知らんけど

2002年12月07日(土) 弱さ

昨日から今日にかけて学校の友人と交わしたメール交換の私が送信した内容を掲載します。実に素直に自分の気持ちが表現できた内容だったので、女々しい感じのする内容ではありますが、弱さを恥ずかしがる歳でもないので敢えて掲載します。

1、(最近元気がないね。というメールに対して)うーん、何かねぇ。理由わかんないけど。最近浮き沈みが激しくてね。明日バイトしたらちょっとは気が紛れると思うけど。

2、(騒いでみる?というメールに対して)心配させてごめんね。今はただ何もせずきれいな景色みたり、温泉に入ったり、星見たりしたいなあ。できれば、誰か大事な女性と一緒に。心が乾いているのかもしれないな。基本的な安心とか愛情とか足りないのかなあ。独りが寂しいのかもしれない。いろんな意味でね。

3、(人の事ばかりで、自分が甘えられてないんじゃない?というメールに対して)バイト終わった。バイトしながら昨日の○○ちゃんの「甘える」って言葉について考えてた。俺誰かに甘えたいのかもしれない。すべての不安や辛さや寂しさを受け止めてくれる環境を求めてるんだろうと思う。無意識に母親的存在を求めてるような気がするな。そういう受け皿がないから何をやっても充実感がないのかもしれない。誉められたい人に誉められる欲求が満たされないから。

4、(クラスの中で一人でいるように感じてる?というメールに対して)クラスに限らないかも。今までずうっとそうだった。転校多かったし、外国暮らしも長かったから独りでいる事が普通だったし格好いいと思ってた。宮元武蔵とか高倉健とか孤高の人に憧れてきた。でも実際にそんなの無理なんだよね。自分の弱さ隠すために信念なんて体のいい言い訳してきたんだな。今、自分の人生の危うさを目の当たりにして独りであることにビビってるんだと思う。こんなはずじゃなかったのに。という思いはそこからきてるのかもしれない。

5、(心を閉じてはダメだよ。というメールに対して)心を閉じているのかなあ。その辺まだ自覚できないでいる。本来の自分がどんな人間なのかってのも、良く分からなくて、どうしたら自分の心が開くのかが良く分からないよ。長く閉じてたから自分にもありのままがどんなものかが分からない感じがする。

強さを過剰に意識し、自分の弱さをごまかしてきたんです。弱さと面と向かうことは非常に怖いのですが、自分の弱さとうまく付き合っていくためにも、どのような弱さかを理解する必要があるようです。



2002年12月05日(木) 定期落とす

定期を落としました。

こうしたケアレスミスを犯すたびに、「注意力が散漫だな。」と自己嫌悪に陥ります。特に、最近はどこかぼんやりしていて、さんかくのしそうに書くアイディアも浮かんでこないこともしばしばです。

ぼんやりしながら過ごしていると、知らない間に時間は過ぎていき、気がつくともう1週間が過ぎていたりするのです。「ん?俺はこの1週間何をしていたんだろう?」という自問が毎日のように繰り返されるわけです。

確かに、勉強に関しても私生活に関しても以前よりは充実していますし、考え過ぎが悩みというエネルギーを消費する形になることは減ってきましたが、この注意力の散漫さはどうにも解消されないのです。

睡眠が充分に取れている状態を熟睡と言いますが、仮にその状態を普段の生活に当てはめるなら「熟生(ジュクセイ)」になりますが、まさに熟睡感がないのと同じで熟生感がないのです。なぜにこれほどまでに冷めた感じなのか?そして、どこか現実から距離を置いたところに自分がいるのか?自分でもわかりません。

とにかく、今回の定期の紛失は、定期そのものの勿体無さよりも、そんなケアレスな生活を送ってしまっている自分を再認識することとして非常にショックなのです。これを契機に何かが変わればなとは思うのですが...

気持ちの熱さとは、何から生まれるのでしょうか?あなたは熱く生きていますか?その熱い気持ちの源泉は何なのでしょうか?



