知らんけど

2002年11月11日(月) リズム

今日はいつもと違い少々体がだるい朝でした。昨日のアルバイトの影響もあるのでしょう。しかし、それにしてもだるい朝でした。ようやく起き出して学校に行きましたが、授業中も寝てしまう始末。何が原因だったのでしょう。

最近の自分の生活パターンの中でひとつだけ定まっていないものがあります。それは睡眠時間です。ただし、起床時間でもないし、何時間寝たかでもないのです。何時に寝るか?なのです。昔、何の根拠もない話しとして「日付が変わる前に寝ると良い睡眠が摂れる。」という事を聞いた事があります。何の根拠もないのですが、最近の私の体の調子は明らかに、入眠時間に影響されているのです。

体がの調子が良いときはたいてい12時前には完全に夢の中です。ですから、11時過ぎから寝る準備をはじめて11時半頃には布団に入っているという状態です。この入眠時間ですと、翌朝の目覚めの状態が比較的良く、逆に12時を過ぎてしまうと次の日の調子はあまりよくありません。

私の場合、インターネットへの接続がテレホーダイの11時以降ということもあり、調子に乗ると翌朝のことを棚に上げて午前2時ぐらいまでホームページの更新などをしてしまいます。(さんかくのしそうはあまり更新しませんが...)こういう日の翌朝に限って、もっと早く寝ていれば良かったと思うのです。

睡眠の深さに影響しているのでしょうか?何らかの体のリズムが影響を及ぼしているのは明らかですが、具体的に何がどのように影響を及ぼしているのかはわかりません。しかし、問題は寝るのも意思の問題だということです。今日は11時半までには寝るぞと心に堅く誓わないとなかなか時間がもったいなくて布団に入れません。サラリーマン時代は睡眠時間が5時間ぐらいでもまったく平気でしたが、今は退屈な授業を聞いているだけの学生生活ですから、睡眠時間の欠乏は居眠りという重大な問題を引き起こします。(少し大げさですが...)

睡眠時間という生活の一部分のお話しではありますが、私はすべてにおいてリズムということを意識することが大事だと考えています。考えるリズム、話すリズム、歩くリズム、本を読むリズム、書くリズム、遊びのリズム、食事のリズム、寝るリズムなどなど、これらは意識して行う事ではないために意外とないがしろにされがちですが、実は私達の生活のリズムはこれらの一つ一つの動作のリズムによって構成されているのです。なんだか、生活のリズムがなあ... と感じるとき、一度立ち止まって一つ一つのリズムを見なおしてみることが大事ではないでしょうか?

さて、私は睡眠のリズムから直していきたいと思います。



2002年11月05日(火) 家族

家族というものは何なのでしょう。すでに多くの方に語り尽くされた感もありますが、北朝鮮から帰ってきた方々の話題を見聞きするたびに、考えるのです。

私も三十路を迎え、色々な意味で「家族」ということを考えるようになりました。色々な意味の中には、生まれてから親子や兄弟関係を持ってきた家族という意味もありますし、これから私が育んでいく自分の家族という意味もあります。

これまで私の家族としてきた両親や兄弟というのは、今の私にとってはもう家族という単位では見れないようになってきました。三十路という年令が関係あるのかどうかはわかりませんが、結構昔からこういう意味での家族という概念は、私の中では希薄になっていたかもしれません。そして、その事がなんとなく輪郭をもって私の考えの中に浮かび上がってきたのが三十路というきっかけなのかもしれません。

もちろん親子ですし、兄弟ですから、家族ではないとは言っても完全否定な訳ではありません。しかし、なんとなくもう既に違う所帯なのかな?と思うのです。生活のリズム、経済的なつながりの希薄さ、精神的依存の消滅、色々とあると思います。それらが、もう俺はこの家族の一員という位置付けではないなと思わせるのです。

