今まできつかったジーンズのウェスト、太ももが今日はすっきりと入りました。
今日はアルバイトでした。短期バイトを紹介してくれる派遣会社におととい登録したところです。早速、仕事を依頼し、朝から働いてきました。久しぶりの労働は、どちらかというと肉体労働でした。軽作業ではありますが、これを一日中行うとかなり疲労します。財布を100回上げ下げするようなものです。普段は何とも無い動作が、非常につらくなります。ま、私の財布の場合は、100回以上行くでしょうけれど。
主にダンボールの箱作りをしていました。冷房の無い倉庫での作業なので、汗がダンボールの上にポタポタと落ちます。だんだんと薄れ行く意識の中で、ふと「リズム」ということが生活において非常に大事なものだということを再認識しました。
昨日、「型」にはまることで人間の能力は思った以上に発揮できるということを、職人の例をあげて書きましたが、まさに、職人技を見ているとその所作には「リズム」があるのです。あえて、「所作」という言葉を使ったのは、職人さんの仕事は作業ではないからです。作業と所作の違いは「リズム」なのではないか?と思ったのです。
初めての仕事ですから、ダンボール一つ作るのも、最初は段取りがわからず時間がかかります。しかし、時間が経つにつれ、ダンボールを作るスピードが落ち着いてきます。そして、最後には、あまり考えなくても勝手に手が動き始めるのです。この勝手に手が動き始める瞬間、私の作業は少し所作に近づいたのです。リズムが出てくるのです。細かいところでリズムが大事な役割を果たします。ガムテープを持ちかえるタイミング、ダンボールを折るタイミング、それらすべてがリズムを成すのです。
私は、ことばのリハビリ士を目指しています。ことば、特に話しことばにおけるリズムの重要性は、実は皆さんが考えている以上のものです。書き言葉で、このリズムの重要性を説明するのは難しいのですが、これを試してください。
通常:「わたしは、あついなつがきらいです。」 リズム障害:「わーたっし、はあつーいっなー、つっ、がきーらー、い。」
これを音声にしてみること自体が、非常に難しいと思います。どんな感じの話し方になるのかお見せできないのが残念ですが、なんとなくお分かりいただけますか?このようなリズムの障害は「プロソディー障害」と呼ばれています。
日常の中で、物事をうまくスムーズに行うために「リズム」というのは非常に重要な役割を果たしているのです。簡単に考えがちな「リズム」。今やっている仕事のリズム、勉強のリズム、会話のレベル、見ているテレビで流れているCMのリズム、車が走る音のリズム... あらためて、耳を体を目を澄まして感じてください。さまざまなリズムの調和が、自然の奏でるリズムなのです。そして、私達人間の体もリズムそのものなのです。
軽く自分の部屋を模様替えしてみました。ちょっとした気分転換みたいなもので、これをきっかけにテンションがあげればと思ったのです。で、結果はとても良かったです。家具のレイアウトはほんの少ししか変えませんでしたが、学校のプリントの整理など細かいものを「捨てる」「まとめる」「見なおす」ということを徹底的に行いました。
昔から、「掃除」「片付け」というは、環境を清潔にしておく、物を整理しておくといった直接的な目的以外に、心の中の清潔さや整理といった面にも大きく作用してきたのだろうと思います。散らかった机の上で、整理された思考はできないだろうし、新しい発想も生まれないでしょう。
以前、私が居た会社の社長、そして、私自身の机の上が一番二番を競うほど散らかっていたことがありました。お互いに、「これが自分にとっては一番分かりやすいんだ。」なんて言っていましたが、今になって考えてみると私はただ追われるように仕事をし、社長も事業に対する戦略を追われるように作っていました。
仕事忙しさや拘束時間の長さで、充実した仕事をしていると感じていましたが、実はまったく新しい物を創造していなかったのです。
体で感じる快適さ、見た目で感じる清潔さ、すべては脳にて感じるわけです。その感覚が、さまざまな思考の回路にも影響を与えるのです。何気ない日常の行為が、メンタルな部分に思っている以上に作用しているのです。
たまには部屋を整理して、頭を整理するきっかけを作るのも必要なことでしょう。
ドトールでお茶してる際に、こんな言葉を思いつきました。
Constant commitment prompts constant rewards that make you a happy man.