2002年12月02日(月) 具体的行動

昨日からずっと「周りを気にしない自分らしさ」というのを考えて実行しようとしています。

あらためて考えてみないと自分らしさがわからないというのは、実に皮肉な話しです。何も意識せずにただそのままで居ることが自分らしさなのでしょうが、意識すればするほどわからなくなります。

実行となると、余計にちぐはぐです。考えても分からないのに、実行に移せるはずもないのですが、敢えて、自分らしさを意識した行動に移してみました。移してみたとはいいますが、実際に私がしたのは、できるだけ「自分らしさを出そう。」と考えないことでした。自分らしさを出すために、自分らしさへの過剰な意識を押さえようとしたのです。ただ、動く。それだけを心がけ、「考えるな。考えるな。そのままそのまま」という暗示をかけつづけていました。

そういう正しいのか間違っているのか、何だか良く分からない心理操作とは別に、もうひとつ行動を起こしてみました。昨日の日記にも書きましたが、私は、自信を失っていると考えていましたので、「具体的に何に自信が持てないのか?」また、「何に自信を持てば周りを意識せずに自分らしさを発揮できるのか?」を考えてみました。

私が出した答えは意外と簡単な答えでした。「自分自身をコントロールできる力」要するにセルフマネジメントの力が、今の自分にはない。寂しいと感じたら、寂しさをコントロールできずにイジイジと寂しがっているし、学校に不満を持ち始めたら自分自身の努力は棚上げしてイジイジと愚痴ってるし、そういう生産性の低い心のテンションを変えることのできなかった自分に自信を失っていたのでしょう。

そこで、単に心を意志だけでコントロールするのは難しいので、道具を作りました。まず、今、私が一番非生産性を感じているのが、学校に対してでしたので、まずは学校に文句を言う前に意識をもっと自分自身の勉学に向けるために、自分用の学習管理シートというものを作り、今日から本格的に自分の学習生活をコントロールしはじめました。これを軌道に乗せて、全体的なコントロールを取り戻したいと考えています。

かなり漠然とした不安がずうっとありましたが、なんとなく実際の行動に移すことで気持ちは少しづつかわりつつあるようです。焦らず、ゆっくり、確実に、本来の姿を取り戻したいと考えています。



2002年12月01日(日) 自分探し

自分らしさを失って、周りを気にし過ぎています。

周りを気にするという性格はどのような気質が影響しているのでしょうか?昔から、ずっと周りの目が気になって仕方がありませんでした。しかし、オーストラリアで五年過ごしていた間はまったく気にならなくなりました。そして、帰国してからもしばらくの間は周りの私に対する評価などまったく気になりませんでした。

しかし、このところ昔のように周りの目が気になるという性格が戻ってきました。他人の評価を気にするという裏には、何があるのかが自分でも良くわかりません。本当は周りの目など気にしない生活に戻りたいのですが、なぜか気になる。もしかしたら、自分の生活に自信が持てていないのかもしれません。

やはりどこかに後ろめたさがあるのかもしれないとも思います。日本の一般的な価値基準の中で私という人間が持っているバックグラウンド、性格、信条、憧れなどがうまく当てはまっていないのではないのか?と考えるのです。しかし、私はこれからもこの日本と言う国で生きていくのですから、その一般的な価値基準からできれば離れたところにいたくない。という気持ちがあるのでしょう。

周りの目が常に私を見ているはずはないのですが、自分らしさと日本の一般的な価値基準とのギャップを、他人の目に感じているのかもしれません。もしかしたら、そんな格好の良いものではないかもしれません。単に、自分という人間に自信がもてないのかもしれません。それにしても自信というのはどこから来るのでしょう?これまでの私の経験は恐らく多くの人が経験できなかった経験ですから、胸を張って自信を持っていられるはずです。しかし、そうではありません。

