないから行っても入れてくれないかもしれない。
我が家の非難時の食糧はありきたりの物とは違っている。精神的に参っている時に、乾パンなどはのどを通らない。だから装備としては普通食っている玄米と野菜の種と酵母。 玄米は十数年前から試しに置いてみて、どうなるか試してある。これをビニール袋に入れて少量の水を入れ、ウエストバッグに入れてこれに体温を移す。動いている間に膨らみ発芽するのを待つ。これで他に何もなくとも殆ど完全食となる。水は、濾過器とロッシェル塩(海水を真水に変える)を持っている。ヨードも必需品だ。国も都市も助けてくれないのだったら自己防衛しかない。 スイスの民間防衛の本には、一般市民はなにも(武力攻撃)するなと書いてあったが、戦いたければ戦時国際法に則って意思表示すれば問題ない。
無抵抗で手を挙げても、入って来た敵が一般市民や婦女子をそのままにするわけが無い事がわからないのか。敗戦後、米国は日本を占領した時、女を要求した。日本は一般人の婦女子に危害が及ぶ事を恐れて、その道の玄人(娼婦)を募って米国の相手をさせたが、今そんな事を決断出来る政治家がいるか。それでも無防備都市として手をあげるのか。
敵の立場に立てば、日本に宣戦布告してまず無防備都市を占拠する。占拠してくれと宣言までしてくれてるのだから有り難い。ここを拠点に攻撃開始する。ここは他から物理的に攻撃されない都市なので安心して一方的に攻撃出来る。 圧勝である。 その昔、(今また嘘で固めた南京大虐殺の映画が出来たと騒いでいる)支那の首都南京を陥落せしめた、大将松井石根は知支那派であった。攻撃の際も支那の文化財を傷つけては行けないと、何と*中山陵を傷付けないよう守りながら戦闘している。これがために日本軍は苦戦したと言われる。 支那はこの時気付くべきだった。この中山陵から攻撃していれば勝てたかもしれなかった。
先週だかの週刊新潮に、臭汗金曜日主催の、皇室を誹謗中傷した集会の記事が掲載された。これはここの主催ならその面々からさもありなんと納得したが、同雑誌に「日航機長のUFO遭遇から20年」の記事の方に目が行った。 目撃記事はかなり具体的で細部の描写に圧倒される。最初共同通信が、後に朝日新聞が正式に記事にした。その取材に応じた事で地上勤務となった機長(元戦闘機操縦士)が医者に幻覚だったんだと思えと、言われたと言うような事を書いていた。 日本は良い研究のきっかけがあったにもかかわらず、結局二〇年後の現在も何もされていないのだ。 このまったく慣性の法則に反する動きをする飛行原理が解明出来れば「核」なんて怖くないゾ。ものすごい武器になる。なぜこれを良き刺激として研究をしないのだろうか。 将来「重力」を制す者が世界を制す。絶対零度の世界では成功している。これを常温で行い、それ自体完結(地球の重力から離れて)して、ベクトルの方向に動けたらいい。 何で日本にこれを研究する大学が無いのだ。 今をときめく戦闘機ステルスだって百年一寸前には、*「この世で空を飛ぶ機材も燃料も存在しない」と科学者どもが高らかに宣言した時点では、あり得ない存在だったのだ。 それをあざ笑うかのようにアメリカの自転車屋を営む兄弟が飛行機を飛ばした事は良く知られている。プロベラに動力を伝えたのは、自転車のチェーンであった。
*中山陵(ちゅうざんりょう)は、孫文(国父と呼ばれている)の陵墓であり、南京の東に位置する紫金山に1926年 - 1929年に建設
*「機械が飛ぶことは科学的に不可能」…サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューコムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は,ライト兄弟の試みに対し、こう公言した。
<訂正>2007・1・21 無防備都市宣言があまりにも考えられないので、電話にて確認、京都府→京都市→消防局→総務課とたらい回しの末、結局「宣言」?であって 議会などには通っていないとの事であった。少し前に読んだ記事は何だったんだ。確かにそう読めた。 訂正しておきます。何にしてもよかった。
