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「わかりました」とよく言ってしまう。 言われることもある。 「わかりました」というのはよくわからない言葉だ。 言われたときは、たぶんわかってないだろうなあ、と思う。 「わかりました」で会話が終わるのも妙だ。 「わかりました。ではこうしたらどうですか?」 「わかりました。じゃあ諦めます」 「わかりました。でもお願いします」 その後に何かが続く言葉のはずだ。 「わかりました」で止めてしまうとき、きっと相手に次の言葉をもらえるように待ってるのだろう。
雨は降っていないが、織姫は彦星に会えたのだろうか? 雨よ降れ、と私は思っていた。 やきとりを食べた。 私は友達に失礼なことを言ったのでわるかったな、と思った。 その友達に会うのも一年ごとだったら何も言わないのだろうか。
不動産屋に行ってきた。 部屋の下見をしたのだ。 話は変わるが、人と人とは、自然と離れていくことがある。 しかしお互いが自然と、ということではなく、片方では「離れたいと思ったのなら、人間関係として、きちんと挨拶ぐらいするのが礼儀なのでは」などと考えてしまうこともしばしばだ。 私もよくそういうことを考えた。「どうして早めにはっきり言ってくれないのか」「少しでも思いやりがあるなら、挨拶ぐらいして欲しいものだ」「理由があるなら言えばだけのことを」など。 でもこうやって離れていくとき、相手の好意を感じていたなら、言えないのはよくあることだ。 それに相手に対して本当のことを言わないというのも、普通のことだ。 とくに恋愛の場では、こうしたことに「礼儀」を持ち込んでも、もともと理屈でもビジネスでもないことなので、何にもならない。 こういうときは、自分で納得する理由を作ることができるとてもよいと思う。 いろいろな場面で、人は相手に答えを求めてしまう。 でも「相手がどうしたいか」をはっきりわかったところで、自分の答えが出るのだろうか。 「相手がどうしたいか」はおそらく相手はなかなか言ってはくれない。特にその「どうしたいか」がマイナスな「どうしたい」だったら、絶対に相手は言わないだろう。 だったら、相手がどうしたいか言ってくれるのを待つよりは、自分で答えを作った方がよっぽどいい。 私は今度、こういうように人が離れていく雰囲気を感じ取ったら、自分で納得するような理由を考えて、それが恋愛だったら恋愛感情はぐっとこらえて友情に持っていくようなことをしたりしたい。 現状をいい風に捉えたりはせずに、 でも悲観せずにそっと離れて、 あたたかい気持ちのままでいられるようにしようと思う。 相手には何も聞かないようにしよう。 恋愛っぽい話のついでに、こういうことも最近思う。 昔は、好きな人が「今どうしてるかな?」「何食べてるのかな?」などと考えるのが醍醐味というか、思いやりのような気分でいたけれど、最近、どうもこれは違うな、と感じる。 こういうことはただの想像だからしない方がいい。 想像したって相手のことはわからないのだから。 人のことは、会ってるときだけめちゃくちゃに集中して考えればいい。わからないことは聞けばいいし、一生懸命話を聞けばいい。 会ってないときは何も考えないのが一番だ。 これは絶対そうだ。
マンドリンの練習に行った。 駅でマンドリンのケースを持っていたら、年配の女の人に、 「そういう箱持ってる人結構見かけるけど、中に何の楽器が入ってるの?」 と聞かれた。 ちょっと楽しかった。 ところで、私は思い出というものが嫌いだった。 しかし年をとってきたせいだろうか、最近はいとおしいもののような気がし始めた。 私の好きな南Q太のマンガにこんなシーンがある。 「お前と酒を飲むのはホント楽しいな」 という、昔の男によく言われた科白を、主人公が夢の中で見る。その夢のことを友達に話すと、 「そういうのは、宝物だよね」 と言われる。なんだかとても好きなシーンだ。 べつに後ろ向きとか、今でも好きとかそういうことではなく、きっと、そういう科白はいつまでも心の中であたたかいものなんだろう。 向田邦子のエッセイに、 「大人になったら、反芻が一番楽しい」 というようなことが書かれていたと思う。 思い出というのは本当に楽しく、あたたかく、そして終わったあとも変わって行くものだ。 綺麗に変わって行った思い出は、決して現実には蓋を開くことなく、でも心の中だけで大事に箱に入れてたまに覗くのが、大人の楽しみ方なのかもしれない。
