わたしを押し通して、あなたとの距離を取ると、孤独で寂しい。わたしを押し通して、あなたとの距離を取ると、自分らしさが発揮できて心地良い。どこまでが、わたしらしさを保つ境界線で、どこからが孤独を紛らわすための越えるべき境界線なのか、見極められなくて中途半端に両方とも満足できないのです。
実家がバタバタしています。下手をすれば家族崩壊にもなりかねません。問題を解決するためにだとは思いますが、家族それぞれの思いが錯綜し、かなり混乱しているようです。そんな中、私は実家に戻る気になれません。なぜなら、家族の嫌な一面を見なければいけない現実に直面するのが辛いからです。私は外から客観的な意見と、冷静な対応を家族のメンバーに呼びかけていますが、反応は今一つです。
問題の中心に居る彼らにとっては、私の冷静さは意味をなさないのかもしれません。非常に寂しい現実ですが、家族における私の精神的存在価値はさほど無いのかもしれません。また、彼らのそのような態度が私を実家から遠ざけます。どうせ帰ったって... どうせ意見を言ったって...
これほどの無力感、そして、孤独感を感じたことがありません。
この家族への不信感、果たして修復される日が来るのでしょうか?心配です。
言葉遣いというのは本当に恐ろしいものです。
今日、私は、あまり親しくしていない女性のクラスメイトに「おやじ」と言われました。彼女の鈍感さにはあきれました。
他のクラスメイトが、私を「おやじ」と呼べるその根底には、その言葉を発しても良いという人間関係の構築があるのです。また、そのような場の状況があるからこそそういった発言が可能になります。
まあ、常識なのですが...
言語聴覚士という職業を目指す人の中に、このようなレベルの低い人が居ることを嘆くと共に、自分が同じ過ちを犯さないように充分に注意していきたいと感じました。
しょうもないことです。
テスト前の雰囲気が大嫌いです。何のために私たちは勉強しているのか?と嘆きたくなるからです。いえ、別に私は試験勉強などしません。昔からそうです。試験のための勉強などしたことはありません。別の言い方をするならば、試験のための小技の準備はしたことはありますが、『勉強』などというものをしたことがありません。
私にとって『勉強』とは、『学問』そのものであります。『問うて学ぶ』ということであります。『問う』ためには理解しなければなりません。そして、それに対して疑問をもつことが必要です。疑問をもつということは、理解した内容を自分の考えで吟味するということであります。それが学ぶことなのです。
教科書に書いてある内容を、先生が気に入っていただけるように書くというのは、ある意味一つのゲームでありまして、そこにはテクニックが関わってくるのです。(むろん、しっかりしとした学問の試験を実施してくれる先生も居ますが...)そんなテクニックばかりを磨いても良い職業人にはなれません。社会人経験者ならその辺はよくおわかりいただけると思います。
テストのために無駄な小技の準備、そしてエネルギーの無駄遣いをしております。
金曜日に実家で問題が発生いたしまして、どうも気持ちがそればかりに集中しておりまして、日記が滞っておりました。その内容を書けば良いのでしょうが、後悔するには気の引ける問題なのです。落ち着いた段階でまた概要をお知らせいたします。
いつもテスト前になると言っていますが、テストのために勉強するなんて自分が、非常に情けないです。
また、テストが暗記を必要とするテストでもう夜も11時なのにいまだに試験の準備をする気になれません。
なので、教科書を読んで理解をして、それでテストに挑みます。それで、ダメならそのときに考えます。あくまでも自分のやり方、ペースを守ります。それに、本来、普段の準備があればできるはずのことなんですから、私自身の問題でもありますから。
勉強しなければなりません。基本的欲求が満たされない、軽いうつ病ですなどと、たわ言を言って自分を慰めているなんて、客観的に見てみると、非常に情けない限りです。自分を責めてはいけないと言われますが、覚悟をもって、責任を持って、自分の人生を送ると心に決めている人間が、外に原因を求めてただため息をついているなんて、なんてことでしょう。
私は自分の責任で、現状を打開します。
今日は、朝から気分がすぐれず、その影響か体の調子も悪かったのですが、学校にいきました。「無理はしないほうが良い。」と、簡単に人には言いますが、実は自分自身にとっての『無理』ってのがどんな状態なのか分かりません。分からないのに無理しないでって人には言うし、言われるとありがとうと答えます。
そんな状態の朝だったので、かなり頑張って学校に行きました。朝の時間はずっと不機嫌でしたが、午後からは調子も戻りました。ふと、冷静に「俺ってうつ病みたいな症状示してるな。」と思いました。軽いうつ病なのかもしれません。
話は変わりますが、夜食事のために外に出たときの軽い驚きをご紹介します。今日は雲が立ち込めた空になっています。私が住んでいるのは神戸の元町、いわゆる繁華街のど真ん中です。その繁華街の明かりが立ち込めた雲に反射して、空が真っ白になっていました。夜なのに夕方の雰囲気でした。あの妙な感覚、不思議でした
今は逃げています。逃げるからには何か嫌なことのはずですが、実は今一番したいはずの勉強から逃げています。なぜだろう、ゆっくりと一日かけて考えてみました。私は寂しいのです。ただただ、寂しいのです。私には友人がほとんどいません。いや、正確に言うと、学校の友達や遊び友達、または、一緒にのみに行ける知り合いはいます。しかし、言い訳、または、強がりと言われるのを承知で言うと、私が真に心を許せると思うに値する友達がいません。自らの基準で、自らの孤独を甘んじて受けようと大脳は言いますが、脳幹は寂しいと叫ぶのです。
マズローの欲求階層を引っ張り出して思うのです。恐らく『生理的欲求』、『安全の欲求』、そして『社会的欲求』のバランスがとれていないのだろうと。えらく低次元での自身の低迷に頭をなやますばかりです。
今日はすでに日曜日です。敢えて昨日の土曜日の日記を書こうと思い机に向かいましたが、昨日、何も書くに値するようなことを自分はしていないし、考えてもいなかったという事実に愕然としています。なんとなく過ぎて行く日々に、私は非常に鈍感だということを思い知らされました。
と同時に、私の自分の生活や将来などに対する意識が非常にあいまいな状態であることに気付きました。焦点が定まらず、日々を漫然とすごしているのです。目標を失ったミサイルのように、とにかく前に進もうというエネルギーを放出しながら、空中をさまよっているようです。爆発したいのだけれども、爆発できない。
まずは、焦点を定めることから始めます。
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