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最近、新しい考え方を聞かないな、と思う。 新しい考え方、というものよりも、みんなが知っていることをわかりやすくした、というものが出てくることが多い。 例えば「30代独身子なしは女の負け犬」とか。 きっと今は「新しい」「今までにない」「他と違う」というようなことは魅力にならないのだろう。 「わかりやすい」「元気になる」ということが大事なような。 あとは「若い」とか「かわいい」とか、そういうのがすごい勢いで肯定されてるような。 ベストセラーになる本も、読む人の要求に応えたり、読む人と似たような人が出てくる小説であったり、読む人をけなして安心させたり(みんなマゾなんだと思う)、昔なつかしい形の小説だったり。 とにかくわかりやすいこと、今の自分の状況をわかりやすくしてくれること、そんなことをみんなが求めてるような。 私としては、がらっと考えが変わるような、次元が変わるような、そんなものに出会いたいな、という気持ちもあるのだけど。
今日もまた目黒に出かけた。寄生虫博物館に行ったのだが、お客さんがとても多い。人というのは、ぞっとするものを見たい、という奇妙な欲求があるようだ。子どももおばさんも楽しそうだった。 しかし、気持ち悪い、と言うのは病気に対して失礼なことだとも思う。気をつけたい。 そうそう、吉野家で私は初めて豚丼を食べた。やっぱり牛丼ほどのガツンとくる感じはない。でもこれはこれでおいしいと思う。 それから自然教育園というところを散歩した。ツルツルした木やガサガサした木を見た。菖蒲が少し咲いてた。 その後、人の大学に勝手にしのびこんでうろうろしてやった。たくさんの守衛に見つかったが、怒られなかった。 あとビリヤードをした。ビリヤードというのは、ずっとしていると、会話がやんわりとしてきて、ボールとキューが記号のように見えてきてちかちかしてくる。どうせ勝たないと思うと、ふざけてしまってよくない。でも、かちん、と当たると楽器のようで楽しい。わかったふりをすると、本当にわかってきた気がする。人の気持ちと違って、決まったとおりに球は動くんだな、と思ったけれど、人の気持ちも本当は決まっているんだよね。計算で出せるって読んだ。ただ、空の雲がどういう形になるか、というのと同じくらい複雑な長い計算になるので、誰も計算しようなんて思わないそうだ。理屈で説明できる事柄だからと言って、理屈で考えることはない。いろいろなことがどういうことになって行くとしたって、例えば人と出会って楽しかったことや、言ってくれたことは、どっちにしてもこの先も宝物になるのだから、先のことをくよくよ考えるのはばかばかしいことなのかもしれない。 朝は小雨だったが、その後は少し晴れた。夜は寒かった。
五反田でマンドリンを弾いた。ものすごく久しぶりだったので、とても楽しかった。やっぱり、うまく弾けないので一生懸命になった。一緒に弾く人たちとも久しぶりだったので緊張した。でも緊張してるようには見えないと言われた。まあそうだろうな、と思った。 それから目黒に移って、モスでごはんを食べてから、大学時代に一緒にサークルでマンドリンを弾いていた同学年の子たちとお酒を飲む。これもまた私は久しぶりに会うので、緊張して乗り気じゃないくらいだったのに、いざみんなと会うと、すぐ思い出して、本当に楽しかった。 変わってないなーとも思うけれど、やはりみんな少しずつしっかりしてきていたり、考え方が変わってきたり、しているのだと思う。私も、きっとそうだろう。 サークルをしているときは私はとても若い考え方をしていて、しかもサークルがすごく好きで夢中で空回りしてて、みんなに迷惑をかけるくらいがさがさしていたんじゃないだろうか。今だったら上手くやれるのに、と思うことがたくさんある。 でももう何もかも過ぎていくことなんだな。 だけど、また合宿したい、と思った。ああいうの、もうやれないなんて。 またみんなで話し合ったり、合奏したり、朝ごはんや夕ごはんが食べられたら楽しいのになって思う。 そうそう、その居酒屋さんで働いている同級生がカクテルを9人分、それぞれの好みに合わせて作ってくれてとても楽しかった。私は緑色で辛いの、といったらそれを作ってくれた。