では私にとっての家族とは何かを考えると、それは私の家族なのです。それが誰になるのかはまだわかりませんが、私の妻であり、私の子供でありなのです。いや、妻とか結婚とか、いわゆる制度的なものに縛られた思考はあまりよくないかもしれません。そういった儀式的なものは抜きにしても、どんな人にも家族と呼べるものが必要なのです。ある人は一緒に苦労してきた職場の人間を家族のようなものと考えるかもしれないし、仲の良い友人達を家族のように考えるのかもしれません。いずれにしろ自分の家族と呼べるものがより豊かな人生を送るには必要だと感じています。

そう考えたときに、北朝鮮に拉致された方々の問題を見ていると心が痛むのです。二十何年間も拉致された自分の子供や兄弟を待っていた家族にとって、帰国された方々は自分の失った家族です。しかし、拉致された方々も北朝鮮で自分の家族をはぐくまれてきたのです。非情な構図です。家族対家族という間に挟まれた彼らを見ていて心が痛まない日はありません。家族と一言で済ます事は簡単だけれども、やはり自分にとっての家族というのは誰にでもあるはずです。

国交正常化のダシに使われているような感じになってしまった拉致被害者。国のすばやい対応を願うばかりです。日本は個々の家族の重要性を認識できないような国ではないと信じています。



2002年10月31日(木) カバン

良いカバンを探しています。今のカバンはハンズで買った4000円ぐらいのトートバッグです。購入して使い始めてから気付いたのですが、使いにくいのです。だいたいトートバッグなどというもの自体が使いにくいものだということに最近ようやく気がつきました。

特に私はなで肩なので、片側の肩にだけ紐をかけるトートバッグでは、歩いているとずるずると落ちてくるのです。落ちてくると左手で「よいしょっ」と掛けなおすのですが、掛けなおした瞬間にまたずるっと落ちてきます。う〜ん面倒くさい。

私は背中に背負うカバンは、すぐに物が出せないのであまり好きではありません。となると、残るのは斜め掛けカバンか、手提げになるのです。私の歳になって斜めかけすると、お腹の出っ張りが目立つので、斜め掛けカバンは却下です。そうすると手提げカバンしかなくなってしまいます。

手提げカバンのほとんどがビジネス用ですが、私はその中でも大き目のものが良いかなと考えています。大は小を兼ねるということもありますが、何より多くのものをコンパクトに運べるという点が大事なのです。中途半端に小さいカバンだと、容量ギチギチで中身を詰めると、電車の中で本を出そうとすると一緒に筆箱が出て来たり、プリントが出て来たりします。そういう鈍臭いのは嫌いなのです。

しかし、あまりビジネスビジネスしたカバンも嫌なのです。カジュアルでも使えるデザインで、しかも機能性が良いカバンってのはなかなかありませんね。何か良いのをご存知でしたら誰かお教え下さい。



2002年10月29日(火) 目標の本質

目的地を持たない船はさまよいます。しかし、その前に目的地を定めるには、その前提となる理由があります。そうやって目的というものをどんどんと紐解いていくと、最終的にはまったく予想もつかない理由だったりするのです。

例えば、一隻の船が日本に向かってきます。なぜ、日本に向かってくるのでしょうか?日本に必要な何かを積んでいるからです。その何かを日本に送りたい、もしくは、日本にそれが欲しいと思っている人がいるからその船はその荷物を積んで日本に向かっているのです。その思った人は、そうすることでお金が稼げると考えたのかもしれません。お金を稼げば、贅沢な暮らしができると考えたのかもしれません。そうやって考えると、この一隻の船が日本に向かってくる目的は、それを考えた人が贅沢な暮らしをするため。という筋を通すこともできるのです。

私達が生きていく際に、目的や目標というのは大事な要素といわれています。私は、そのことに対して今まで本当にそんな単純なものなのかどうかを疑ってきました。なぜなら、上の例に書いたように、何か目的を思いついたとしてもそれが本当に純粋な目的かどうかなんてわからないからです。日本へ向かうのだ!という目的は、間違いではないけれど、本当の目的ではないのです。私達の生活の中にもこのようなことが普通に起こり得ます。

「私はこうなりたいから、これだけの努力をする。」目標を掲げる際に一番単純な言い方でしょう。しかし、「こうなりたい。」と思わせる動機は何なのでしょう?意外と、私達はその心の奥に潜む「裸の欲」をごまかしてはいないでしょうか?逆に言うならば、その「裸の欲」を明らかにすること、そして、その事実を素直に受け入れる事によって、結果として目標を達成することができるのではないでしょうか?