「コンスタントに何かに対して働きかけていれば、コンスタントに何か得るものがある。そして、その得たものはあなたを楽しい人間にしてくれる。」そんな意味です。
今、自分の人生におけるテンションをあげる方法を常に考えています。恐らく、瞬間的にテンションをあげる方法はすぐに見つかるでしょう。しかし、高い位置でそれを持続し、人生におけるテンションを高くするには、自分にとって高いと思われるテンションを通常のテンションにしなければいけません。それには、瞬間的なテンションをあげる方法では、息切れしてしまいます。
何か良い方法はないかなと考えているうちに、上記の文章を思いつきました。なぜ、英語なのかはよくわかりません。恐らく、私にとって英語の文法の方が、心に響くと感じたからでしょう。
「コンスタント」というのが、キーワードとなります。「常時」何かに対してコミットしていることが大事なのです。以前の日記(020526)にも書いた「本気」であるための条件にも、このコンスタントであることの要素を書きました。気持ちの常時性というのが、精神力の中核をなすのではないかと思います。そして、この常時性が、今は高く見えるレベルも、普通のレベルにしてしまう大事なトリックの一つなのです。
習うより、慣れよ。
この先人の言葉が、単なる詰め込み学習を奨励する言葉として悪用されていましたが、実は、この「慣れる」という常時性が、あなたの能力を引き出してくれるという意味なのではないかと最近ようやく実感できるようになりました。まさに、職人さんがそうです。レベルの高い低いの意識レベルを飛び越えた「型」を身につけること。これが、すべての基本ではないのかと思うのです。
今日は家でボーっとしていました。一人で一日過ごすのは、寂しいですね。一人で何もせず一日家に居ると、テンションが上がるはずもありません。今日は一日ローテンションで、何かしようという気になりませんでした。
今、たまにですが漫画喫茶に通っています。目的は白土三平の「カムイ伝」です。まだ、読み始めて3巻ですが、すでにその漫画のもつ世界に引きこまれています。全部で何巻あるかは覚えていませんが、加えて「カムイ外伝」というシリーズもありますから、いつになったら読み終わるのでしょうね。
バイトの話です。とりあえず、短期の軽作業バイトを紹介してくれる会社に登録しました。仕事の質より今のお金を取ることにしました。今後、長く続けられる、自分にとって質の良いバイトを探すには一番良いオプションかなと思い登録しました。
最終的な目標や決断を妥協するのはいけません。しかし、最終的な目標に向かう、また、決断を下すまでの準備において妥協することは大事なことです。マラソンで走るときも、ゴールは一つです。ただし、そこに行きつくまでにどのような走り方をするかは、それぞれが状況を判断しながら臨機応変に変えていきます。体調や気候と妥協するわけです。
ただし、ゴールは妥協できません。ゴールを妥協するということは、走る意味さえなくなってしまい、目的を達成できないということにつながります。妥協とは決して信念を曲げるということではなく、物事の本質を捉えるための過程を効率よくするための人間の知恵なのです。
走ることが好きな人は走っているだけで妥協していないので、それはそれでうらやましいことです。生きていることだけで嬉しいと感じられる世の中に生きていない私達は、ある意味、生まれながらにして不幸なのかもしれません。
少しだけサイト内を改造しました。いつも改造しながら思うのですが、「欲張りすぎは禁物」ですね。サイトをゆっくり眺めてみると、なんだか色々と文章のカテゴリがあって自分でも混乱してしまいました。何事においても、等身大を基準にしないと疎かになる部分が出てくるようです。
バイト探しは、このところ小休止状態です。4月から面接にだけはたくさん行っていますが、採用されなかったり、自分から断ったり、定まりません。選べる立場にいないはずなのですが、とても選んでいます。やはり、面接の人、働く場所の雰囲気をしっかり見てみると、バイトとは言えどこでも良いというわけには行きません。
