知らんけど

2002年08月21日(水) テスト嫌い

お昼はいつも学校に出入りしている仕出し業者の弁当を500円で買って食べているのですが、今は私の在籍する言語聴覚科以外はまだ夏休み中ということもあり、外に弁当を買いに行っています。学校は梅田のスカイビルの近くにありますが、昼休みになるとそのスカイビルに入っている企業で働く人達向けに、多くの弁当業者が簡易で露天を開きます。夏休みの間だけというつもりで、その露天の弁当を買うようになったのですが、これが安いのです。弁当+お茶で、昼休み終了直前に行くと300円で買えてしまいます。学校の弁当なんて、これからバカらしくて買えませんね。

音響学の集中講義は一応、今日で終了です。集中講義はこれから「言語学」「音声学」と続きますが、「音響学」は終わりなので、テストがありました。夏休み終了後三日目にしてテストということで、非常に気分的にはブルーでした。何よりもテストとという言葉が嫌いです。テストというのはどうしてもその場限りのやっつけ暗記になってしまうので、本当の意味での理解力が試されている気がしませんし、受ける私達もテストが終わったら、はい終了。という感じになってしまい、良くありません。もっと、知的好奇心をくすぐる評価方法は無いものなのでしょうか?

テスト中心の評価法はどうしても、生徒を受身にさせてしまいます。先生が授業で言っていることを一つ残らずノートに書き記し、試験前になると「範囲はどこですか?」「これは出ますか?」という小手先のテスト用の勉強になってしまいがちです。試験前に繰り広げられる、こういったテスト準備期間の周りの行動は、正直いってゲンナリします。普段のちょっとした努力で、大部分は解決できるような問題ばかりです。努力というのもちょっと変なニュアンスですね。自分の意思でやりたいことをやっているのだから、努力という感覚はないはずです。

普段からの興味の持ち方。それだけで、勉強の効率もかなり変わるはずです。



2002年08月20日(火)

一人暮し12年にピリオドを打ち、現在、父親と二人暮らしになったことは以前にも書きました。夏休みの頭から、この父親との二人暮しが始まりました。私が、夏休み中は、私が寝ている間に父親は出勤していましたが、私が通学を再開するようになってからは、私の方が微妙に早く家を出ます。

ここで大きな問題が発生しました。父親は朝風呂が好きで、結構、時間をかけて風呂に入ります。その父親の入浴時間が、ちょうど私の朝のシャワータイムと重なるのです。今日の朝が、それに気付いた朝でしたが、私はベッドの中で遠くの方で聞こえる水の音を聞きながら「ヤバイ」と感じていました。一人暮しになれきった私は、このような事態をまったく想定していなかったのです。

これは戦争と言っても過言ではないでしょう。朝のトイレ、朝の風呂、朝の洗面台... 戦場は約3ヶ所。そして、その狭い三角形の地帯をニアミスしながら、朝の忙しい時間を過ごすのです。ん〜、家族で暮らすとはなんと危険なことなのだ。と改めて思いつつも、朝から生身の人間に向かって「おはよう」と声を出したり、戦場をくぐりに抜けて「行ってきます。」と言える幸せを感じているのです。父親の存在自体には、なんか面倒臭い感じが無いわけではありませんが...

月曜から始まった、集中講義では「音響学」をやっています。私達、言語に携わろうとしている人間にとって「音響学」は非常に大事な科目です。なぜなら、ことばの基本は音だからです。どのように、音が生成され、どのように音が伝わるかという概念は、基礎知識の中の基礎知識であるべきなのです。

人間が発する音というのは(他の動物も恐らく同じだと思います。)、とても複雑な過程を経て音として発声されます。まず、肺から空気が気管を通じて押し出されます。その途中で、声門を通過し声帯を震わせたり(有声音)、声帯以外の部分を狭めることにより空気に振動を与えます(無声音)。例えば、「あ〜」と言いながら喉を触ってみると声帯が震えているのが感じられます。また、「ふ〜」と唇をすぼめて空気だけをため息を付くように出すと、空気が擦れる音がします。

生成された音は、音波として空気中を伝わります。知っていますか?海などで見られる波は「横波」で、空気中を伝わる音波は「縦波」なのです。横波とは、まさに「〜」です。縦波は表現しにくいのですが、ミミズが這っている姿を思い出してください。バネのように延びたり縮んだりするようにして、密度の濃いところと薄いところが交互に前に進んでいくような波なのです。