物事の本質は、非常に単純なものです。複雑に表現または表出されている現象も、その根幹をなすのは単純なルールなのです。一本の線も、実は小さな小さな点の連続で構成されているのです。今は便利の時代ですから、時間がかかったり面倒くさい事はすべてすっ飛ばして省略します。いきなり複雑な結果だけを見る機会が増えているのです。私達が物事の本質を考えるということは、物事の最小のルールを見つけ出すということです。

この考え方は私達が何かをする際の目標を見つけるときにも有効な視点だと思うのです。私達のその行動の本質は何なのか?ジェットコースターが坂さえ登れば、後は自分の重みで様々な動きを可能にするように、私達も最初の目標さえしっかり定めれば、後は自動的に行動がついてくるのではないでしょうか?見なおしてみませんか?私達の裸の欲を。



2002年10月25日(金) 目的が見えてきた

学校の帰りにクラスメイトとお茶をしました。初めて二人でお茶をする相手でしたが、話しが非常に盛り上がったのです。そして、この盛り上がりは、予期せず私の気持ちに少し変化をもたらしました。

「何だか違う。」「望んでいたのはこんなことではなかった。」ずうっと感じていた学校への違和感を言語化できずにいました。しかし、それを分かち合える友人が周りにはいませんでした。しかし、今日、私と同じ感覚を持つクラスメイトを見つけたのです。私達はお互いによりアカデミックな環境を望んでいました。教室に碁盤の目のように座らされ、教壇に先生が立ち、そして講義を行う。生徒は、ひたすらに話しを聴き、ノートを取り、そして、試験前には試験に備える。

けっしてこのような教育方式が間違っているとは言いませんが、私が望んでいるものではありませんでした。私が望んでいたものとは、与えられる学習ではなく探す学習でした。教科書に載っている知識を詰めこみ、先生の言った言葉を逐一覚える。それはそれで、一つの勉学のあり方なのでしょうけれど、そんな教育で優れた臨床家が育つのでしょうか?まさに、偏差値教育の申し子がそのままの状態で臨床家になるのです。そんな人にリハビリされるのをどう思われますか?

決して、他のクラスメイトの一人一人が悪いわけではないと思います。日本において重要視されるのは、なんとなく全体に流れる暗黙の了解的雰囲気です。私がいくら外国の大学に長くいても、あの一種独特の雰囲気の中で、同じように自分の意見を言い積極的に授業に参加するのは難しいのです。恐らくこれは一人一人の生徒や先生が、これまでに知らず知らず身につけてきた悪しき習慣の結果なのでしょう。

そこで、私達はお茶をしながら、具体的な方策を話し合ったのです。なぜ、私達はこれほどまでに学校に違和感を感じるのか?そして、授業に対してもやる気を示せないのか?を。結論は意外と簡単に出ました。私達には、明確な目的意識がなかったのです。恐らく、他のクラスメイトにも同じ事が言えると思います。目的意識がなければ学校に入ってる事自体が不思議な事と思われるかもしれません。私もそう思っていましたが、それは違うことに気がつきました。

私達は、これから目指そうとしているものについて最初から完全に知っているわけではありません。むろん、調べまくって自分がこれから学校で勉強する目的を最初からバシッと決めたと思っている方もいるでしょう。しかし、「私は○○になりたい。」という場合、そこには漠然とした目的意識しかない事があるのです。そして、本人はそれに気がついていない場合があるのです。

