twitterも書いております。
『ミライの源氏物語』のAmazonページはこちらです。
『微炭酸ニッキ』  山崎ナオコーラ

(新たなご依頼をいただける場合、あるいは、既刊の作品についてご質問をいただく場合も、
拙著の刊行がある出版社さん宛てにメールにてご連絡をいただけませんでしょうか?
転送してもらえますので、私から返信します)。

被害者対決
2004年09月11日(土)

被害者みたいなこと言ってるけど、どう見たって、あたしの方が被害者だよ。


鮭絶賛
2004年09月10日(金)

鮭の体はあまりにピンクでしょっぱくてびっくりだ。
ごはんの中の鮭なんて、もうほんとにおいしい。



安心
2004年09月09日(木)

小説を書いている、なんて話をすると、よく言われるのが、「ぼくのこと書いてる?」だけど、でも、きっと絶対書いてないので、安心してください。

小説を書いてるときに向かうのは「小説」なので、「誰か」には向かわないものです。

でも、元気ないとき元気付けてくれたり、いろいろな経験を味わわせてくれたり、傷つけてくれたり、考えさせてくれたり、そういったことをしてくれた人々のおかげで小説を書けているというのはひしひし感じています。

ありがとう。




2004年09月08日(水)

たんじょうび当日、家族全員で夕食を食べたが、誰ひとりとしてたんじょうびの話をしなかった。
年頃の娘がたんじょうびに早く帰宅して普通にしているのをあわれんでいたのか?

しかし、次の日、母はフルーツケーキをくれた。

父は豆をくれた。



今日は明日の前日だから、だから怖くてしかたないんですわ
2004年09月07日(火)

日記が一週間滞ってしまって、実は今は本当は14日です。
14日は15日の前日で、15日は私のたんじょうびです。
私は普通の女なので、たんじょうびを非常に気にします。
今年のたんじょうびは私の恋愛史上最悪のたんじょうびです。
こんなことならたんじょうびなんかなかった方がよかったと思ってます。
たんじょうびはそんなもんじゃない、と言われても、でも、と思ってしまいます。

でも、ほんとうは幸せなんだろうな、ごはんもあるし。



消し去る
2004年09月06日(月)

私はもう低俗なことには一切関わらない。

腹が立ったり、ジェラシーがわいたりするような場面があったら、すぐにその場を立ち去る。

自分のことをちょっとでも好いてくれてる人に気を遣う。
そうじゃない人のことは気にとめない。

嫌なことはなかったことにする。消し去る。

品のあるもの、情のあるものだけに関わることにする。



小田急線
2004年09月05日(日)

小田急線で、大学のときの先輩の家に遊びに行く。
新婚さんの、かわいらしいお部屋だ。
大島弓子全集なんかあって、うらやましかった。
一品持ち寄りってことだったので、生春巻きを買っていた。あとカレーとかいろいろ出してくれた。お料理できる人はうらやましい。おいしい。
女の子たちとお喋りするのはとても楽しい。
樋口一葉恋すごろくをする。



エポックメーキング
2004年09月04日(土)

渋谷のBunkamuraで映画を見て、美術館に行く。パルコに行ったら、Cocco の原画展というのがあってそれも見てきた。

美術館に行ったときに思ったのだけども、「自然な感覚」と「自分の感覚」というのは違うな、と。
例えば、ピカソの絵の色って、はっとするというか、それまでの絵の流れでいくと変とも言えるようなものだ。

色を選ぶときに、きっと、自然と浮かぶ色っていうのがあると思う。
それはきっと、今までの絵画の流れからのものであったり、一般的なイメージであったりすることが多い。

でも、「自分の感覚」の色を探すと、そんなんじゃ全然なかったりするんじゃないだろうか。
ピカソはそんな風にして色を探したのじゃないか、と思った。

言葉も同じだ。言葉を選ぶときに、すうっと出てくる言葉というのがある。ちゃんと「感覚」に合っていたり、なじんでいたりして、最初はその言葉で良いような気がしてしまうのだけども、それは「自然な感覚」のものであって、「自分の感覚」のものじゃない。
「自然な感覚」の言葉というのは、つまり今まで読んできた本の中で使われていた「こういうときはこういう表現するんだろう」というようなイメージのもの、人と話したりして掴んでいる「考えなくてもするりと出てくるなんとなくの言葉」であったりするもののことだ。
「自分の感覚」の言葉というのは、そういうのとはまったく違う、一見するとまったく合っていないような表現であったりもする、でも伝わる、そういう言葉がある、と思いませんか?



200円
2004年09月02日(木)

コンビニで200円のサラダ買ったり、150円のデザート買ったりする、女の子たちの気がしれない。
こんな、腹の足しにならないもの、200円も出したくないよ。
私は肉を買う。



難しいを禁句に
2004年08月31日(火)

「難しい」っていう言葉を、私はよく使ってしまうのだけれど、これを自分に対して禁句にしようと思う。

「難しい」というのは、たいてい、ただのボヤキだ。
どこにも行き着かない。
意味も曖昧で何も伝わらない。

例えば「それはできたら面白いけど、でも難しいよね」などという科白の中の「難しいよね」はいらないと思う。
「私にとって難しいのか」「他の誰にとっても難しいのか」など、基準が曖昧で、言ったところでどうということもないから。
もっとはっきり言った方が生産的。
「うまい人がやった場合はかっこよく決まるだろうけれども、私がやった場合は甘くなってしまうだろうから、それはしないでB案の方がいいと思う」

何か意見みたいなのを言ったあとに「でも、難しいかな」などと言うのも、止めようと思う。

「難しい」というのは、謙遜の意味も出るし、それほどのきっぱりした否定にもならないから、使い易くて、使い勝ちだけども、これからは使わないようにしよう。




BACK   NEXT
目次ページ