→2001年の今日のたん譚:「国家予算と酒の関係」
2006年12月07日(木) |
狂言と、冬を感じた夜 |
今回狂言を観に行こうかどうか少しためらいがあった。 先回の狂言観劇で観世会館でちょっと嫌な思いをした。 どうしようもない馬鹿を見たからである。 二階の特等席でたん譚のための指定席がある。いつも家人とそこの席に座る。(但し、他人様が先に陣取っておられると自動的にその他人様の席になる) 先回いつものように二階の指定席に向かい扉を開けると、いつもと空気が違う。八割がた席が埋まっており我が指定席もすでになく、仕方が無いのでいつもの席の何列か後ろの席におとなしく二人して座った。 ところが何だかざわついて妙な活気がある。やっぱり空気が違うので不思議でたまらず、前に座っているお嬢さんに「今日は何ですか」と聞いたらポンタラ(忘れた)キャリエールとかいう専門学校の授業?の学生達であった。 今時「狂言」鑑賞なんざ見上げた学校だと思ったが甘かった。 始まってからも、ざわざわ五月蝿い。他に目をやると、すでにこっくりこっくり船をこいでいるのがいる。 甚だしいのは男の学生で、こやつは、二階の最前列(たん譚の指定席)にいて、ひょろ長い足を前の手すりに投げ出し、しょっちゅう動いてごそごそする。
狂言はその大半が古語で語られるので、前説を良く聞いておかないと,ほとんどその面白さがわからないだろうに聞いてなかったのかすでに匙を投げて耐えている風なのがよくわかる。真摯に受け入れる気持ち、学ぼうと言う気持ちが端から無い。 途中休憩のときに、こやつは外の休憩場で、「出席したんやからもう帰っていいか」と先生だか引率者に迫って、聞き入れられないとなると後半長い足を無作法に折り畳んで、しばらく静かになったと思ったら、すやすやお眠りになっていた。嫌なら堂々と欠席すれば良い。そうまでして単位がほしいのか。 学校としては、教養として見せたいと思ったのかどうか、そうだとしたら、はっきりいって遅すぎる。子供の頃に見せるのが一番良い。出来たらテレビ的な笑いを知る前に。
たん譚は、小学校の時に学校から観に行って、あまりのおかしさに「瓜盗人」という題名まで覚えていた。この経験が無かったら多分現在金だしてまで行っていない。殆ど言葉遣いなぞ解らなかった筈なのに深く心に残り、後年精神的余裕が出来たときに、ふとあの笑いを思い出し訪れ以後病付きとなった。
今回の曲、「萩大名」に見る馬鹿大名の妙は、テレビの餓鬼相手の馬鹿殿とはちがうのである。 テレビのそれを見て育った子は即物的な笑いしか体得出来ていない。頭を使って考え無くても良いように出来ている。 何で大名は和歌が苦手で太郎冠者に教えてもらうはめになるのか。これは時代を考えないと解らない。昨日までは農民だった奴が武勲を立てて今日大名になる世の中で和歌がはやっており、他家の庭を愛でて和歌を詠むその時、にわかの成り上がりではまず無理である。 三十一文字と言ってみても何の事か解らない。そこでお付きの太郎冠者が脇から、先きに交わした符丁で合図してみても、馬鹿な大名は全て取り違へ、庭の亭主が失笑する、こちらもくすくす笑う。 「人のやる事は今も昔も変わらんなぁ」という事を楽しむのだ。ただのどたばたや即物的な笑いは飽きられる。
で今回の狂言、茂山童司が上手くなっていた。安心してみられた。最後の曲の「*止動方角」で今回初めて見た、馬役の(終始顔は見えなかったが)馬とは思えないぼさぼさ頭の馬を演じた井口竜也が良かった。妙な存在感があって、もの言わずなのだが何だかそこはかと面白い。 満足して帰ったその深夜三時頃、水を浴びたらとても冷たく今年初めて冬を感じた。そのまま素っ裸で庭に出てしばらく雲ない夜空に青く煌煌と照る月を見ていた。 庭の寒暖計は三度を指していた。人の世は移って行くが、人のやる事は月と同じで変わる事が無い。
*「止動方角(しどうほうがく)」…どう(動)どうと言えば馬はとまり、し(止)・しと言えば馬は動く。なぜか反対の意味になっている。暴れる馬をなだめる時に止動方角止動方角と唱える。
2006年12月03日(日) |
武勲を祝う島、なんDear閉場、恵まれない「めぐみ」 |