環境の中に飛び込んでみて初めて気がつくこともありますし、逆に最初は分かっていたつもりのものが、分からなくなることもあるのです。

具体的な話し合いから、私達がこれから何をどう勉強しなければならないかの大枠が見えてきました。クラスの雰囲気を一朝一夕で変える事は無理ですし、私達にそんな義務はありませんから、とにかく、クラスの雰囲気に飲まれずに、今日話した大枠の目標を忘れないように頑張っていこうという結論に達しました。

しっかりとした目的意識を持つ事。それにはじっくりと考える必要があるのです。そして、そのためにはやはり仲間がいるということが非常に大事なのだなと痛感した今日でした。



2002年10月23日(水) 苦しいときには

苦しいときには外を歩いてみる事です。新鮮な空気を吸って、体を動かせば、少しは気分が良くなるでしょう。さて、歩きに出ましょうか。デジカメも忘れずに。



2002年10月22日(火) やはり元気が出ない

元気が出たり、また元気がなくなったりで大変です。また元気がなくなってきて、この前の元気は空元気だったのかと落ち込んでいます。そこで、今の自分の状態を必死になって分析しようとしています。

まずは元気であるとはどういう状態なのか?というところから考え直す必要があると思い、私にとって元気であるということはどういうことかを考えてみました。私が元気だった頃はどんなことが可能だったのだろう?という視点で書き出してみます。

色々なことに興味が持てた。
すべてに意欲を持って取組めた。
成功のイメージしかなかった。
失敗しても笑って済ませれた。
周り人が気にならなかった。
物事に集中できた。
理解力が高かった。
ひらめきが常にあった。
どんな人との会話も弾んだ。
寛容になれた。
面倒臭がらなかった。
持続力があった。
物理的に周りがしっかりと見えた。
自分から物事のきっかけを作り出せた。
何事も怖がらなかった。
楽天的で居られた。
人肌のぬくもりを感じられた。
常に楽しみなことがあった。
酒がおいしかった。

こうして書き出してみると、今の自分の不甲斐なさが目立ちます。今の私の元気がない状態というのは、こうして書き出した状況を理解しながらも、この状況に対して解決策を持たない状態です。努力はするのですが、結果としてはうまく行かない。行動することで物事が解決されるのであれば、すでに私は満足した生活を送っているはずなのです。それだけの行動は起こしています。しかし、そうは行かないのです。この原因は何なのか?私にはいまだにわかりません。

これを病的なものとして扱うべきなのか?単なる気持ちの問題として時間を置いて待つのか?どうも判断がつきませんが、ここまでわかっていながらどうしようもない自分に苛立ちます。生きる意欲さえうしないかけているのではないか?そんな自分が怖いのです。



2002年10月21日(月) 科学的とは?

昨日、久しぶりに知人が経営するお花屋さん知人が経営するお花屋さんに行ってきました。その際に、前から欲しかったバニラのアロマキャンドルと、それを置くためのガラスの器を買ってきました。

アロマがどれほどの効果を示すのか、科学的な根拠を見たことがないので知りませんが、そんな根拠はなくても実際にバニラの匂いを嗅ぐと心が落ち着くのです。世の中にはそのようなものがたくさんあります。今日も、心理学の授業で「科学的とは?」という話しの中で、気功の話しが出てきました。気功の効果をどのように実験すると科学的に証明されるのか?という科学的実験の基本の話でした。

私は、言語聴覚士ということばのリハビリを行う職業を目指していますが、この科学的という話しを聴いて、非常に複雑な気持ちになったのです。言語聴覚士というのは、実際に患者さんを目の前にしてことばの回復を目指すための訓練を行います。その実際の場面に、科学的という考えはあまり入りこむ余地がないと思うのです。もちろん、科学的に証明され確立された理論の知識そして技術をベースにしていくことは間違いありませんが、それだけでは解決できない問題がたくさん出てくるに違いありません。例外もたくさんあるでしょう。

科学的な証明を待って臨床を行っていたのでは、目の前の患者さんに対して有効な対応はできないのです。しかし、だからといって科学的なものが大事じゃないわけではないようです。しかし、科学的な証明がどういった点で必要なのかもう一つ分かっていない気もします。儀式的・宗教的な治療法から、西洋医療を基盤とする現代医療を守るためなのでしょうか?そこが、非常に複雑な気持ちにさせるのです。

