![]() |
![]() |
こうして、HPを作っていると、変な気がしてくる。 他のHPを見たりして、知っている人なら、その人のPCに向かう姿が目に浮かぶし、知らない人でも、ああ、どこかにいるんだろうなあ、というような、うまくいえないが、世の中の変な成り立ちというか、ああ、わからない。 生活。 だろうか。 働くってだけが、生産活動なのかな、とふと思った。 経済活動じゃなくっても、やり取りしてるものって、ある気がする。 目に見えないものとか。 こうして、HPを作ったりして、これはお金にはならないけど、活動ではあるし、アクションを起こせば、リアクションもあって、やり取りというのは、やはり、ある。 ばかばかしい事に血道を上げていても、やはり、やり取りというのはある。 サークルをやっていても、すぐに卒業だし、いつか、この日々も泡のように、無くなってしまうとは思うけど、後輩たちの彼方に私の記憶が残ってくれたり、私の中にも何かが生まれていたり、そういうのが、生産活動じゃなくって何なんだろう。 普通に歩いていたり、お喋りしているだけで、何かを生み出しているような気がする。 目に見えない。雰囲気のようなものを。 所詮、会社だって、お店だって、いつかは消える、泡のような存在で、だから、普通の生活だって、泡のようでも価値のある、立派な生産活動なんじゃないかなあ、と。 こんな私でも、少しはまわりの雰囲気作りに荷担できているような、そうだとすると、それでいいんじゃないかと。 職業にしたり、お金で返ってきたりしなくっても、いいのじゃないかと。 ふと思う。
練習におずさんが来てくれた。 久し振りで緊張してちょっとしか話せなかった。
はらじゅくが腹じゅくでなく耳じゅくだったら面白い。 みみずく。 今日はN谷くんが発表をするというので、その授業にこっそり出ると、N谷くんが、「Nタニくん」と呼ばれて普通に返事していた。 N谷くん、左義長について語る。 左義長って、どんど焼きみたいなものらしいのだけど、みなさん知らないですよね。 東北ではポピュラーなのか、授業直前に「左義長なんて聞いた事ないな」と言うとびっくりしていた。「習字とか焼くやつですよ、みんな知ってますよ」とか「くまでとか」と言うので「くまでなんて買わないよ」というと「ええ!!」とすごくびっくりしてて面白かった。 あげく「左義長って始祖鳥みたいな」もんですよ」なんて言ってた。 で、発表、面白かった。いつも通りのN谷くんだった。 それから、この世は相変わらず地獄みたいだ。 いや、別に悩みがあると言うのでもないが、ああ、でもみんなそうなんだろうなあ、暗闇の中を手探りで歩いているというか、まあ、楽しいし、生活も悪くないと思うのだけど、ときどきすごく怖くなったり、わからなくなったりするのだが。 自分が気持ち悪くなったりとか。 罪悪感みたいなのが湧いて来たりとか。 なんか大人なんだからもっとちゃんとしなきゃ、とか。 アフリカの子供に何か出来ないのか、とか、病気の子供は今も苦しんでるのに、とか急に考え出したり。 最近、雨がよく降る。 雨って、ぼんやり見ていると線だけど、雨に合わせて目を動かすと粒になる。 ああ、なんか隣の犬がコケココーって鳴いてる。 こりゃ、コケココーだな。
擬声語、擬態語が多いというのは、日本語の特徴らしい。 英語とか、インドヨーロッパ語族の言葉には、例えば蛙がぴょんと跳ぶ、のぴょんに当たる言葉がないらしい。 そういえば、しょっちゅう聞く、ぴょんだの、さっだの、わいわいだの、どきどきだの、英語にはなさそうだ。 で、この擬声語、擬態語というのは、意味よりも音が、重要らしい。 つまり、ぴょん、の「軽く飛ぶ」(?)という意味よりも、♪ピョンという音に、伝える要素があるということか。 言葉というより、むしろ音楽なのだそうだ。 確かに、ぴょん、と言われた時、言葉として受け取るよりは、その言い方、口調を楽しんで受け止めているように思う。 ぴょっん、とか、ぴょーん、とか、微妙に違う言い方だったり。 それに実際に音がしないもの(蛙が跳ぶとか)を音で表現する(ぴょんとか)って実はすごいかも。 言葉って、意味ばかりじゃなくって、耳触りというか、リズムなんかにも伝える力があるんだろうなあ。 それで、どうも、この擬声語、擬態語を妙に多く使う人が俺の周りに多い気がする。 たまに、「ぴょんって」「それでちょこって」「で、どかん」とかいう擬声語、擬態語だけで会話が終わってる時すらある。 会話って、たぶん、意味じゃない。リズムかも。 話しは変わるが、俺の人生の敗因は思い込みがつよいことじゃないかと考えた。 