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『微炭酸ニッキ』  山崎ナオコーラ

(新たなご依頼をいただける場合、あるいは、既刊の作品についてご質問をいただく場合も、
拙著の刊行がある出版社さん宛てにメールにてご連絡をいただけませんでしょうか?
転送してもらえますので、私から返信します)。

運命の夜
2004年05月14日(金)

会社の人たちと神田でお酒を飲んだら、気が付いたら新宿にいて、時刻は1時半だった。
びっくりした。経緯がわからない。山手線で移動したと思うのだけど、私は帰るとき山手線は使わないので、何で乗ったのかもわからない。
そこまで酔っ払うような会ではなかったので、まったくびっくりだ。

どうしようもないのでタクシーで帰ったら9900円になった。まったくばかばかしいことだ。
タクシーの後部座席でぐったりとしながら、人生のことや、孤独のこと、仕事のことや、お金のこと、いろいろ考えていると、気持ちががらがらと変わるような気がした。
こういうばかなことや、苦しいことをやっても、人生の残された時間は刻々と減っていく。いまやこういうばかなことをしたときは、ひとりで「ああ、ばかばかしい」と思うだけのことだ。
私を気にしてくれる人が欲しい。
その他、私は努力が足りない。人生は短いのに。
本当は、何もかもふっきって、まっすぐな道を歩かないと、時間が減っちゃうんだ、と思う。
そして、ああしよう、こうしよう、というようなことをいろいろと考えた。

うまく言えない。

でもたとえば、夜の中には、この夜だけで何もかもが変わったという夜がある。
そんな夜っていうのは、こんな風に、何でもないような、本筋とは関係のない夜で、それで何もかも気分が変わって、人生が変わったりするのかもしれない。

結局人間の人生というものを、一番左右するのは本人の気持ちだ。

一晩でがらがら変わるというのはよくあることだろう。

そう思ったが、次の日起きると、特に変わってなかった。
あまりにも気持ち悪くて夢見てるような気持ちになってたのかも。
やっぱり運命の夜ではなかったようだ。

これからも普通に生きよう。



タイプミス
2004年05月13日(木)

私はしょっちゅうタイプミスをしてしまう。
でもこういう文章の作り方って変だな、とも思う。
ローマ字で入力して、ひらがなから、漢字に変換、という書き方だけれども、もっと全然違う概念のパソコンがあってもいいと思う。

普段文章書くときって、音で考えてないですよね。
本を読むときだって、音で考えて読むとすごく時間がかかってしまう。じゃあどう読んでるのか、というと、それもよくわからないのだけど。

何でもそうだけれど、校正しようとすると、ぱっと見ただけじゃ気がつけないですよね。特に自分の書いた文章だと。

何ていうか、脳の中ではもっと違う風に文章を書いたり、読んだりしているような。
英語と違って、日本語は視覚の要素がずっと強くて、見た感じの印象が強烈だ。
確かに言葉っていうのは昔は音から生まれたものなのかもしれないけれど、今は目で考えることもよくあるように思うのだ。

タイプミスというのは指が間違っているのではなくて、イメージが間違っている。
目で見たときに、イメージが間違いの部分を補ってしまう。

音で入力して、変換して、目で見る、ということに違和感がある。

いや、目でもない、耳でもない、もっと違うことで言葉を感じているような気もする。



単純なこと
2004年05月12日(水)

文章というのは書いている時点での楽しさでもとは取れているから、世間に出たり、次の世代まで名前が残ったり、お金をもらったり、する必要がない、というようなことを金子光晴が言っていたと思うのだけど、それって何だってそうだ。

旅行に出かけるのは、後々役立てるためじゃなくて、ただ行きたいから行くってだけだ。

何かをするとき、それを利用しようなんて思わない。

本を読むのも、読みたいから読むだけ。

楽器もそうだし。

人と会うのも、もちろん、そうだ。
新しい情報なんて教えてくれなくていいし、共通の友人の近況なんて言わなくていい。面白いことも言わなくていいし、楽しませてくれなくていい。

何かをするとき何かを得ようなんて思わない。
ギブアンドテイクなんかじゃ全然ないと思う。
もっと単純なことのように思う。



孤独
2004年05月11日(火)

骨がぎしぎし言うほどの孤独を感じたい。

ひとりになってじっと自分と向き合いたい。

何でもひとりでできるようになりたい。
牛丼もおすしもファミレスも、ひとりで食べられたり、
他の人と違うことをすることを何とも思わなかったり、
ひとりで決めて、ひとりで考えて、
ひとりで旅に出て、
孤独だなって思いたい。



新橋に
2004年05月10日(月)

前の会社の友達とお酒を飲んでとても楽しかった。
また飲んでくれるかな?



屋上緑化
2004年05月09日(日)

マンドリンを弾くために、品川シーサイドの東品川文化センターに出かける。

重い楽器を持ち運ぶことは、年老いたときや病気になったときの移動に少し似ているのではないだろうか。
そう思うとあまりモンクも言えない。
これが当たり前の人もいるのだろうな。

工作室とかなんとかいう部屋で、焼き物を焼く道具やら変な机だのがある。
開けたり触ったりする。

窓からは隣のビルの屋上一面に、黄色い花がびっしり植えられているのが見える。あれは何だ、という話になる。
モスコちゃんが言うには、黄色は「帰って来い」という意味があるから、あれはサインじゃないかということ。空に向かって。ずっと誰かを待っているんじゃないかと。
しかしNさんが言うには、ビルは何階以上だと、屋上緑化をしなければならない、とかいう法律だか条例だかがあるのだそうだ。だから何にせよ、屋上緑化だろう、と。