立て続けに三本映画を見る。
「硫黄島・父親たちの星条旗」 国庫が枯渇するくらいまで、あんな小さな島にも、島の形が変わってしまう程砲弾銃弾浴びせ続けりゃ、誰でも勝てる。 ラバウル方面で活躍した戦闘機乗りの坂井三郎が書いていた。激しい空中戦を終え帰路、島の山をひょいと飛び越え眼前に広がる海を見ると、「ごまを散らしたような無数の艦隊を見た」ときの絶望感が今回の映画にもあった。多勢に無勢。夢想する。ハンデなしで戦ったら勝てた。 →硫黄島に関して2003年のたん譚
「Dear 平壌」 平壌と書いて、「ぴょんやん」と読む教育は受けてないので、閉場(へいじょう、漢字はこの方が正しい!?)とよむ。この映画、大阪朝鮮総連の患部?の*おっさん(「_さん」、は敬称、以後敬称拒否)を父に持つ女映画監督が作った、「非道いながらも楽しい我が家」物語。映画は娘のインタビュー形式で、乙を映す。この首の後ろにたるみを持つ乙が横田めぐみさん他、日本人拉致に加担した機関の親玉の一人だという思いで最後まで見ていた。 映像をとる娘に「はよ、嫁に行け」と言い、言下に「ただし日本人はあかん」という。この乙は、現在の自分がどうした訳で、今の日本にいる事になったのか、「無理矢理つれてこられた」との大嘘をいつ言うか、今か今かと待ち続けたがついに言わなかった。制作段階ではあったらしいがカットしたようだ。 例へ無理矢理連れてこられたとしても、戦後自由なんだからとっとと帰ればいいのにそうしないでいるのは他に何かあっての事だろう。
娘は、「アボジ(乙)と私は考えが違う」と言ってインタビューは続く。どう違うかは具体的には言わない。 乙は、帰国事業で三人の息子達を「治ようせん金主主義貧民狂和酷」に帰すも、せがまれて、以来数十年来続けている北への仕送りの中身で貴重な物の一つが、現在日本で特殊な職業の人達以外、もはや使っていないと思われる普通のただの「鉛筆」であった。日本の小学生でも、削る必要のないシャープペンシルを使ってエンピツを使っている事少ないのではないか。 こんな物(実は鉛筆の製造工程は高度)一つ用意出来ない国に大事な息子を帰してお役に立てるつもりが、帰して以後、人質に取られ、ずっと彼等一族の面倒を見続けている。
驚く事に、娘のカメラは閉場の中にまで入り、兄達のアパートを撮影している。カメラは十階建て位のアパートの外観を映しだす。そこで奇妙な事に気がついた。次男だかのアパートの窓にだけ,鉄格子のようなものが入っていた。 これはきっとそこの家だけは、乙のお陰で裕福な事を周囲は知っているがために、本人達も警戒して賊に入られないようにそうしているのだと思えた。
部屋に入ると広くはないがピアノがあり、乙の孫はピアノを弾き始める。 ここで館内でヤジが入る。「なんで閉場の一家庭に、ピアノがあるんじゃ!」真っ暗闇の映画館の中は、どうも右斜め前の一団が民団系、たん譚達ををはさみ後ろの一団が総連系のようで、総連系は映画中に演奏される北の歌に合わせて一緒に歌い始める。一種異様な雰囲気だった。 閉場で、平常ではありえない乙の何年かぶりの祝賀パーティが開かれる。北各地から集まった親戚縁者に大判振る舞い。党幹部も出席。下品なくらい向かって服右側半分一面勲章だらけで演説、金様に忠誠を誓う。ちなみにこのパーティの費用は自前で二十数万円くらいと説明が入る。何だ、自前か。
乙はやがて体調を崩し病気になり、気弱になったか、拉致事件などでちょっとは心が痛んだか、娘に韓国籍にしても良いという。筋金入りも「こんな筈じゃなかった」と思ったとしても、息子達が人質に取られている現在どうしようもない。真実を言えば、次の日から北の息子一家は確実に行方不明になる。
せめて娘の婿は韓国人(ここでも日本人は認めない)にとおもっても不思議はない。いつでも帰国出来るのに、大嫌いな日本になぜか住み続け、極悪な環境のはずの日本で映画監督になった良い娘を育てられた日本を乙はみとめない。
