何がどうしたのかわかりませんが、精神的に不安定です。アルバイトを始めて、学校も始まり、生活的には充実しているのですが、精神的に充実していません。
これが私の気質なのでしょうか?元気の出ない自分が非常に嫌です。元気を出そうと努力するにも、それを行う元気がないのでどうもダメです。だからといって無理をしないで時期を待てば、いつまでもこの状態が続くような気もします。
病院にでも行きますか。セロトニンが足りないようです。
2002年10月13日(日) |
アルバイト始めました |
アルバイトを始めました。ホテルのベッドメイキングです。宿泊された方が出た後や、宿泊されている方のベッドを片付け、新しいシーツを組みかえるのです。
どんなアルバイトをしても感じるのですが、どんなに些細なことでもそこにお金が絡むならばそれは誰かの仕事としての結果なのです。当たり前のことなのですが、それを意識して生活していることは少ないですよね。これからは手に取った商品や、何気なく使っている公共物や、サービスが、自分の元に所に来るまでにどのような過程を経てきたのかを少しだけ考えてみようと思っています。
今は、大量消費の時代ですから、たくさんの消費に慣れてしまって感謝する余裕さえありません。大事なことを忘れているような気がします。大量生産とは言え、そこには何らかの形で人が関わっているのです。
例えば、自動販売機は人の手を借りずに缶ジュースを販売しています。私達も何の気兼ねもしないで缶ジュースが買えます。丁寧におつりまで出してくれます。しかし、缶ジュースがあの自動販売機から出てくるまでに、誰かがあの自動販売機をデザインし機械の設計をし、生産ラインをデザインし、そこでロボットと共に何らかの部品をつけたり検査したりする人が居て、あの自動販売機を置く場所を営業する人が居て、それを運んで設置する人が居て、そこにジュースをセットする人が居て...
当たり前のことなのですが、缶ジュース1本買うのにそこまで考えないのが普通です。しかしながら、自動販売機の仕事に少しでも関わった事のある人なら、なんとなく仕事のことが頭に浮かびながら缶ジュースを買うのではないでしょうか?私は、これからホテルに泊まる際に、必ずベッドのシーツをセットしている人のことを考えるに違いありません。これまで、何の気なしに寝ていたベッドに仕事を感じることになるでしょう。
人生の豊かさには、こういった経験や想像に基づく「理解」が大きく関わっているのではないでしょうか?色々なことを考え、そして経験していくことは必ず人生を豊かにしてくれるはずです。働く喜びを改めて感じています。
広島方面に旅してきました。広島から呉へ向かう電車の中で、JRが出している中吊り広告にこんな文句が書いてありました。
『ココロ晴々 のんびりひろしま』
この中吊り広告に気付き、そして外を見るとそこは瀬戸内海が広がっていました。「水尻」という駅でした。電車の中からは青色の海がきらきらと光っているのが見えました。島が浮かび、そして広島の西の町が見えました。電車は単線なので、反対側から来る電車が通り過ぎるまでホームで待機です。その短い時間の中で、ふと「ココロ晴々」について考えたのです。
電車の中からその光る海、浮かぶ島を見ている間、ココロがすべての束縛から解き放たれたような感覚を覚えました。まさに、ココロ晴々。伏目がちな目が明るさを如実に感じるほど大きく広がる感じがしたり、頬の筋肉が自然に引き上がり、への字の口はふと微笑みの口になっていたりするのです。
人間が決めた時間という概念からも、生きるべしという根拠の無い義務からも、そして、世の中の面倒くさい事柄すべてから解き放たれていくのです。ここに居る自分という事実、そして、その前に広がる海と空と空気という事実、この2つの事実を感じることができた喜びに浸っていました。ココロ晴々。
あなたを縛るもの、それは一般的には当たり前と思われている事柄かもしれません。そうした事柄を見なおしてみる機会を持つ事で、本当に大事なものが見えてきます。時間・お金・物欲そういったものから解き放たれる事、それがゆっくり生きる事なのです。さて、あなたはココロ晴々?
