![]() |
![]() |
つや出しの広告の裏に鉛筆でするメモが好きだ。 あの「ままならない感」がいい。
「どうぞご利用ください」という科白に対して、「利用なんかしない、絶対しない」と思う。 「ご利用ください」という言葉、なんだか違和感がある。だけど、何でだろう。動詞がないからだろうか。 母が梅酒のための梅を買って来ていた。 父が梅をひとつ薄切りにして塩(ふんわりいそしお)をかけて食べていたので、真似して私も食べてみたら何ともいえない味がした。どの辺りをおいしいと感じているのやら。 梅をヘタをとって布でみがいて、氷砂糖と、ホワイトリカーを、全部同じくらい瓶にいれると出来ます。 氷砂糖を舐める。 割れて、ぎざぎざが入っているものほどおいしい。 飴やクッキーは甘いということより、模様の舌触りがおいしいものだ。
習慣は敵にまわすと恐ろしいものだけれども、味方に付けると強力なものかもしれない。 苦手なことでも習慣にしてしまえば、苦痛は少なくなってくる。
お行儀の悪いことをするときに喜びがあるのはなぜだろう。 私は人がいないときは立て膝でごはんを食べたり、ベッドでお菓子を食べてみたりする。 ああ、私ってだらしない、と思うと、なんか楽になるのかも。 夏のような天気だ。 少しわくわくしてくる。 明るい気持ちが始まるといい。 考えすぎないこと。 スポーツをすること。 いつもにこにこすること。
友達と赤坂見附で会った。 友達は改札のとこにいた。 ベトナム料理を食べた。 春巻き! 生春巻きと蒸春巻きと揚春巻きを食べた。 蒸したのがもちもちでおいしかった。 友達は髪を切っていた。 私は友達が仕事が楽しそうなので嫉妬して何かいじわるいことを言ってやろうと思った。 私も頑張らねばとあせる。 でもあせってもしょうがない。深呼吸だ。 人それぞれ、私は私だ。 と、思いつつ、私も髪を切ってかっこよくなろうかな、などと考えていた。
麦茶のおいしい季節になった。
今週からお弁当を持っていくことにしたのだが、ハムエッグとウインナーときゅうり以外のものが入る気がしない。 しかしこれだと10分で出来ることが判明した。 コーラを止めようと思ったが難しい。 仲良くなった友達(おじさん)が、 「禁煙は『自分がやれるかどうか』というところが面白いんだ」 と言っていたが、私には少しも面白く思えない。 思えば今までの人生で何かを我慢した経験がないように思った。 それにキャラを維持しなくてはならない。 期待されていなくてもコーラを持っていなくては。 でもキャラ作りってそんなに大切なの?
こういう喋り方をする人は多いと思うのだけど、気の小さい私は、そんな訳がないことを喋ることがよくある。 たいして間違ってないのに、「私間違えました」 わりと関係ある話なのに、「関係ないんですけど……」 一瞬で戻る訳もないのに。「一瞬行って来ます」 など。 先回りをして予防線を張っているのかもしれないが、そういう言い方をしたからといって失敗が軽減するものでもない。 とにかく、自分の喋ることを出来る限り軽くしようという心が働くのだろう。 発音に関しても、私はのばす音が短くなることが多い。「ストローで飲む」は「ストロで飲む」、「スキーに行く」は「スキに行く」と聞こえるような言い方になる。 あと音便を多用する。「あまり」を「あんまり」「飽きた」を「飽いた」など。 多分、口をあまり動かさない、はっきりした言い方を避ける言い方になっている。 あと、「何々と思って」というときに何々に名詞や動詞でなくて、ああ、とか、うう、とかそういう言葉を入れる人が最近多い。 「びっくりした」ということが言いたいときに「ああっと思った」と言ったり。 私もよくそういう言い方をするのだけど、これも出来事を断言しないための言い方だ。 自信のない言い方というのは、自分のことだけを考えたもので、相手への思い遣りではない。 へりくだった言い方は大抵自己満足で、相手を高めるものにはあまりならない。 自分の言いたいことはシンプルにはっきり言うことが相手への思い遣りになるし、 相手を高めたいときは、自分の動作をどう言うかよりも、相手の動作をどう言うかを考えた方がいいような気がする。
私はこれからさき甘く見られないために、腹から声をだして、キーを一オクターブ低くする。あと髪を坊主にする。 鎌倉文学館で立原正秋の展示をしていて、その中に私の大学のときの先生が一緒に写っている写真があった。あの先生は立原についての本まで出しているらしかった。 私は卒業した後に、その先生に自分の小説を送ったことがあるのだが、そうしたらその感想についての葉書をぴらっとくれた。「会話文がいい」とかそんな感じのそっけない葉書で、今はどっかに行ってしまった。 あの先生は可笑しかった。毎回授業にテーマがあるのだけど、最初はそのテーマで始まるのが、終わりは違うテーマになっていた。半分くらいは違う話だった。授業というより作家へのラブレターのような口ぶりだった。 鎌倉文学館の前にばら園があるので、そこも見て回った。 触りまくってやった。ぶあつい花びらなどに。 あの真ん中にはめしべとおしべが入ってるのだろうか?さすがに中までは指を突っ込めなかったが。入ってなさそうな気がする。
仕事しなくちゃいけないし、買い物しなくちゃいけないし、女の子はいそがしぃんですぅー、というような小西真奈美のコマーシャルがあったと思うのだが、あれに反発を感じる。 いそがしくないよ。買い物なんかやめればいいのに。 すべてのマーケットで対象にされている二十代女子のイメージは苦しい。 とにかくも私にDMを出してもらっても捨てるのでくれなくていいのにと思う。 みんながみんな、おいしいパスタとケーキ食ってる訳でもないし、かわいい服着てる訳でもない。 髪を切るとき、まるで私がかわいい風にして欲しがってる風なことを言われるが、私は伸びすぎて変なのを普通にして欲しいだけで、かわいくして欲しい訳じゃない。しいて言えば、私らしくしたい。 服だって、かわいい服が欲しいんじゃなくて、普通の、見苦しくない服が欲しいんだ。 まるで二十代の女は全員が同じ願望を持っているかのような見られ方。 ダイエットだってやめた方がいい。 人それぞれなんだから。 ダイエットなんてものは、女性誌の裏にある分厚い広告だ。 会社の利益を上げるためのものなのに、人間の人生にまでかかわってくるようなあおり方だ。 やせて人生が変わる訳ないだろう。 私が思うにはダイエットって、「私でぶだからやせたい」と思う人は成功するの難しいんだと思う。 「かわいいけど、もう少しやせたらもっとかわいいかも」と考える人なんかが成功するんじゃないのかな。 とにかく女で金儲けするな。 女の子は欲張り、というような設定は何なんだろう。 かわいい雑貨集めたり、かわいいカフェでお茶したりなんて、やってられねーよ。 何でそんなに余裕なんだ?
![]() ![]() |