原因や経過というのは、結果が思わしくないときに気になるものだ。 逆に言うと、結果がよければ原因について考えたりなんてしない。 原因が気になるときは、結果が自分にとって気に食わないんじゃないかということを疑ってみるといい。 また、原因を聞かれるのが嫌だったら、とりあえず結果を出しておくとよい。 日本では何かが起きるとよく、まず最初に「原因を調べて再発防止を……」なんていうけれど、一番大事なのは、起こってしまったことをどう処理できるかなんじゃないか、と思うこともよくある。 原因をきちんと調べたり話せたりする人より、起きたことを認めてちゃんと処理したり迷惑かけてしまった人に対してきちんと向かい合えたりする人の方がかっこいい気もする。 原因がわかったらそんなに安心するの?と思ったり。
私は4月から20冊本を読むことにしたのですが、簡単に言うと、11冊しか読みませんでした。 携帯料金のように、次月に繰越が出来るようにして、5月に29冊読むことが出来ます。 4月1日から30日の内訳はこれです。 『欲望という名の電車』 テネシー・ウィリアムズ 『やけたトタン屋根の上の猫』 テネシー・ウィリアムズ 『ハムレット』 ウィリアム・シェイクスピア 『ガラスの動物園』 テネシー・ウィリアムズ 『かもめ』 アントン・チェーホフ 『二人がここにいる不思議』 レイ・ブラッドベリ 『ソーネチカ』 リュドミラ・ウリツカヤ 『寺内貫太郎一家』 向田邦子 『バルザックと小さな中国のお針子』 ダイ・シージエ 『失恋』 鷺沢萠 『オセロー』 ウィリアム・シェイクスピア 本を読むのは楽しいので、5月はもっと読むでしょう。 大塚愛の「さくらんぼ」がしょっちゅう頭の中に流れるので、なんなの!って感じです。他の曲で消そうと思いますが、たいていさくらんぼの方が勝ちます。
岸恵子が叙勲を受けたそうで、いいなあ、と思う。 私は岸恵子のような女の人になりたいなあ、と思います。
飛行機に乗ろうと思えば今からだって乗れる。乗らないのは明日も日本で生きてゆこうと思ってるからだ。 ごはんを食べるとき、私はいつまでもお腹がすいたままでごはんを味わっていたいのに、欲望はお腹がいっぱいになる方向へと向かう。不思議だ。 やっぱり一人暮らしをしばらくしたらできるように考えよう。危ない。自分が強いってこと、忘れるとこだった。 寂しい、と思うなら、それを解消する方法を考えないと。何かに参加したり、友達作ったり、した方がいいみたいな気がする。 人に対してあったかくなりたい。私は冷たいと思う。 あーあ、まだまだやることあるなあ。 あと50年、飽きなさそうだ。
花粉症かとも思ったが、風邪をひいたみたい。 耳が遠くなるようなときが、現実から離れるようで気持ちいい。 こんな日は夢を見れるだろうか。 風邪のときは夢を見ることが多いもの。 普段はあまり見られないから、楽しみだ。
髪を切った。 そしてBunkamuraで映画を見た。
映画「真珠の首飾りの少女」を、テアトル銀座で見る。 昨日美術館でも見た画家、フェルメールと、そのモデルになった少女の話だ。 もう少しヒロインのキャラに魅力をつけて、音楽も素敵にして、構成練ったらもっとよかったんじゃないかな。 あと思ったのが、画家とモデルってなんかあるって思い勝ちだけど(実際なんかあることも多いみたいだけど)、でも、絵によるんじゃないかな、ということ。 「女」ってものを描きたいとき、その女の人自身のことよりは、抽象化したものを描くから。 あー、上手くいえないけど、例えば、小説の場合だと、キャラクターにモデルってほとんどいないと思う。 私もちょこちょこ自分の小説書くとき、誰かが喋ったことや、自分と誰かの関係で起こったことなどを参考にして書こうとしたりはするけれど、「このキャラクターのモデルは誰々」ってことはまずない。強いて言えば、モデルは自分、この男の子も女の子も自分に似てる、ということが多い。 たぶん、自分が考えてること、が一番になるんじゃないか、と思う。 小説書かない人でも、キャラクターって考えないですか? 「こういう人って複雑」「こんな人って魅力的だろう」とか。 そういうの。 まあ、絵と小説は違うかもしれないけど。
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