こうした、人間の生理学的な側面からの「音」、そして、物理学的な側面からの「音」のルールをこの集中講義でやっています。こうした科学的な側面からの言語リハビリというのが必要だということを先生がおっしゃっていましたが、まさに、私が常日頃思っていることだったので、とても興味を持って授業を聞くことが出来ています。



2002年08月19日(月) 環境要因

久しぶりの学校は、思ったよりも早く終わりました。今日、2週間にわたる集中講義が始まりました。音響学、言語学、音声学を勉強します。すべて同じ先生が教えてくれるのですが、「すごくおもしろい先生です。」と言われていたので期待していました。しかし、期待は裏切られました。毒舌を吐く割には、教え方、説明の仕方がわかりにくく、生徒の意欲を上げる授業ができる先生ではありませんでした。

私が行っている専門学校では、外部から呼ばれた先生は一コマ10万円のギャラをもらっているとのうわさを聞きましたが、割にあいませんね。予備校の先生はもっとシビアに生徒に評価されているのではないでしょうか?まあ、先生の人格や、教授としての質を否定しているのではなく、教育する人間として、生徒の気持ちや状況を想定した教え方ができていないと感じるだけなのですけれども...

学校が終わってから、タダ券をもらったので、グリーンスタジアム神戸にオリックスVS日本ハムを見に行きました。そう、かなりマニアックな試合です。観客はまばらで、試合内容もしまりの無いものでタダ券でなければ決して行きません。どうしてオリックスはここまで来てしまったのでしょうか?球団の体質もそうですが、選手のやる気、それを出す立場にいる首脳陣。すべてに問題がありそうです。

選手一人一人のやる気が、最終的に上がれば、すべてがうまく行くのでしょう。でも、選手を取り巻く環境が、そのような気持ちを生まないものなのかもしれません。周りの環境だけのせいにするのは極端ですが、気付かないところで影響されているのは確かなようです。球団の状況、そして、学校の授業内容、重ねてみると意外と似たような感じです。何とか、環境を十分に利用し自分の能力を発展させるためには、環境に左右されない強い意思を持ちたいものです。例えば、イチローみたいな...



2002年08月18日(日) きっかけ

関西は久しぶりに雨が降りました。気温が下がれば良かったのですが、期待ははずれてムシムシ。まだ、少し風があったのが救いです。降るならもっと思いきって降ればいいのに... と愚痴を言いながら帰ってきました。

今日は、朝から学校へ行きました。授業ではなく、学校説明会のアシスタントとしてです。仕事自体は誰でもできるものでしたので、まったく楽しくはなかったのですが、他の学部の人達と交流できたのは面白かったです。医療秘書、視能訓練、作業療法士、看護とそれぞれの人達の志を少しとはいえ、聞けたことは非常に良い刺激になりました。

このところ、私のテーマとなっている心の「熱さ」。なかなか自分の力だけでは着火しませんでしたが、今まで興味を持たなかった分野に、自分の意思ではないにしろ、飛び込むことによって、まるで炭にほのかに見える赤い部分からじわじわと燃えるような感じで「熱く」なりつつあります。

今日で夏休みも終わり。明日から授業が始まります。このほのかな「熱さ」をキープして、より「熱い」ものにしていきたいですね。



2002年08月17日(土) 針金細工

今日は、引越し時に面倒くさくて放っておいた荷物を解いて、捨てるものと置くものを選別し、整理をしました。面倒くさくて放っておいたくらいのものですから、大したことないのですが、やはり、普段は使わない昔の写真や手紙などが出てきて、懐かしい気持ちになりました。引越すたびに昔を思い出します。整理したついでにパソコン周りも少しデコレート。趣味悪いですけど...



午後から、学校の友人と神戸を散策。北野周辺を歩き回りました。女の子のアクセサリーショップ周りにはちょっと閉口しましたが、良く見るとかわいいアクセサリーもありました。女性が「かわいい」という感覚と、男性が「格好いい」という感覚のズレが、昔は気になりましたが、最近は、女性の「かわいい」の感覚が分かってきました。好みのものを見つけると「かわいいやん。」というのが口癖です。

これから始めようと思っていることの一つに、「ワイヤークラフト」があります。日本語で言うと、「針金細工」ですね。今から10年前に一度自己流でトライしたことがあったのですが、しばらくやって忘れてしまっていました。是非、再度、しっかりとした基礎を身につけて、知り合いのお花屋さんで販売できたらなあと考えています。それと、針金細工をリハビリの道具として使えないかなとも思っています。

物を買うよりも、やっぱり創ってみたいですね。自分の分身をこの世にいっぱい生み出して、生きてる証を表したいなと思っています。自分自身の何かが変わることも少し期待しながら...