そう考えると、やはり私の自信の根拠となる経験や考え方が、今のところ、確固たる立場を築けていないのではないかと思うのです。私が最も私らしかった頃を知る人は周りにいないというのもありますし、私が自分らしさを表現してもそれが共感されていると感じる人が周りにいないのかもしれません。

周りに原因を求めても仕方がないので、結局は私自身が何かを変えていかないといけないのは良くわかっているつもりですが、さて、何をどう変えていったら良いのか?答えは簡単には出ないのです。周りへの期待を捨て、自分らしさを素直に出すということが必要なのかもしれませんし、自分らしさをある程度押さえるところは押さえて、周りの環境にあわしていく事も必要なのかもしれません。私としては、自分らしさを素直に出す事にしか突破口は見えないかな?と考えています。

久しぶりに、自分らしさとは何か?ということをじっくり考えてみようと思います。自分探しの旅は終わらないのです。



2002年11月29日(金) 女性

女性を誘って食事に行ってきました。私が女性を誘って食事などに行くと、それを傍で見たり聞いたりしている友人は、私を冷やかしますが、私は全然まったくと言って良いほど下心はないのです。私の本意は、「この人と話しがしたい。」ただ、それだけなのです。

では、女性ではなく男性でいいではないか?と言われるかもしれませんが、男性は大抵の場合以下のような状況に陥る可能性が大です。

1)愚痴を聞かされる。
2)エロ話に花が咲く。
3)主張しあって言い合いになる。

男性から愚痴を聞くのは大嫌いです。男が男に愚痴を吐くのは、私は嫌いです。エロ話も男同士のエロ話は下世話過ぎて面白くありません。主張しあって言い合いになるのは、恐らく男という生き物の本能でしょう。共感しあってどうのこうのという関係にはなかなかなれないです。

決して、すべての男性がこうなるわけではありません。しかし、なかなかこの男性と飲みに行きたいなあと思う人はいないのです。私にとって食事に行ったり軽く飲みに行くのは仕事仲間で行くのとは訳が違います。自分のプライベートな時間をできるだけ、自分が居心地のいい環境で過ごしたいですし、相手の人にも同時に居心地の良さを楽しんで欲しいと思うのです。

「女好き」という言葉が、どのような人を指しているのか不明ですが、男性よりも女性と一緒に居た方が楽しいと感じる私は、ある意味「女好き」なのかもしれません。しかし、それにしても女性はすばらしい存在ですね。癒されます。



2002年11月28日(木) 元気を

今日も相変わらず、非常に退屈な授業の連続でしたが、何とか生き延びました。

今、私が力を入れて自身の習慣にしようとしていることが一つあります。それは、「自分にとって大事な人を、一日一度でいいから元気な気持ちすること。」です。大事な人と書きましたが、特に特定の人と定めたわけではなく、その人が私に元気を与えてくれる何かを持っている人であれば、私はその人を元気にする相手として見ます。

例えば、クラスに笑顔が素敵な女性がいます。別に彼女に対して私は何の気持ちもありませんが、彼女の笑顔を見て素直に「素敵な笑顔だな。元気がでるな。」と感じます。ですから、彼女に対して「素敵な笑顔やね。元気の出る笑顔やから、これからも続けてね。」と言います。恥ずかしがりますが、とても喜んでくれます。

決して、外面的なものだけではなく、いつも私が落ち込んでいる時に励ましてくれる人や、やはり、ただそこにいてくれるだけで自分らしさを発揮できるような特別大事な人がいたりします。そういう人に対しても、私は感謝の言葉だけではなく、いかにその人の存在が、私だけでない他の人をも助けているかを心を込めて伝えます。

私を昔から知る人は気持ち悪がるかもしれません。無理もないと思います。私は昔はどちらかというとクールな人間で、他人より自分という感じの人間でした。性格ですから、今でもそういう部分は根本的に残っているとは思います。しかし、今では素直に自分の感情を出したり、弱さを出したりすることができるようになってきました。そのせいか、人の弱さも受け入れられるようになってきたのです。