相談をもちかけられるたびに、私はこの言葉を思いだし聞き役に徹する努力をします。
『話すことは放すこと。』
相談を持ち掛ける人の大半が、実は既に心の中にある程度の決断を持って相談してきます。なんらかの結論が彼らの中には出ている場合が多いと思います。しかし、それが正しいのか?また、第三者はどのような反応を示すのか?を無意識のうちに求める事が相談という形になって現れることが多いような気がします。相談を受ける側としては、そのような無意識の部分を冷静に頭の片隅に置き、相談者自身が自分で責任をとれる形でその内に秘めた決断を実行することができるようにしてあげなければいけません。
まずは、相談者自身の決断をうまく引き出して言語化する。そして、それを意識下で確認させる必要があります。相談者の決断(思い)を、言語化し意識下にさらすというのは、非常に難しいことです。相手が発する言葉をしっかりと受け取り、状況や相談者の性格などを考慮し、いくつかの言葉から相談者の本当の心を掴んで、明確に言語化していくことが大事なのです。例えば、「俺、最近辛いねん。」の一言から、「そう言えば、前から仕事のことで悩んでたようやね。」という言語化をします。こうすることで、相談者は次に「そうやねん。上司がな〜。」と話しがスムーズに出てくるのです。
言語化というのは、いくつかの言葉や状況や性格から相談者が何を言わんとしているかを前もって察知して言葉足らずな部分を補うという作業になります。こうすることで、相談者はまず相談相手が同じ話題の中に居る事を確認し、そして、聞いてくれていることを確認し、自身も相手の言葉を聞いて再度自分の言葉を確認することとなります。こうすることで、自身の思いを意識しながら、そして、スムーズに話すことが可能になります。
こうして話しているうちに相談者は自身の考えを自分で聞くことになります。そして、より正確な情報を相談相手に伝えようとします。こうして話しをすることでどんどんと自身の意識を再度確認していくことになるのです。自身の言葉に勇気付けられ、そして、自身の言葉で自身の決断を促進していくわけですから、誰かが言ったからこれをする。という他人よがりの決断をしなくて済むのです。
これが、いわゆる『放す』事なのです。自分の気持ちを話す事で、自分のぼんやりとした気持ちを客観的な場所へ放し、それを相談相手の言語化により再確認するという事になるのです。逆に私達自身も、何かに迷ったりした際には、誰かに話すことが肝心です。今、こうして書いている私でさえ、自分自身のこととなると整理不能に陥ります。何か悩みがあるときは、まずはその気持ちを『放し』てみる事が大事です。
矢沢永吉さんがテレビで言っていた言葉に反応しました。
『俺達やることがあるから幸せだよな。』
彼が言う『やる事』とは、人にやらされるのではなく、自発的にすることがある。という意味だそうです。別に矢沢永吉さんの大ファンでも何でもないのですが、たまに放映される矢沢永吉さんの特集は大体見ています。彼の言動が演出されたものかどうかという問題はさておき、例え偶像化されたものであっても大変な魅力を持ったアーティストだと思います。アーティストである限り、彼は自発的に何かをし続けなければ生きていけないわけですから、当たり前の言葉とは言え、私には素直に受け入れることができました。
やることがあるから幸せ。こんな単純な言葉が私の心に響くのは、恐らく自発的に何かをすることによる充足感を味わっていないからではないか?そう思いました。無意識のうちに、携帯のメールをこまめにチェックしたり、何かないかな?と思いながらテレビやインターネットに向かう自分に気付き、ちょっと愕然としたりしています。矢沢永吉さんはアメリカ大陸を車で走って、その大きな自然に何かを感じているのに...