乙と同じような家族構成の家族がいる。映画「めぐみ」の横田滋さん一家だ。 乙の娘が撮った「Dier 閉場」を見ると、人んちの娘などどうでもよいのである。とくに敵視(勝手に)している民族の人間なんかほんとにどうでもいいのである。 人間は朝殺しておいて、夕には愛を語る事が出来る。自分はそうではないと思うのは、たまたまその立場にいないからかもしれない。「Dier 閉場」はそう言う事を強く感じさせた。自分が乙の立場だったら同じようにしていたかもしれない。自由の国であれば、反省謝罪が出来るが、かの国では抹殺粛正を覚悟せねばならない。
「この映画を作ることができたのは、私自身の成長とともに、家族を客観視できるようになったから」と女監督は語るが、忘れてもらっては困る。多くの差別やなにやかやがあったとしてもなを「日本に生まれ住み育った」環境があってこそ、この映画は出来たのだ。
「めぐみ」 小さい頃、あんまりに手に負えない悪さをする子に、サーカスがさらいに来るとか、売り飛ばすとかよく周囲の大人が言っていた。子供心に、何か目に見えない恐怖の世界が想像されて戦慄した。何でサーカスなのかは解らないが、口減らしのために、そうした事があったのかもしれない。しかし、この映画はまぎれもない「現実」なのだ。黙って見るべし。 連れ去られる直前に合唱し、めぐみさん本人がソプラノ独唱した「*流浪の民」の詩の所々、が妙にひっかかる。だが、めぐみさんは流浪ではなく、「拉致」である事は間違いの無い事実なのだ。
映画「めぐみ」に使われている「シーン」の多くは稲川和男さんが撮影し、監督のカナダ人夫妻に欲得なしで提供されている。 (→西村眞悟の時事通信11月28日)
流浪の民 シューマン 石倉小三郎訳
ぶなの森の葉隠れに宴(うたげ)寿ひ(ほがい)賑はしや 松明明く(あかく)照らしつつ木の葉敷きてうついする
これぞ流浪の人の群れ 眼(まなこ)光り髪清ら ニイルの水に浸されて きららきらら輝けり
燃ゆる火を囲みつつ強く猛き男(おのこ)やすらふ 女立ちて忙しく酒を酌みて差しめぐる
歌い騒ぐその中に南の国恋ふるあり 悩み払う祈言(ねぎごと)を語り告ぐる嫗(おうな)あり 愛し(めぐし)乙女舞ひ出でつ 松明赤く照り渡る 管弦の響き賑はしく 連れ立ちて舞ひ遊ぶ
既に歌ひ疲れてや 眠りを誘ふ夜の風 慣れし故郷を放たれて 夢に楽土求めたり
東(ひんがし)空の白みては夜の姿かき失せぬ ねぐら離れ鳥鳴けばいづこ行くか流浪の民 いずこ行くか流浪の民 いずこ行くか流浪の民 流浪の民
→2003年の今日のたん譚
ちょっと上等な山葵おろしには、鮫皮が使われている。これで円を描くように擦ると、ねっとりとした山葵ができる。銅製のそれですると、ショウガを擦った時に近い状態になる。最近、日本刀の中でも鎌倉刀に興味があって、バラバラに分解した図を見ていたら、握りの部分に、鮫皮が使われている事を知った。 膠できつく巻き締める事で、木製の柄は、茎(なかご−刃から続く握りの金属部−)が暴れても破壊されない強さを持つ。ここで、いままでずっと「鮫皮」は、Shark skin、 文字通り鮫の皮だと頭から信じて疑う事は無かった。ところが、これが大きな間違いである事がわかった。 「古事記」「出雲国風土記」に見える「和邇(わに)」が(鱶−ふか−または鰐−わに−)と同じ、いまで言うshark(さめ)の事で、昔は海鷂魚(エイ)の事を「さめ」といった。 だから、山葵おろしの鮫皮というのは、あの平べったいエイの白い腹の部分なのだった。知らなんだ。
→2001年の今日のたん譚 →2002年の今日のたん譚
2006年10月18日(水) |
台湾は台湾でいたいわん |
今月の初め遅い夏休みをかねて台湾に行った。猫がこの九月で人年齢で言うと百歳を迎えた。もう耳も目も、ほとんど聞こえないし見えない。本来なら、ドイツのオーケストラに勤める夫君をもつ友人に会いに行く事にしていたのだが、猫があまりに歳取っているため十日間の旅行はとても望めなく、かといって休みなしではへたってしまうので、4・5日で行って帰ってこられる所と言えば「台湾(殆ど日本語でも通った。)」ということで決めた。 向こうにいる間、タクシーの運転手にそれとなく(もし外省人だったらまずいので)台湾は中国かと聞いてみたら、「台湾は台湾、言葉も中国語と台湾語とは違う」ときっぱりいった。確かに、「ありがとう」も、中国語(北京語)は「謝謝 シェシェ」だが、台湾語は「感謝 カムシャ」だし、「美味しい」は、台「眞好呻 チンホーチャッ」中「好吃 ハオツー」、「いくらですか」は、台「若多銭 ゴワツェージー」、中「多少銭 トゥオ サオ チェン」と似ているものもあるが、多く違う。出来るだけ台湾語でと意識した。台湾は大丈夫だ。独立の気概はある。