アロマが科学的にどれほどの効果をあげるのか知りません。しかし、知る必要もないのです。なぜなら、リラックスした気分を実際に味わっているからです。しかし、そこに科学的な証明を求める人達も居ます。揺れるアロマキャンドルの炎を見ながら、科学的とは何か?それは何を私達にもたらすのか?を考えるのです。



2002年10月19日(土) 働きかける

ここ数日、皆さんをお騒がせしている、管理者の元気または生きる理由問題ですが、何とか収束に向かいつつあります。人の気持ちは意外と簡単に変わるものなのですね。ですが、それゆえに周りの人を振り回してしまうのです。いいのやらわるいのやら。

収束に向かった理由は二つあります。一つ目は、今日、アルバイトをした事。二つ目は、気になる女性と食事をした事です。

汗水流して働く間に、不安な気持ちも流してしまったような気がします。なぜ、そのような感覚になるのか考えてみました。働くということは仕事の内容がどんなものであれ、多少は社会に貢献することです。社会に貢献するということで、自身の存在価値を確認できます。まあ、社会への貢献ということが、自身の存在価値につながるかどうかは、人それぞれでしょうけれど、少なくとも私にとっては意味のあることでした。自分がだれにどのように必要とされているか?を体で感じる事は、生きる理由の一つとして大きな要素のようです。

自分が心を許せる人と食事をするということほどの快感はありませんね。今日、それを強く感じました。気になる女性というのはイコール好きな女性という単純な公式には当てはめられません。確かに好きと言えば好きなのですが、性別関わらず好きな人は他にも居ます。気になる女性の定義は、正直いまだにわかりません。でも、「生きる理由」になるかもしれないと感じる人なのです。本当に特別な人です。ちょっと曖昧で良く分からない話をしてしまいましたが、とにかく、そういう人が存在している事で、これまた、私自身の存在価値を認識することができるのです。もちろん、相手が私の存在価値をどう考えているかはわかりませんが。

周りの環境や人との対比で、自分の存在価値を求めると意外と見つからないのだなあということを今回強く感じました。対比ではなくて、周りの環境や人へ働きかけによって自身の存在価値を感じる事ができたのです。生きる理由は、そこにつながっていくわけですし、それを感じることができれば、自然と元気は出てくるようです。



2002年10月18日(金) 喜びなし

連日の暗い話しになりますが、お許し下さい。

さて、今日も元気が出ずじまいの一日でした。私の元気のなさというのは、ため息をついて下を向いてウジウジというタイプではありません。人とは普通に話しますし、行動することも億劫ではありません。

ただ、うきうきしないのです。

ただ、喜びを感じないのです。

さて、私に元気が出るのはいつになるのやら。無理はしませんが、このままずうっと行くと厭世主義者みたいになってしまうような気もして怖いです。逆に世捨て人みたいな生活の方があっているのではないかと思うほどです。以前から書いていますが、私の理想の女性は私の「生きる理由」になれる女性なのですが、今のところそのような女性も居ないし、さて、私の「生きる理由」は何なのでしょうね。

女性に「生きる理由」を求めるなんて... という方もおられると思いますが、では逆にどのような理由なら満足の行く正統派の「生きる理由」になるのでしょうね。仕事?遊び?食事?私にとってはそれが女性とどのように違うのかわかりませんが、どちらにしろ何らかの理由が今の生活には足りないような気がするのですね。

恐らく目指す言語聴覚士には、努力しつづければなれます。優秀な言語聴覚士にだって頑張ればなれます。でも、それらが「生きる理由」にはならないのですね。

皆さんにとって、元気の源とは何ですか?「生きる理由」とはなんですか?中には理由なんてないのだと言う方もおられるでしょうけれど、それは多分解決にはつながらないです。私のような理屈屋にとって、理屈で説明できない漠然とした不安はとても恐怖です。だって頑張り様がないのですから。


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