『したい事が無い。』と言う若者が増えているという話しを見たのは、新聞だったか雑誌だったか。以前に日記に書いたかもしれませんが、日本のものの豊かさに加えて情報の豊かさが私達から創造する力を奪い取っているのかもしれません。いや、力というよりもその前提となる意欲をも奪っているのかもしれません。
私の知り合いでご商売をされている方がいます。最近、良く私のところへメールで「客が来ないよ。」「不景気でダメだ。」「儲からない。」という事を言われます。私はそれに対して、自身の未熟さを顧みず「待っていてもお客さんは来ないですよ。」「何か仕掛けましょうよ。」「愚痴ではなくて創造しませんか。」と返事をします。ビジネスにおいては何かを仕掛けなければ、何も始まらないというのは当たり前のことです。しかし、私の知り合いの方は、現在のところ、日々の業務に追われてしまっているせいか、長いスパンで見た利益を考えた戦略の構想と、自身の精神的創造をストップさせてしまっているのです。
と言いつつ、では私自身にこの状況を当てはめてみるとどうなのか?「おもしろくないよ。」「何も楽しいことないよ。」「興味が沸かないよ。」なんて事を口には出さずとも、心のどこかで考えている自分がいたりします。もし、友達がこんなメールを送ってきたら、私はどのような返事をするのでしょう?「面白い事は待っていてもやってこないよ。」「楽しい事したいなら、何か仕掛けましょうよ。」「興味は沸くもんではなくて、自分から持つ物だよ。」と返すでしょう。
知り合いの方への返信を、そのまま自分に返信することになるのです。まさに、有言不実行。思索をめぐらせて色々と受けのいい言葉は思いついても、それが伴わないのですから、情けない限りです。
『俺達やることがあるから幸せだよな。』
この言葉の裏には、「俺達やろうと思って実際にやってるから幸せだよな。」というニュアンスがあるのです。やらされたり、何もしないで何かいいことないかと待っていても何も幸せは向こうからはやってこないのです。幸せを掴むには、動くことなのです。幸せに自分が近づいていく事なのです。
あるTV番組で越前屋俵太が、心に残ることを言っていました。
「言葉ではなく、心で聴きなさい。」
この番組は越前屋俵太が、様々な職人を彼の独特の話術で取材するという番組で、その回は弓を作る職人さんの所へ取材に行っていました。職人さんには弟子がおり、弓を作る過程の一部をお手伝いしていたのですが、なかなか師匠がお弟子さんに伝えてようとしていることがお弟子さんに伝わらないのです。師匠は、「お前のとのコミュニケーションはどうやって取ったらいいのだろうなあ。」と嘆いていましたが、お弟子さんは現代っ子というか口の利き方を知らないのか、「師匠がもっと正しく日本語を話してくれればいい。」となかなかすごいことを言っているのです。
お師匠が特にその話し方とか態度に対して起こる風でもありませんでしたので、越前屋俵太も苦笑いです。伝統工芸を継ぐ者が少ないという弱みからなのでしょうか?私自身も、そこで師匠が怒らないのが不思議でしたが、番組はそのまま弓を作る作業を淡々と紹介していきました。あのような歴史のある伝統工芸品の製作というのは、まさに勘と感覚がすべてのようです。弓とは関係ありませんが、精密機械よりも熟練した人間の手の方が本当に微妙な違いを読み取るそうです。職人芸とは、こうした人間の研ぎ澄まされた感覚によって成り立っていたといっても過言ではないと思います。
そうした、人間の感覚や勘というものが非常に重要視される世界で、このお弟子さんが師匠の立場に立って物事や言葉を判断できないのですから、職人としての素質に疑問を持たざるを得ないという気持ちで番組を見ていました。
この番組では、越前屋俵太が最後に職人さんに、彼が職人さんやその仕事振りを見た感想を書をしたためるのが恒例になっていて、その回も例に漏れず、弓の職人さんの仕事振りに対して「弓は心で打つべし」としたためたのです。そして、お弟子さんの方を向いて放った言葉が冒頭の言葉だったのです。
心で聴くというは非常に抽象的な言い方ですが、人間のコミュニケーションは様々な形で行われます。言葉を話す、聴くという行為だけではなく、その言葉の表現の仕方、言葉と言葉の間の沈黙、言葉を発する時の表情、言葉が発せられる背景要因など、色々な情報を元にコミュニケーションを成り立たせているのです。まずは、言葉だけにとらわれないことが大事なのです。また、コミュニケーションには必ず理由があります。どうしてこの人は、こんな事を言うのだだろう?どうしてこの人は、こんなに人の話しを聴かないのだろう?彼らの言葉や態度だけを見て、その人の真意がわかるのであれば、この世の中にこれだけ誤解は生じません。相手のコミュニケーションの動機がどこにあるのか?それを気にしながら話す事。これこそが、心で聴くということではないでしょうか?
あなた自身も、心を聴いて欲しいのでは?