基本的に観光旅行はしないので、名所旧跡・神社仏閣には行かない。今回は茶商を訪ねた。台湾が日本だった頃、日本の富士山をしのぐ最高峰という事から、新高山(にいたかやま 標高3952m−明治天皇命名−現名は玉山)と名付けられた山があり、その山系に阿里山があってそこに行きたかったが、まだ台湾新幹線が開通(この十月開通予定だった)しておらず、今回は見送った。 その山の中腹で採れるお茶の一つに、阿里山金萱茶というのがあり大人気だが需要と供給のバランスが完全に崩れていて、それゆえに市井に出ているもの日本で売られているもののほとんどがニセモノで、かってその特徴ある直線的香りに幾度も騙された。 しかし茶商自体が勉強不足でニセモノと知ってか知らずか売っている事もある上に、客もブランドを妄信して買ってしまう。茶商だけを非難出来ないのだ。最近では何と出自を科学的に判別出来るキット(DNA鑑定が出来る薬品が塗られた綿棒)まで売られている。 ニセモノは少し場数を踏めば見抜けるようになる。日本の有名漫画家の「台湾論」本中に紹介された茶商もこの茶に関する限り、店頭で出て来たものは一口飲んで真っ赤なニセモノとわかった。法外な値段がつけられていないことがまだ救いであった。普通百グラムだと六千円くらいの値がつく。 弁護ではないが、ここの文山包種茶はよかった。花香が心地よい。
いろいろ調べている内に、阿里山の茶農家が台北に出店を持っているという事を知って訪ねて行った。店主の女主人は、一目見て明らかに朝鮮中国日本系の顔とは違う顔立ちの人で、聞けば阿里山に住む高砂族だという。「高砂」族命名は日本らしい。 話している内少し意気投合して後、高砂族は昔ここに流れ着いた日本人を一杯殺したねというと,「あれは悪い高砂族! 高金素梅と同じ」という。突然、「高金素梅」という名前が飛び出してびっくりした。元俳優・歌手で現在無所属の中華民国立法委員で有名人らしいが、日本では、靖国神社の前で、国内にいる反日的な日本人と共に、靖国反対を叫んだ、お騒がせ女である。 かって台湾が日本だった時、戦時先頭に立って活躍した高砂義勇兵の顕彰碑を、大日本帝国を殊更賛美していると碑撤去運動を近年起こし、ついに撤去させた。 父は外省人(中国本土の人)で、母は高砂族のタイヤル族、本人は北京の民族大学を出ている。下半身スキャンダルで有名で、マスコミには「誹聞天后」(お騒がせ女王)と揶揄されている。 この「高金素梅」はわるい高砂族だというのである。 話の中で、高砂族の中にもええのと悪いのが存在するらしい事が分かった。高砂族と言っても、政府認定されているのが、十族くらいで、非認定の*平埔族といわれる部族が十数族いる。合わせて四十万人くらいいるという。ここまで細分された民族とは何だろうか。よくわからなくなってくる。
故宮博物院の多くの展示物は、台湾の歴史ではない。支那の歴代王朝の変遷の遺物である。蒋介石が逃げる時に支那本土から持って来た。 一番見たかったものが一つあった。それだけのために故宮博物院にいったようなものであった。 そこでこの写真。これは何でしょう。
 これはどう見たって豚の角煮「東坡肉(トンポーロー)」だ。 北宋代の政治家で詩人書家でもあった、蘇東坡(そとうば 本名は蘇軾・そしょく)の発明料理とされるところから、その名を取って、東坡肉といわれる。 この写真は「肉形石」と呼ばれて、清の時代のものである。 職人の手がちょっと加えられて、着色されたりはしているが、殆ど、もとの石の味わいを残しているという。 これは、自然が創ったスーパーリアリズムである。 絵画や彫刻(立体)のスーパーリアリズムはアメリカから始まったが、たん譚自身の絵は、別にこの流れが無くても、写真のように描くと言う嗜好は既に持っていた。