そのような訳で、本日は午前中から知り合いのお花屋さんのお手伝いをしてきました。大した仕事はしていませんが、久しぶりに働いた感触が非常に心地良く感じたのです。「働きたい。」素直にそう思いました。
先日も日記に書きましたが、「夢中」というのが良い仕事の条件だと思います。でも、その前に「夢中」になるための条件はこれだというのがありました。それは、「働きたい。」という意欲です。何がしたいとかではなく、ともかく、「働きたい。」という気持ちです。そこに、褒賞があろうがなかろうが関係無く、ただ、労働したいと思う気持ちなのです。
この4ヶ月間の学生生活の中で欠けていたものとは、実はこの働くということから得られる爽快感だったのではないかと思うのです。もちろん、学生として勉強して一人前の言語聴覚士になることは、将来的によりよい爽快感を得られるためにしているわけです。しかし、やはり常に労働というものが日常のどこかに無いと、この社会で生きているという実感がわかないのです。働くということは、社会に対して働きかけることでもあるのですね。
さて、納得の行くバイトが見つかるかどうか?それまでは、お花屋さんで労働ごっこでもしておきます。そうでないと、本当に孤独ですから。
昨日と今日で、一気に私がホームページ作製のお手伝いしている「wood fragrance」さんのサイトリニューアルを行いました。非常に良い出来なので、また、お時間があればごらんいただければと思います。ご感想・ご指摘などいただけると幸いです。
先ほど、日付も変わった夜中の12時半くらいにサイトをアップロードして思いました。人が夢中になると寝食を忘れてしまうってすごいことだなと。今日も、夕方からテレビで阪神-ヤクルト戦を流しながら作業していたのですが、気がついたら終わっていました。でも、試合は4時間以上もやっていたのです。私は、「あっ」という間にしか感じませんでした。
好きなことを仕事にできたらどんなに良いだろうと良く言いますが、「好きなこと」って何だろうって考えると、意外と曖昧なのですね。仕事というのは好きな「物」「事」ではなくて、「物」「事」を生み出す過程なのではないでしょうか。その過程の先には、「○○さんのために...」「この地域の人のために...」「国民のために...」「人類のために...」「いやいや、自分の利益のために...」などのように誰かを喜ばすためのターゲットがあるのです。
私が、何時間もかけてお花屋さんのサイトをリニューアルするわけは、以下の4つのターゲットがあるのです。
1)「オーナー(私がお世話になった元上司)に喜んでもらいたい。」 2)「ホームページによって売上に貢献したい。」 3)「ホームページを見る顧客に良い店を知ってもらいたい。」 4)「上記のようなことができる自分が格好いい。」
夢中になるのは、ホームページを作ることが好きなのではなくて、それを作ることによって得られる目標があるからなのです。こんな風に、夢中になれる仕事がしたいですね。このことは、もう一つあることを考えさせてくれます。仕事が好きか嫌いかではなく、その仕事の先に夢中になれる何かを見出せるかどうかが、本質的な問題であるということです。
夢中になる仕事、それは自分で探し出すものなのですね。
このところ、祖母やその妹さんと一緒に食事に行ったり、お茶を飲んだりする時間が多くなりました。70歳を越えた白髪姉妹と共に時間を過ごしていると、不思議に楽しく時間が過ごせます。
自分が医療福祉関係を志すようになったからなのかどうかは、良く分かりません。ただ、これまでになく「人の話を最後まで良く聴かなければならない。」という事と、「老人の二人が分かる話し方をする。」という2つのことを心がけるようになりました。
まず、老人は話す速度が遅いです。それと、経験を基にしているからでしょうか、物事を断定して話します。また、説明も言葉足らずになることも多々あります。やはり、以前に比べると単語の記憶力が落ちているからかもしれません。このような老人に対してじっくり聴くという態度を取るのは、そう簡単ではありません。ちなみに私の父は、私の祖母とまるで思春期の親子のような言い争いを日常茶飯事で行っています。お互いに歳を取ってしまったのかもしれません。