昨日、俺は自分で決めた事で成功したことってないかも、と書いたが、そもそもいつも目標をたてた時点で間違った目標をたてていたような気がする。 で、俺は思い込みが強いから、決めるのも、すぐ決めちゃって、迷いがなくって、まっしぐらに突き進んで、ばんって壁にぶつかって、わあんって泣いて、まわりの人に助け起こしてもらって、やっと他の道が見えたりする。 色々な事、大体そのパターンだった。 そういえば、昔から、俺は悩みってなかった。 不安、とかはよく感じるのだけど、どっちにしようかとか考えた記憶がなくって、たぶん、思い付きで決めて、なぜか自信満々に突き進んでた気がする。 だから、人に相談なんかもしないから、自分でも間違いに気付かないのだろう。 大学だって、俺はサッカーを見てて、「勝ったらここ受けるか」って決めたのだ。 昔は自分の事は自分が一番わかってる、と思っていたけれど、他の人の方がわかってくれている場合もあるかも、と最近思った。 どうも、俺は自分のことがよくわかってないんじゃないかと思う。だから目標や選択を間違うのじゃないか。精進しよう。
自分で骨壷が作りたくなった。 よく陶芸習って、骨壷作るって言うじゃない?あれだ。 骨になったらどんなんに入りたいかなあ、と考えるに、思い付いたのは、自分のコーヒーカップ。 あんなんでいいや。ふた付けて。 はいんないかな。 まあ、ゆっくり作ろう。 それで、あと思ったのは、始める前から楽しいってことはないよな、ということだ。マンドリンだって入る前は全くやる気なかったし、流れで入っちゃっても、しばらくは辞めようか続けるかずっと考えていた。それが、合奏するようになってから、急に楽器にはまっちゃったのだ。人生はわからない。就職だってそうだろう。 村上春樹が言ってたのだが、「人生は、自分が選ぶ事よりも、人生から選ばれる事の方が遥かに多い」って。 確かにそうで、考えてみると俺の人生、俺が決めた事ってどうも1個もないっぽい。 それでも、志望する大学じゃなかったけれど、今の大学に入れて良かったと思うし、なんとなく入っちゃったサークルは楽しいし、入った後に第一志望になるというか。 やってみないとわからないんじゃないか、と。 だから、やる前に、自分がこれを好きかどうか、なんて考えても、あまり意味がないかもしれない。 まあ、そんな考え方、良いのかわからんが。 前、就職テストみたいの受けた時も「貴方は人生を流れに任すきらいがあるので、もっと考えて決めましょう」とか書いてあったから、良くないのかも知れない。 意固地に見えてすぐ人に影響されるし、考えてるように見えてわりと思い付きで行動してるし、そうゆうの、治そうかなあ。 でもいい。 笹舟に乗って、気になる島が見つかったら、そっちに向かったりして、気ままに行こう。
すでに何かの媒体で表現されているものを、他の媒体に移して表現するのは難しいなあ、と思った。 というのは、譜面に練習番号をふるのに、譜面を見せてもらって写せばスムーズなのだろうが、口で言われると、どこのこと言ってるのかわからないから。 「次のmpがBです」(mpっていっぱいあるじゃんか) あと、読めない記号を適当な英語読みしたりするから、おかしい。 それで、え?と思ってるうちに次にいっちゃってるし。 それで、昔カウンセリング講座というのを受けた時に、6,7人のグループでそれぞれ地図の断片を持って、それを見せ合わずに、口だけで伝え合って全体図を完成させる、ということをしたのを思いだした。 あと、例えば、小説で表現されていることを、音楽で表現するとかも、おかしいよなあ、とか。 でも、音楽をやっていて、弾けばわかることを、あえて口で説明してる時は、妙に楽しい。 なんだかんだ言って、伝わらないっておもしろいよなあ、と思う。 コミュニケーション不全ってなんだかくすぐったくってくすくす笑っちゃう。 うまく言えないがそんな事を考えていた。 そんな感じで、あとで見たら、私の譜面の練習番号はほとんど違う所に付いていた。 それから、1年生がどんどん上達してく。 面白い。 もうちょっと出席してくれたらなあ、とも思うが。 きょうは星空のなんとかと、詩人の瞑想を、初めて弾いた。 わりと詩人の瞑想がすきだった。 星〜はミューズの時、かめやんに何度も教えてもらったリズムがある。 はんちょうが具合が悪くて帰ってしまった。