私が自分の弱さを受け入れた瞬間から、いかに周りの人に助けられているかがわかるようになってきました。別に、周りの人は私を助けているなんて思っていないし、私もみんなに助けてくれなんて大きな声でお願いするわけではありません。しかし、そこに居てくれるだけで私の心を鼓舞してくれる人はたくさんいるのです。存在に感謝できる人はいたるところにいるのです。

これまでの私の傲慢さを反省し、みんなに元気をもらっているのだから、これまでの傲慢さを償うつもりで、みんなに元気を与えたいと考えるようになってきました。元気を与えるという行為は、こちらから元気の出る言葉のような何かを相手に与えることだけではありません。相手が持っている弱さや辛さを、無条件に受け入れる事も相手に元気を与える手段の一つなのです。私は、不完全な人間です。ですから、私が誰かを救い上げて助けるという事はできないかもしれません。しかし、自分で歩いて行こうとする人々の傍で、「歩いているだけでいい感じだよ!」「素敵な笑顔だね!」「そのままでいいじゃんよ。」「自分のペースで行こうよ!」と一緒に歩きながら声をかけることはできるのです。

決して、今の生活は私にとって満足の行く生活ではありませんが、私の言葉で一瞬でも元気が出た人を目の当たりにすると、「生きていて良かった。」と心の底から思えるのです。



2002年11月27日(水) 学校

授業が退屈なので、それならばということで、一所懸命話している先生の声を無視して、教科書を頭から精読しました。すでに今学期が始まってから何回か授業をしているのですが、今日の範囲まで読み進めるのにたったの一時間しか要しませんでした。授業とは何なんだろう?という疑問がふつふつと沸いてきまして、非常に虚しい気持ちになったのです。

大体、講義形式の授業とは何の為に行われるのか?こんな根本的なことを疑い始めたのですが、それを考え始めると、なぜ学校に行くのか?というところまで行きついてしまいました。そして、学校とはあくまでも知識の枠組みを与えるところであって、決して知識を与えてくれるところではないのだということを悟りました。知識とは、自分で取りに行って、自分で加工して、自分で消化して、自分の身に変えていく物だと思うのです。

本来なら、学校は自分の身となった知識を、自分の表現法で自分のスパイスを加えて発表する場でもなければなりません。そういう環境であれば、仮に自主性のない生徒であっても、知識に対して自ら近づき、自ら手を伸ばすことで、知らぬうちに自分の身となるのです。しかし、それさえないのですから、今、私はこの学校で何をしなければいけないのかがわかりにくいのです。わかりにくさは目標を曖昧にします。曖昧な目標は動機付けを弱くするのです。

んー、愚痴になってしまいました。しかし、このことを考える事で、なんとか学校と自分を切り離し、自分の人生の方向性を自身の考え方と方法できっちりを修正する必要があるのです。学校に行かなければ国家試験を受ける権利が得られないのですから、行くしかないのですが、勉強というのは学校に行かなくてもできるものです。学校に対する期待を捨てる事、学校をうまく使う事、そして、自分の勉強を高めていく事を考えていかなくてはいけないのですね。

学校とは学ばせてもらうところではなくて、自ら学ぶために使うところなのですね。そういえば授業料もたくさん払ってますしね。



2002年11月25日(月) 失敗

人間は変わるものです。常に変化しています。今日の私が、明日の私であるという保障はないのです。私自身もこの数年で様々な側面で変化していきました。常に成長という前向きな変化をしたいという思いはあるのですが、なかなか意識的に成長することは難しいのです。気がついたら自分は成長していたな。と思うことがほとんどです。

これは決して私だけの感覚ではないと思われますが、私が「ああ、自分は成長したなあ。」と思えるのはたいてい何かに失敗した後です。なぜか何かに成功した後で「自分は成長したな。」と思ったことがありません。大切な人を失った時、自身の夢が達成できないなと諦めた時、一人でも生きていけると思っていたのにどうしようもなく寂しさを感じた時、貯金が底を尽き生活能力を失ったことを実感した時、やりたい事をやっているはずなのにやる気が出ない時、などなど。

