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今時は、学歴なんてものを聞いて気にする人も少ない。 何々大卒って聞いてもふうんってぐらいだ。 私が出た大学は所謂有名大学というのではないかも知れないけれど、私はあの大学を良い大学だと思っている。頭の良い人だって結構いたと思うけどな。 昔、同じ大学の友達で「こんな大学出ても…」と私たちの大学のことを言う人がいたけれど、 私は色々な人と出会えて、マンドリンにも触れることができたあの大学を大好きだった。 大学なんてそんなもんだ。 「有名大学を出ました」ああ、受験勉強頑張ったんだね、というだけの話だ。 「受験勉強頑張ったんだから、その後の人生にも影響があって然るべきだ」という話も聞くが、頑張っても人生に影響がないことなんていくらでもある。 私が今まで出会った人の中では、大学出の人より、高校出の人の方が頭が良い確立が高い。 頭の良さと学歴は何の関係もない。 私は一応大学を出ているが、英語は話せない、漢字は書けない、簡単な足し算でも間違える、人間関係を築くのが下手、と散々である。 経歴、というものでも「なにをやったか…」なら聞く気がするけれども、「こういうところに所属して…」なんていう話は、聞いてもその人が何なのかちっともわからない。 「あんたの所属している団体だとか組織だとかは、あんたの評価と何の関係もないよ」と思う。 そして「昔取った杵柄は捨てた方がいいよ」と思う。 人生というのは、「自分が望むライフスタイルで生きられるかどうか」というだけの話で、勝ち負けなどあるわけがない。 有名な大学を出れば多少は有利になることは、まああるかも知れないが、まったくうらやましいとは思わない。 私は今死んで、もう一回生き直すとしても同じことをする。 第一志望の大学なんてどうだっていい。行ったところが良い大学だった。 前の会社だって、人と出会えたから行って良かったと思ってるし、今の会社は自分の時間が取れるから良いと思う。 ただ、それだけのことでしょ、と思う。 私は言いたい、「安心するな」と。 そして「プライドは捨てろ」と。 人に見せるために人生作ってる訳じゃないんだから。 やりたいことやれればいいのよ。 学歴や経歴で評価されるなんてただの神話だ。 だって、自分は人のことを学歴で評価なんてしていないでしょう? でも人は自分を学歴や経歴で評価すると自分のことは思い勝ちだ。
人間がもっと進化したら、指サックをしたまま生まれてくるだろう。 最近、こどもの頃に虫眼鏡で黒い折り紙を焼いていたときのイメージがふと蘇る。 チリチリと焦げて行くあの感じをよく思い出す。 それから初恋を思い出す。 思えば小4のときが私の人生の山場だったのでは? でももちろん、今もすっごく楽しい。 いや、小4のときより今の方が楽しい。 大人なので何でもできるからね。自分次第で。
会社帰りに上野の桜を見た。もう葉桜だったが、葉っぱもかわいそうなので、よく見た。それから浅草に行った。大変楽しい。桜橋。
妹はテニスサークルに入りたいらしい。 しかしマンドリンにも誘われたと言っていた。
本を一ヶ月に二十冊読まなくてはならないとすると、二日で一冊では間に合わない。 一日一冊読んで、十日休まねばならないだろう。 今現在、四月に入ってから二冊しか読んでない。テネシー・ウイリアムズの『欲望という名の電車』と『やけたトタン屋根の上の猫』だ。面白かった。 しかしこの調子では月末には絵本で数を調整しなくてはならないだろう。 そしてそれなのに図書館で菜根譚を借りてきてしまった。こんなの一日じゃ無理だ。 漫画やバナナを数に入れていいのかもわからない。 聖書なんかに手を出してしまった場合はどうしたらいいのだろう。 それから、ひとりぐらしをしたいと思っていたが、お金が貯まらないだろう。 お弁当を作ろうかと思ったが、、私に早起きができるわけがない。 大きなコロッケパンでしのぐしかないだろう。 しかも旅行に行きたくなって来た。 駿馬を見分ける方法を教えて欲しいものだ。 ところで私は梅干は固いのより、ジューシーな方が好きだ。 それから、しらす干しごはんって、混ぜすぎないのがおいしいと思う。 そういうことを考えると、おいしさというのは混ぜすぎないことであると思う。
以前にも書いたかと思うが、南Q太という漫画家が大好きで、今一番すごいと思っているのが「エロティクス」で連載されてる『トラや』という漫画だ。 何がすごいと思うのかというと、エロティクスという雑誌は、まあエロい漫画雑誌みたいなんだけど、この『トラや』だけほのぼのした話だっていうこと。 南Q太は、他ではかなりエロい話や、きつい話を描いているのに、『トラや』はふんわりした話ってことだ。 つまり、この漫画を好きって言うと、「ああ、こういう可愛いやつが好きなんだね」というような捉えられ方をされてしまうのだが、私がいいと思うのは、こう、「みんな本当はドロドロだってわかってるけど、敢えてこんなほのぼのした話を描いているのだ」「リアリティと気持ち良さが絶妙なのだ」「わかっててこう描いてるんだ」ということが言いたいのだ。
母の作ってくれた蕎麦の具がきしめんだった。そういうこともあるのだろうか。 父がDVDを知らないことが発覚。 父「DVDってビデオのことだろ。何でDVDって言うんだろうな」 母「そりゃ違うからよ」 父「DVDってビデオとは違うのか!!」
赤坂の本屋で長井秀和に会った。 ああっと思った。いる、と思った。あまりにどきどきするので、早く本屋を出て行って欲しいくらいだった。 ねぐせだらけだった。 そおっと、後ろ側にまわって、立ち読みをした。 ちらり、と見ると、彼の持っている手提げの中には資料のような紙がどっさり入っている。あと、たくさん書き込みされたノート。ネタ帳だろうか? 彼が立ち読みしている雑誌は「Ray」(女性ファッション誌)だった。 ああ、生きていればこんな良いこともあるんだ、と思った。 次は、今、一日に5回くらい思い出している上田晋也に会いたい。
新宿から神田まで歩いた。
不安というのはみんなあるのだろうな。 明るく見せている人ほど、本当は不安なのかもしれない。 将来どうなるんだろう、知らないうちに30歳になっちゃたりもするのかな、 と考えると、すうっと足の親指から血がひくような。 こういうことかも。今、ダイヤを持っているが、あと5年後にはこのダイヤはない。そのときに、『あのときはダイヤがあったのに』って思ったりするのかな、って、そんな気持ちか。 でもよくよく考えると、たぶん今ダイヤはない。 30歳になったらなったで、ルビーがあったりもするだろう。 どうして今、ダイヤがあるような気がするのかと言うと、30歳になったときにそう思うのじゃないか、と想像しているだけで、ようするに、あせりが見せる幻影なのだ。 今あるのはダイヤじゃなくて、サファイヤだとする。 考えて来なかった。でもきっと私は絶対にサファイヤには気が付かないで今を過ごしてしまうだろう。 それにしても、今までの人生、同年代の人に比べると、ちっとも真面目なことを ふざけたいってことはよく考えていて、今でもちっともふざけ足りない。 どうしようもない。 ふざけたい。きっと30歳になっても、40歳になってもふざけ足りてない。これだけは確かだ。 それで、不安だ、不安だ、と言っても、でもまあどうにかなるだろう、とも思っていて、何だかんだ言ってもなぜか妙に自分に自信があって、神様も棚に上げて笑ってしまう。 どうしようもない。 こんな駄文を書いている間に、他のことをやった方がよい。 ばかだ。
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