アルフィーの高見沢さんみたいな友達が欲しい。 それはいいとして、本屋さんに内田春菊の『南くんの恋人』というマンガがあって、立ち読みをしてしまった。ドラマなどはまったく知らないのだけども、マンガはかなり面白い。なんてことない科白も、どうとでもとれるような深みがある。 「おもちゃにしてごめん」と南くんが言うと、「おもちゃにしていいよー」とかそんなことをちよみ(主人公の女の子)が答えるシーンがあって、私は、そりゃそうだ、好きな人だったらおもちゃとしてだけでも興味もたれるのは喜ぶべきことだよ、と思った。 でも、この話は最後にちよみが死んじゃうのだけども、どうもこの「死」は「おもちゃでいいよー」の科白で予定されたような気がした。 結局、体が小さかろうが大きくなろうが、南くんに「小さい女の子」扱いされている間はラストは死しかないんじゃなかろうか。 恋愛は自立した人と人が綱渡り的にやるもので、大人しかやれないものだ。
ところで最近、かつてない、人と話さない時期にいるような気がする。 小説を書く、なんて言って、人と会うのを断ったりもして。 私の孤独癖はどうなるんだろう、ひとりで暮らしたりなんてしたら? 今はただそういう時期で、またしばらくしたら大学の頃のようにぴょんぴょんはねるように喋ったりする時期が来るのかな? それとも落ち着いた大人になってきたということで、これから新しい魅力が出てくる前ってことなのかな? 家族といても私はすごく静か。 でもそんな自分もわりと好きだ。 夏休みが、やっぱり友達などと合わないようなので、旅行なども折角だから、やめて、ここで引越しをしようかな、ともくろんでいるところだ。だけど、ちょっと友達に言ったら部屋探しというのはじっくりやるものらしいので、間に合わないかもしれない。 でも私のことだから、変な部屋にぱっと決めてしまうような気もする。 不安だ。 人と話さないでいたら、話さないで平気になっていくのは当たり前だ。 とにかくちょっとずついろんな人と話すようにしよう。 新しい人と会ったり、新しいことに気が付いたりしていくように、行動するようにしよう。 私はべつに人と話すのが苦手なわけじゃないんだから、やればできるんだから。 先のことは考えないでちょっと前くらいのことまでだけ真剣に考えよう。 先のことって3年まででいいらしいよ。
今月読んだ本はこれだけでした。 『南方郵便機』サン・テグジュベリ 『秘事』河野多恵子 『ゴトーを待ちながら』サミュエル・ベケット 『マクベス』ウイリアム・シェイクスピア 『博物誌』ルナール 『恋の骨折り損』ウイリアム・シェイクスピア 『深呼吸の必要』長田弘 『なぜわれわれは戦争をしているのか』ノーマン・メイラー 『世界音痴』穂村弘 『短歌という爆弾』穂村弘 『両性具有の美』白洲正子 『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン
人。 人はその人っぽいことが可笑しいのが可笑しい。 全然喋らない人は、 「あの人全然喋らないよね」 ということが可笑しいし、 よく喋る人は、 「あの人よく喋るよね」 というのが可笑しい。
U駅の駅員の中に劇団ひとりに似ている人がいる。 顔も声も。 私は乗り換えのとき、その人の近くのドアから乗る。
私は妹に対して常に後世畏るべし、と思ってる。 妹のハンバーグをくまにしておいた。
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