自分の年齢がこわくなってきた。 年を取るのは、どんどん諦めていけるから、楽しくていいのだけど、 諦めるといっても、まだまだ諦めない方がいい事も沢山残っているような気がして、心配だ。 若くて可能性が何処までもある、という程の年齢ではないし、もう諦めた方がいいという年齢でもなく。 けっこう、瀬戸際のような、きっと後になって、大学4年の時あれやっておけば良かった、とか、あれ始めとけば良かった、なんて思いそうでこわい。 子供の頃からやりたいと思っていた事、夢、とか沢山あったのに、大学入ったらあれやろう、ということも、あったのに、諦めちゃうのかなあ。 就職なんてしてる場合じゃないんじゃないかな。 わくわくすること、本当にやりたい事をするために、知恵を絞らなくっちゃ、という気分。 もっと、自由なはずなんだよ。 大学4年だから就活して、とか、人生ってそんな単純じゃない気がする。 私は他の人と違う事をするのは全然こわくないなあ、というのも思った。 なんでかな、と考えるに、私は今までも、人生で「これは上手くいった!」ってことは、たぶん1つもなくって、例えば高校、大学受験も失敗が多かったし、部活やサークルでも挫折とかって多くって、だから思い通りに行かない、とか、他の人と足並みが揃わない、という事に、慣れているというか、びっくりしないし、平気。 どうにかなるだろう、という感覚がすごくある。 その上、いつまでも夢見勝ちというか、浮世離れしてるとういうか、小説や詩の世界も、現実の世界と同じ位の価値で考えているから、なんか、ほんとに、もっと自由なはず、という思いが強いというか。 友達なんかも気にならなくって、私は私、という思いも強いし。 旨く言えないが、「もっと私らしい生き方があるはず、他の人の流れには合わせたくない、もっとちゃんと考えて生活したい、やりたい事をやりたい!!」と思う。 こんなもんじゃない、と思う。 こうしている間にも、宇宙は膨張して、エントロピーは増大して、今が過去になって行くと思うと、こわくてしょうがない。 そう、上手く行かない事や、失敗する事は全くこわくない、やりたいことをやらないで時間が過ぎてゆくのがこわい。 お金がないのも、こわくない。そんなのどうにかなるだろう。 もっとこわいことがあるはず。 もっと動かないと。 そうすれば新しいアイデアが浮かぶのかもしれない。 じっとしてても答えが出る訳無いし。
お腹が痛い。 死ぬのかなあ。
「あの日は暑かった」 という思い出になりそうな新歓ハイクだった。 上野公園で散歩する。 俺はC班で、コヒロヒラハさんが班長だったので面白かった。 下町民俗資料館というとこと、動物園に行く。 前者は剣玉や知恵の輪で童心に返って遊べる穴場で、後者は面白いのと面白くない動物がいて、炎天下のため最後はくたとした。 動物を見ていて思うのは、「やっぱり好みがあるなあ」ということだ。 何故だか惹かれる、とういう動物と、みんなが可愛いと思うのはわかるけど俺は別に、という動物がいる。 惹かれたのは、ペンギンと蝙蝠とスローリスとかいうの。 ペンギンの中に置物が混じっていた。全く動かなかった。そして、走って滑って転んでいる奴もいた。計算とわかっていながら可愛いと思ってしまう自分にがっかりだった。 あと、トラ。トラは犬科だ。 というか、全部犬科だった。 その後あまりの暑さと寝不足と頭痛でテンションが低くなって申し訳なかった。 ボートに乗ってる子もいたが、俺らはぼんやりしていた。 あんな感じでよかったのだろうか。 それから地下鉄で一年生がいなくなったので、放送で呼び出ししたのが面白かった。 その後、渋谷でお酒を飲む。 1年生のみんな来てくれてありがとう。 雪ちゃんはじめ2年生の方々おつかれ様。楽しかったです。
昔は重音は嫌いだった。 勝手に単音で弾いたりしていた。 というのも、私は子供を産むなら一人っ子がいいと思っていて、何故なら、沢山の子に手をかけるより、一人の子に気を使って大事に育てた方がいいなあ、と思うから。 色々な音を出して、微妙な音を出すよりは、一つでも綺麗な音の方がいいではないか、と。 でも、今は重音に夢中。 重音って決めのとこで出てくるではないですか。 がんっと出せたり、ぐわああ、と出せたりした時の気持ちはたまんない。 兄弟もいいやね。 今日から、サークルの後期の練習が始まったので行く。 ドナウの模範演奏を聞いてから、アルバマと風のテープを聞いて、風の合奏をした。 それにしても、トマトは美味しい。 夏だなあ。 最近いつも、冷蔵庫に入っているので、よく齧ってる。 それから、サンドゥイッチにしたり。 トマトは生命の味がする。 さて炭酸コーヒー。 私は炭酸コーヒーで就職するぞ。 炭酸コーヒーとはなんぞや。次回につづく。
![]() ![]() |