ギターを始めます。「始めようと思っています。」ではなく、始めます。今週中にギターを買って来る予定です。
ギターを始めようと思ったのには3つの理由があります。まず、第一に、こうやってサイトを通して言葉による表現を行っていますが、同じように音楽を通して自分を表現したいということ。第二に、友人が行ったライブに行ってみて才能があるないではなく、才能を磨こうとしているその姿に惚れ惚れしたこと。第三に、将来、言語聴覚士として音楽を利用したリハビリが行えないか?と考えたこと。
第一の音楽による表現への思いは昔からありました。個人的な話しで申し訳ありませんが、私はスムースジャズというジャンルの曲(一昔前はフュージョンと呼ばれていました。)が大好きです。これらのほとんどの曲がボーカルの無い音楽です。しかし、歌声や歌詞によるメッセージがなくても、音楽は私の中に何らかの感情を起こします。心が動かされるのです。それは、その音楽がエネルギーを持って私に影響を及ぼすからです。そのエネルギーとは、演奏者が音に注入した表現の力なのです。私も、そのようなエネルギーを発してみたいのです。
第二の友人のライブを見たことは、人を感動させるのは音楽そのものではなくて、人の才能の可能性なのだということです。才能には与えられる部分もありますが、自分で磨こうとしなければ磨かれないものです。私に音楽の才能があるかどうかは分かりませんが、磨こうとしない状態で一体何が磨かれるのでしょうか?何かにチャレンジする前から諦めている事が実は非常に多いことに気付きました。別に大義名分を掲げたチャレンジではなく、静かに自分の「できたらな〜」という思いに対して、何らかの行動を起こす事。それによって、予期せぬ道が開ける事もあるのではないでしょうか?
第三の言語聴覚士として音楽を利用したリハビリを行う事ですが、ことばのリハビリで多く見られる障害のほとんどが脳の障害です。脳というのは未知の世界で、私達が想像しないような、様々な外的刺激から劇的な回復を見せる事があります。昔の経験を追体験させることでよみがえる場合や、新しい価値観を提供する(新しい趣味などを見つける)ことでことばがよみがえる事もあります。私は、言語聴覚士として患者さんに様々な価値観を提示できるようになりたいと思うのです。一緒に、昔の音楽を歌うこと、新しい音楽を聞かせること、音楽に限りませんが、新たなことばのリハビリの可能性を探るきっかけを作りたいと考えたのです。
たかがギターを始めるのに、えらく大層な理由ですが、逆に言うとギター一本で私の人生において新しい出会いや新しい経験、そして、新しい創造を可能にするきっかけを得られるのです。本当はしたいのに、心の中で勝手にできないとか無理などと決着してしまっているもの、みなさんの中にもあるのではないでしょうか?私は、とにかく始めてみる事にしました。みなさんもいかがですか?
体力には、肉体的な体力とは違った体力が存在するようです。例えば、勉強をしなければいけない時に、机に向かうとか教科書を広げるとか、集中して読むとかなどを行うには意思の力が必要です。また、それを持続するという事に関しても、大変な精神的な体力を要します。働く際も体力が必要です。今、手をつけている仕事に取りかかる体力、それをじっくり検討し、様々な可能性を考えながら細かい部分をつぶしていくという作業はかなりの精神的体力を要します。
これらの体力はどのようにしたらつくのか?恐らく、肉体的な体力と同じように、トレーニングが必要なのです。瞬発力をつけるにはそれなりの筋肉を付けるトレーニングをしますし、持久力をつけるには長い距離を走ったりしてトレーニングをするわけです。肉体のトレーニングにおいてポイントとなるのは、「負荷」です。今以上の体力をつけるには、今以上の力や能力を使う努力をしなければ肉体は強くならないし、技術は向上しないのです。
精神的な体力の向上にも、同じように負荷をかける必要があります。しかし、肉体のトレーニングと違うのは、何か今以上の負荷を加える事ではないのです。精神的な負荷のかけ方とは、私が考えるに、「継続すること」だと思うのです。人間の集中はそれほど長く持たないと良く言われます。実際、私も長くは集中力が持ちません。それゆえに、一つのことを持続して何時間も行えなくて途中で、テレビを観たり、音楽を聴いたり、パソコンを開いたりという楽な方向へ流れがちです。
楽な状態も必要なのです。しかし、ここで必要なのは精神的にそういった楽な方向にすぐには行かない体力です。ですから、ここで楽な方向へは行かずにもうちょい頑張ってみようという、継続の力を意識的に発揮する必要があります。精神的な体力をつけるには、このような継続するという負荷が必要でしょう。
しかし、何も同じことをずうっとやる事が継続とは限りません。生活の中には、色々とやらなければいけない事をがあります。一つのことをやっていて疲れてきたら、また別のことをすれば良いのです。テレビをつける前に、音楽を聞く前に、そしてパソコンをつける前に。このような継続は、実は何も新しい道具を必要とするわけでもありませんし、うまく行けば、気持ちはどんどん楽になってきて充実感さえ得るようになります。肉体的なトレーニングは負荷をかけることで疲労を呼びますが、精神的な継続という負荷は疲労ではなく結果と充足感を残すのです。
もうひとふんばりが、精神的な体力を増強するのではないでしょうか?