また、私達の普段のしゃべりの中には意外と横文字や、現代的な言葉の定義付けが多く使われています。その言葉の微妙な違いは、会話の前提となる部分さえ変えてしまい、慣れない人は途中で会話すること自体が億劫になってしまうかもしれません。私の父が、祖母に話し掛けるときも、このようなちぐはぐな会話を良く耳にします。
しかし、何もこれは老人に限ったことではないのです。親しいと思っている友達だって、実はどこかで、「なんだか本当に分かり合った気がしない。」なんて事はありえるのです。それは、何が原因か?恐らく、お互いがお互いの言葉の背景を読み取る努力が足りない可能性があるのでしょう。前にも書きましたが、「人の心がわかる心を教養という。」という言葉、非常に実感させられます。
老人との会話。それは、私が自分の教養を肌で感じられる瞬間でもあり、そして、それを磨くトレーニングの場でもあるのです。
心と脳は同一か?
昨晩、NHK教育テレビで音楽療法士のことをやっていました。音楽を使って脳に障害を負った人の機能を取り戻そうとする専門家を音楽療法士と言います。アメリカでは国が定めた音楽療法士が5000人いますが、日本には法的に資格が制定されていません。また、このような音楽を使った療法を実際に行っているのは500人前後だそうです。
この番組の中で、音楽療法士の仕事を2つに大別していました。恐らく、視聴者の理解を助けるために非常に分かりやすいアプローチを取ったのだと思います。一つは、さまざまな難病や、治らない病気を患っている患者さんへの心理的なサポートとしての音楽療法。そして、もう一つは脳卒中などで脳の機能障害により、失語や痴呆的症状を示す高次脳機能障害の患者さんへの、機能回復のための音楽療法です。
番組は「心」と「脳」への2つのアプローチを取っていました。この番組を見ながら、私自身は「心」と「脳」を別で考えるなんて、どうしてだろうと思っていました。「心」という実体は無く、外部の情報を私達自身が理解できるような形に処理してくれ、私達がそれらを「思う」「感じる」「考える」などのように象徴化している。それが脳の機能であり、動かざる科学的な事実だと考えたからです。
この、番組を見たその後に、先日、創刊されたばかりの「考える人」(新潮社)という雑誌を読んでいました。その中に「小林秀雄」という作家?哲学者?の「心脳問題」に関するエッセイが載っていました。その中で、「心」は「脳」とは別の機能があるという話が出ていたのです。例えば赤い色を見たとき、私達の脳はこれまでの経験という情報を基に、「これは赤色だ。」と判断するわけです。しかし、この赤を見て「昔見た夕焼け」を思い出す、また、それにまつわる幼少期の経験が呼び出されたりするというのは、個々の主体的な感覚です。いわゆる一般的な脳の活動だけでは説明のできない機能がある。というわけです。
「私」という存在を考える際に、この心の有り無しが非常に大事な問題になるのではないか?と私は読んでいて思いました。これまでの脳科学をベースにした、単なる科学反応の結果として、私達の記憶や感覚があるのであれば、「私」という存在がなんだか非常に危ういようなものになってくる気がしたのです。
心と脳は同一なのでしょうか?
引越し、電話の移転、部屋の整理などが終了し、ようやくサイトに関わる時間ができました。それにしても暑いですね。毎日、起きたら汗びっしょり、歩いたら汗びっしょり、食事したら汗びっしょり。いつになっても乾きません。「日本の夏、金鳥の夏」という宣伝文句がありましたが、このまま温暖化が進むと、とても危ないことになるのではないかと心配です。「日本の夏、緊張の夏」にならなければいいですけれど。
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