2002年08月16日(金) 熱中する

今日は、東京で働いていた会社で一緒だった女の子の親戚がメンバーでいる、インディーズのバンドのライブを聴きに行ってきました。これまで、コテコテのインディーズロックバンドのライブハウスなど行ったことがありませんでした。今日が初めての体験でした。

神戸のアートハウスというライブハウスです。小さなオフィスで、入場料を払い、薄暗い階段を上っていくと、チケットのもぎりの姉ちゃんが小さなスポットライトだけが照らされている小さな机に座って、ハリーポッターを読んでいました。そこで、チケットと交換に、左手の甲にスタンプを押してもらい、入場です。

バンド名は、「ザ・マス・ミサイル」というロックバンドです。[ホームページ]雰囲気としてはブルーハーツとか、ハイローズです。シンプルな音楽に乗せて、シンプルな感情を歌い上げていました。メロディーも意外としっかりしていて、昔懐かしいフォーク調のメロディーでした。何よりも、詞が非常にシンプルだけど心に響く詞で、忘れていた「熱さ」を思い出すような音楽でした。

「熱い」気持ちって大事なことですね。何かに夢中になりたい。何かに熱中したい。そんな気持ちにさせてくれたライブでした。目の前の事に熱中することができれば、他人の目や社会の基準に惑わされないのでしょう。

熱く生きることにします。



2002年08月14日(水) 夏休み

近くの公園を散歩して、小高い丘の上にある神社に行ってきました。特に理由はありません。ただ、歩いてみたかっただけです。



公園では人間様が座るベンチの上で、ネコが堂々と寝ていました。アスファルトの上を歩いている時は、非常に暑かったのですが、公園に入り土の上を歩くと、やっぱりちょっと涼しいかったです。そして、木陰に入るとそよ風が気持ちいいのです。最近、話題のヒートアイランド現象を体感しました。土を踏んだのも久しぶりかもしれません。

今年は海にも山にも行っていません。都会の喧騒の中に身をゆだねていると、時間の流れがとても速く感じます。今日は、小さな公園でしたが、ゆっくりとした時間の流れを感じました。

良い夏休みをお過ごしですか?



2002年08月13日(火) ボランティア再考

掲示板で少し盛り上がった「ボランティア」の話を再度、考えてみました。

私が危惧していることの本質は、「ボランティア」という言葉が、本来あるべきボランティアの概念とは違うことを表現しつつあり、それに気づかず、「ボランティア」という言葉を使って、あたかも自分が「奉仕」していると思っている人達が増えているのではないか?ということなのです。

まず、本当に純粋に心の奥底から無報酬で人の役に立ちたいと思っている人のやることはすべてボランティアですよね。これには皆さん意義はないと思います。しかし、このような事柄の中には「ボランティア」と命名されていない活動が、意外と多くあり、そして、それらの多くは無視されているような気がするんです。

ところが、それとは対照的に、「ボランティア」と命名された奉仕活動をしていれば、行為の中身や、その際の心理的な本質を無視し自動的にそれがボランティア活動だと捉えられてしまう節があるような気がするのです。「節」がです。体よく用意された「ボランティア」という言葉になんとなく自分の行為を当てはめて安心しているような、そんな感じです。

簡単に言うと、ボランティアという言葉と、それに対応する本来的な行為や心にちょっと変なズレあるように感じるのです。

このように感じるには訳があります。

今、これだけボランティアが世に広まったにも関わらず、巷では以前にも増して、人々の「モラルの低下」が叫ばれているのです。実際に、モラルって何だ?と思わせるくらい、今の世の中は道徳的な基準があいまいです。この「ボランティアの生興」と、「モラルの低下」という矛盾の本質は一体何か?