明日(9/27)は小児科学の試験です。「こどもは大人を小さくしたものではない。」ということを繰り返し言われていた面白い先生でした。その先生が常におっしゃっていた事は、「基本中の基本用語は暗記して下さい。後は、理解してください。理解するとは考えることによって答えが導き出せる状態のことです。」ということでした。
私が新入社員として会社で働き始めたときも、直属の上司はいつも「自分の頭で考えろ。」ということを言っていました。その上司の場合は必要最低限の基本用語も説明してくれなかったので、そこから自分で調べて理解することから始めなければいけませんでした。何も無い状態から何かを導き出す事は、人間の能力のハイライトです。この能力があるからこそ、人間は人間らしく生きられる環境を手に入れたのです。
しかし、情報が溢れ、多種多様なモノは常に面前に用意され、私達はあまり考えなくてもなんとなく快適な生活が送れるようになりました。オーストラリアでの生活から帰ってきたときに、3年ぶりに日本の繁華街へ繰り出したときの驚きは今でも忘れません。なんとモノが多いことか!そしてその種類の豊富さ!日本の豊かさを身にしみて感じたのです。今は、インターネットや通販の充実で都会に住んでいなくても情報やモノは簡単に手に入る時代になりました。
例えば、フラッと入った喫茶店のレイアウトだって、なんらかの意図をもってデザインされているわけです。今まさに手にしているパソコンのキーボードだって何らかの意味が十分に考えられて作られているはずです。そうやって考えると、私達のの周りに何気なくあるモノや情報は、私達の考える過程をすっとばした結果だけを提示してくれているということになります。「こんなのあったらなあ〜」と思う気持ちが、「こんな風にしたら便利じゃないの?」という思考を生み出し、それが現実のモノや情報に形を変えていくわけですが、その思考の過程を企業が私達の代わりにやってしまっているのです。
この勢いでモノや情報が増えていくと、私達の生活の中から考えるきっかけさえ無くなっていくのではないか?そんな気さえします。実際、今考えずに生活しようと思えばできてしまう世の中です。考えることを少しでも意識して生きていきたいものです。
受け入れるということは、とても難しい事です。例えばウツ状態の人に「頑張れ」とか「やればできるから」などという励ましは厳禁だそうです。なぜなら、ウツ状態にある人は頑張らなければいけないのが分かっているのに頑張れない、やればできるとわかっていてもやれない。そんな状態にあるからです。できないことをやれというのは、足が無い人に走れというのとそれほど変わりません。
世の中には足が無くても走っている人はいます。パラリンピックを見れば、特別な義足をつけて走っている人達を見ることができます。リハビリの定義の中には常に本人への動機付けが重要な要素になってきます。ただし、本人への動機付けという概念を字面だけで理解しようとすると、短絡的に「頑張れ」とか「やればできる」という浅はかな励ましになってしまうのです。本人をとりまく背景因子を様々な角度から想定し、そして本人に励ましと言う一方的な動機付けではなく、様々な価値観を提示し、本人の気づきを誘うということが大事になってきます。
これは別にウツ状態の人や、障害を持つ方々へのリハビリにおいてだけの考え方ではありません。私達はそれぞれが個性を持っています。その個性は、その本人がこれまでに経験してきたことの記憶と思考の上になりたっています。それを理解することは不可能ですが、私とは違う人生経験を送って来たのだという「違い」に対する理解はできるはずです。また、目の前にしている人が弱音を吐いていても、人によってそれが助けを求めるサインであったり、ただ自分の中にたまっている毒をはきだすことでバランスを取ろうとしているのかもしれません。私達に必要なのは、そういった人を前にしたときに、どのような役割を果たすべきなのかをじっくり検討する必要があるのです。
少なくとも私は、このような考え方で人と接していきたいと考えるのです。お互いに良い影響を与え合うには、このような受け入れる努力が必要だと思うのです。
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