そうかあ、と思う。
右手には海が見える。小さな船のようなのも。それから新幹線も走る。
じっと眺める。



手段と目的と、テディベアのルドヴィック
2004年05月08日(土)

手段はたびたび目的となる。

例えば救われるための宗教が、目的となってしまう。

大事なことをわかりやすく話すことをしようとしていたら、いつの間にか、わかりやすく話すこと自体が目的になり、大事なことはどうでもよくなる。

かわいい服を着て魅力を引き出そうとしていたのに、気がつくとかわいい服を着ていないから魅力がないように思えてしまう。

年金の問題を考えようとしていたのに、年金の問題をうまく扱うことが目的になる。

生きるために飛行機に乗っていたのに、飛行機のために死んでもいいような気がしてくる。



渋谷のユーロスペースにレイトショーを見に行く。「テディベアのルドヴィック」という素朴な、ぬいぐるみのアニメーション映画なのだけれど、またもや一人で泣いてしまった。なんだか、あまりにもほのぼのとしてて、きゅんとしちゃうから。人と人との出会いって、こうだよ、とか、子供のころ、こう思ってた、とか、そうゆうのがぎゅっと詰まってる。
上映の前に、はなと中野裕通の対談があって、それも良かった。はな、しぐさも何もかも可愛い。字幕の訳もしたらしい。前向きで楽しそうで、素敵な人だな、と思う。

あと、パソコン買った。中古というか、展示されていたもので、99000円だった。質問したらまた訳が分からなくなり、むかむかしてきた。私はこうしてホームページなんて作っていても、インターネットがどうやってできるかも知らないし、パソコンのことは、用語なども驚くほど知らない。
家のパソコンは2台あって(私のは今までなかった)、母が管理している。彼女は昔から配線などがすきで、何でも嬉々としてやっている。母に質問すると、長々と説明されて余計にわからないので、聞かない。
それでそのうちの1台が壊れたので、母がメールアドレスを変えていた。私も変えてもらった。これに関しても私はよくわからなかった。
パソコンを買ったことは家族にも誰にも教えていない。使えるかわからない。



スライド
2004年05月07日(金)

理屈でものを考えられる人が、人に対しては理屈を使わないところを見ると、すごいと思う。

理屈というのは自分の頭の中を整理するためだけに使うもので、人に対しては使うものじゃない。
たとえ理論的にやっつけることができて相手を黙らせたとしても、自分にどんないいことがあるだろう。

ちょっとしたことでも、
自分がどうしたいのか、本当は何を伝えたいのか、考えてゆくと、
使うのは理屈じゃないことがわかってくる。

もっともなことも、正論も、大して力はないものだ。

そういうことを知っている人がいる。
鷹揚に構えて、人の逃げ道を切らない。
理論的に合わないことでも受け止められる。
おかしいことでも責めようという気持ちも起こらない。
でもちゃんと自分の考えは自分の中に持っていて、いつも楽しんでいるような人。
そういう人を見ると、すごいと思う。

私はやはり少し思ってしまう。
こうだからこうだ、とか、この前こう言ってたから……など。
もっと寛容な人になれたら、どんなにカッコいいかしれない、と思う。


わかめをしょっちゅう食べているが、髪はちっとも伸びない。
生まれて初めて前髪を伸ばそうと思う。

今日は、上野でローマ彫刻展を見た。金曜は8時までというのだ。
しかもスライドを1時間見た。
大学の講義みたいで面白かった。






所有欲
2004年05月06日(木)

私には所有欲はない。
果かないものにお金をかけたい。

たとえば私は本は図書館で借りることが多い。
好きな本でも、持っていないものはたくさん。
どうせどこかにあるのならいではないか。
忘れっぽい私は、きっと本の内容も思い出せなくなるだろう。
それでも構わない。
いつか知識を使いたくて本を読んでいる訳じゃない。
本を利用して何かしようなんて思わない。

旅にしてもそうだ。
旅にお金をかけるのは実際には役に立たないことだ。
私は別に旅行して自分の成長に繋げようだの、小説のネタにしようだの、まったく思わない。
思い出も特にいらない。

なくなってしまって構わない。

かわいい洋服も、かわいい雑貨も別にいらない。
見るのは好きだけれど。
誰かが着ていたり、誰かが持っていればいいと思う。

映画や美術館にはお金をかけたい。
今しかないものがあるような気がするから。

お金は大好き。
でも誰かが持っていればいい。
金は天下の回り物だから、特に自分のものでなくともよいのだ。

何かを持っていてもちっとも幸せにならない。
幸せって何かわからないけれど。

わからないけれど、幸せは大きな青い海だとする。
しかし自分が海を所有していても、幸せとは思わないだろう。
だけれど波の起きる瞬間を誰かと眺めるとする。
その後、そんな瞬間のことも何もかも忘れてしまったとしても、それは幸せに近いような気がする。そういうことかもしれない。



秋葉原
2004年05月05日(水)

パソコンを買おうと思って秋葉原に出かけたが、結局買わないで帰ってきた。私はパソコンのことがさっぱりわからないので、パソコンのことを考えるとイライラしてくる。
でも欲しい。きっと安くて変なのを買うだろう。

母の誕生日だったので、カーディガンをあげたら喜んでいた。
紺の縞々だったのだけど、もっと派手な色にすればよかったかも。
年をとっていくと、きれいな色の服を着たくなるような気がする。

こうして生活していると、人生でも、文章でも、大事なのはさわやかさとあたたかさだなって思う。
私にも、さわやかさやあたたかさはある。
言葉遊びはもう止めるって切に思う。
なんかこう、きゅんとする感じや、ふわっとする感じを大切にして行きたい。
広がる感じや温まる感じや繋がる感じやひんやりする感じが日々にはあると思うので、そうゆうのを大事にしたい。




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