ルーブルにある古典絵画の写実にもびっくりしたが、真似をしようとは思わなかった。 単発だが、スーパーリアリズムが「清」の時代に置いてすでにあったことに驚いたが、よく考えてみると、エアブラシ(絵の具を吹き付けて描画する技法)も、すでに単発ではあるが、太古の洞窟に麦わら(ストロー)を使って、口に含んだ絵の具を吹き付けて絵を描いた痕跡がある。 清は女直(女真)族でいまの漢族とは違う。満洲族である。後の満洲帝国は、*ロシアを実質発展させたモンゴルのチンギスハーンの孫バトゥと同じく、満洲帝国は後の漢族支那に、バトゥの*「黄金のオルド」は 十九世紀白系ロシアに歴史から抹殺されてしまった。 そう言うわけで、支那何千年はすごいなどとというつもりは毛頭ない。別な民族の別な文化、芸術品である。 それにしても見れば見る程面白い。ずうっと見ていると腹が減る。その日の夜は、杭州料理と決まった。勿論「東坡肉」をたべるためであった。
*平埔族… 台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民を「平埔蕃(へいほばん)−平埔族−」と呼び、特に漢化が進んだ原住民は「熟蕃」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民を「生蕃(せいばん)−高砂族(たかさごぞく−)と呼んだ。
*ロシア 九世紀にルーシ(スカンディナヴィアのノルマン人を指す)のリューリク三兄弟がノヴゴロドやキェフの町を支配したのが、「ロシア」のはじまり。 リューリク家の諸侯はチンギス家の皇女たちと競って婚姻、ハーンの娘婿としての特権を享受。ロシア正教会も、モンゴル人の保護を受けて発展。以後の数百年問はモンゴルが支配。 十九世紀に愛国主義的なロシア国民学派の歴史家がロシア史を書き換え改竄 モンゴルによる統治を「タタール(ロシア人のモンゴル人呼称)の軛(くびき」と呼び、忌み嫌った。
*「黄金のオルド」… ヴォルガ河畔の移動式の大天幕に住むモンゴルの遊牧王権を「黄金のオルド(帳殿)」と呼んだ。 「黄金のオルド」はロシア史上はじめて戸口調査を実施し、駅伝を監督し税金を徴収する代官を置いた。一五五二年、イヴァン雷帝(四世)は、「最後の大ハーン」アフメドの曾孫をツァーリ(ロシア皇帝)の位に就け、自分はこれに臣事して、翌年あらためて彼から譲位を受けてツァーリとなった。これでモスクワ大公は「黄金のオルド」の継承者の一人となり、ロシア皇帝はこれ以後、モンゴル人から「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれることになった。
参考文献: 世界史の中の満洲帝国 宮脇淳子 PHP新書
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先週の土曜日七日に台湾から帰って来て翌日の夜、大切な人達と宴会、貴重な心に残る日となった。気持ちのいい料理屋で、気持ちのいい人達との歓談は近頃無かった事だった。Nさん御夫婦、その秘書の方も交じへて、今回の算段をしていただいたMさん、たん譚は家人と二人、総勢六名だった。 Nさんも、Mさんも国会や市議会で拉致問題、部落利権問題など、著書やテレビなどで知る人ぞ知るなのだが、たん譚はいじわるなので誰だか教えない。繊細・剛胆の両方を併せ持つ希有な人達だが、気取らない素朴さをもち、馬鹿話も楽しく終始笑いにつつまれた。本当に楽しかった。 料理屋を出て、夜の円山公園のしだれ桜の前まで着た時、二十数年前、同じような深夜に、ここで友とその奥さん三人と夜空を仰いで、絶対絵描きとして名を挙げようと誓った事を思い出していた。その友は後に某テレビの「美の世界」で特集もされ、立派な画家としてやっている。たん譚も末流絵描きとしてなんとかやっている。 後、家の近所まで秘書の方の運転する車で送っていただいた。NさんMさんはこの次の日、「救う会奈良」第一回大会に檄を飛ばしに出かけられたはずである。頭が下がります。
→2002年の今日のたん譚
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