それは、「ボランティア」という枠組みの中でしか、活動ができない人が多いということを示していて、「ボランティア」という枠組みを外れたら、もう、他人のためなんて意識は無くなるってのが、最近の傾向なのではないか?そう思うのです。道端で、タバコのポイ捨てする人が、ボランティアをしている人になれるし、優先座席で何食わぬ顔して座っている人が、ボランティアをしている人になれるのです。「ボランティア」という冠さえかぶれば、みんながすばらしい!なんて言うことがまかり通る社会になんだか不安を覚えるのです。

人の心がわかる心を教養という。

ボランティアなんてことにこだわらず、人の役に立つことを考えればいいのです。そうそう、言葉がなければ概念も生まれない。概念が無ければ意識が生まれない。私は、人々の意識の迷いに「言葉」の迷いを感じるのです。言葉が無意識になる瞬間が一番危ないと思うのです。



2002年08月12日(月) 刺激

蘭というお花の種類をご存知ですか?蘭にも色々な種類がありますが、一般的に外国の品種を洋蘭、日本の物を東洋蘭または和蘭と呼ぶそうです。その和蘭の中の、「ふうらん」という蘭に非常に興味を持っています。何が興味を持たせるのかわかりませんが、その風情がなんとも言えず「いい感じ」なのです。

ここ2,3日、家から出ることも少なく、日記のネタさえない状態です。テレビを見ても、思考は止まる一方です。昨日、買ってきた言語に関する本も、読んでは休み読んでは休みで、なかなか前に進みません。頭に入らない読書は単なる拷問ですね。こうやっていると、心は焦るばかりです。

先日の日記にも書いた「Constant commitment brings you constant reward that makes you a constant happy man.」と書いた紙を部屋の中に貼って、気持ちを鼓舞しようと躍起になっています。今日も、アルバイトの面接の予約を2件入れました。実は昨日もアルバイトの面接に行ってきました。こうして、Commitはしているのですが、なかなかRewardが思い通りになりません。そして、結果、Happy manではないのです。

心が焦ると書きましたが、焦るというのは心の「安定」が得られていない状態ということになります。学校に行っているときは、学校に行くこと、授業を聞くこと、帰って来てそれを思い出すこと、友人と話すことで、「不安」の入る余地はありません。しかし、これらはすべて外側からの刺激であって、私自身の中から湧き出すような刺激がまるでありません。だから、夏休みに入り外からの刺激がなくなったとたんに、心は不安になり、そして、焦りになるのです。

外に刺激を求めるのではなく、自身の内側から湧き出すような刺激を積極的に求めていく必要があるようです。



2002年08月10日(土) ボランティア

お昼から知り合いのお花屋さんのお手伝いをしてきました。とくに決まったお給料をいただいているわけではないので、これも「ボランティア」と呼ぶのでしょうか?私は、巷で言われるチープな「ボランティア」という、押しつけがましい概念に違和感を感じます。

私は、純粋にお花屋さんのために自分の能力を活かしてお手伝いをしたいと思っています。また、それにより何らかの報酬が得られるならば、是非、頂きたいと考えています。ただし、それが無理ならば仕方がないし、だからといって手伝いをやめるわけでもありません。その動機は、オーナーの人柄であるし、良いお店をもっと多くの人に知ってもらいたいという気持ちでもあるし、自分ができなかったことを実行しているオーナーへの羨望でもあります。

「手伝わなければいけない。」という気持ちは一切ありません。また、何のために、どんな風に役に立てるというビジョンを持って手伝いをしています。

和製英語的な「ボランティア」という概念に胡散臭い「偽善性」を感じるのは私だけでしょうか?なんだかアルバイトと同じ感覚で使われる「ボランティア」という概念に非常に違和感を感じるのは私だけでしょうか?大体、ボランティアの募集に応募して、一体それが「ボランティア=自発的に奉仕する人」なのでしょうか?

ボランティアという言葉がダメだと言っているのではなく、その言葉を使っているだけでなんとなく自分が良いことをしているのだと勘違いする人が多いことに、なんだか違和感を感じるのです。また、それが客観的に評価の対象にしたり、公共宣伝の対象になったりすることも変な話です。大体、「ちょボラ」って何ですか?こういった、道徳性を型枠にはめられて押しつけられても平気な人達が多いことに危機感を感じます。大体、Volunteerをちゃんと英和辞典で調べたことがありますか?本来、Volunteerには国に命をかける人達のことを言いました。

自発的に手伝わせて欲しいなという事柄に対してのみ、自発的に対応していくべきだと思います。ボランティア活動とは、決して学びの場ではないのです。いてもたってもいられない人が、「お願いだから手伝わせてください!」というのが本当の「ボランティア=自発的に奉仕する人」だと考えます。それはとりもなおさず、個人の道徳性(宗教性でも良い)であるし、人格であるし、教育であるわけです。そいうった根本を無視し、「ボランティア」をすることはなんだか良くて大切で良い経験になるなんて軽薄な概念を振りかざす人々を私は信用しません。

本当に思い入れの無い、心の入っていないボランティアは、校則違反した生徒が道端の掃除をさせられているようなものです。


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