どんなものが「失敗」なのか?ということにもよります。それぞれの人が、それぞれの失敗の感覚を持っていると思います。皆さんそれぞれが持っているであろう「自分にとって魅力的な自分でありたい。」という目標に達するための、細かい一つ一つの努力が報われない時、それは失敗に感じるのです。

失敗する事は、自分の目標や価値観が本当に心から望んでいる事なのか?という客観的な視点から見なおすチャンスを与えてくれます。また、仮に正しい目標や価値観を目指していたとしても、その目指し方に問題がある可能性を気付かせてくれるものでもあります。

今、「うん、俺って成長したな。」と思えるのは、「うん、俺はたくさんの失敗をしてしまったけど、そこから何かを学ぼうとしてきたんだろうな。」という失敗に対する肯定的な見方ができるからだと思うのです。失敗を恐れずに行動してみようと言いますが、私は敢えて自分にはこう言い聞かせるのです。「失敗するために行動してみよう。失敗は私に成長という変化をもたらしてくれるはずだから。」

怖がらないで、楽しみましょうね。



2002年11月20日(水) 働く事

先日、禅寺のお坊さんが書かれた本を読んでいたら面白いことが書いてありました。「働く」という言葉の語源です。「働く」という言葉は、「傍(はた)を楽にすること。」という言葉の変形だと考える説があるそうです。

とても素敵な説ではありませんか。仕事をしているときに私達は意外とこの仕事の結果がどのような形で社会に貢献しているかを考える事が少ないものです。また、一般企業で働いていると、まるで上司のためにとか、社長のためにとか考えがちです。または、お金を稼ぐ手段としか見ない人もいるでしょう。しかし、もともと働くとは、傍の人々を楽にすることが目的だったのです。傍の人ととは、自分の家族であろうし、社会の人々であったに違いありません。

今の時代、「人のため」という考え方自体が、非常に古臭い考え方として隅に追いやられています。技術・情報・モノ・金などなど、豊かになるという事の基準が人とはまったく関わりのないところに置かれているのです。しかし、良い技術、良い情報、良い物など、実はすべての基本は人の生活を楽にするためのものです。人の心がわからないと、人のための仕事はできません。傍の人を楽にすること、それはまさに人を理解することから始まります。

あなたにとって働くとは何ですか?



2002年11月12日(火) 変化

朝の気分が一日の気分を変えてしまう事がよくあります。このところ慢性的に朝のラッシュで人とぶつかったりすると「こらっ、あほんだら。」と心の中で悪態をつぶやいてしまうのです。こんな状態ですと、一日の気分は「こらっ、あほんだら。」をベースとした気分になってしまいます。

そんな気分が嫌だったので、出際に本棚に無造作に置いてあった一冊の本を手に取り、電車の中でぱらぱらとめくりました。手にした本は「人生はゆっくり変えればいい!」という本でした。いつ買ったのか、どこで買ったのかも覚えていないほど、もしかしたらまだ読んでいなかった本かもしれませんが、いつもの違った気分を与えてくれました。

今日の私は、授業中は先生の顔を凝視し、先生の言う言葉をひとつも聞き漏らさない勢いで集中できましたし、何よりも授業を楽しむ事ができました。不思議と姿勢も一定で、いつものように落ち着かずに後ろに反り返ったり、うつぶせに寝たりということがありませんでした。気分一つでここまで変えられるのか?という驚きを感じたのです。

今日はたまたまなのかもしれませんが、こうしたちょっとした変化をもたらす行動はいくらしても損ではないのではないか?そんな気持ちになりました。何気なく手に取った本が今日一日の気分を変えてくれ、今日の気分が明日の気分を変える可能性があるのです。やるべきことなんてありません。なんとなくやってみましょうよ。何かが変わるかもしれません。変わらないかもしれませんが、宝くじと同じです。やってみないと変わることもないのです。


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