2003年03月11日(火) |
感情コミュニケーション |
先日行われた言語学の試験結果が思わしくなかったためか、先生のご機嫌が斜めです。今日、それが爆発しました。いつの頃からか、怒られるということをずっと経験してこなかった私には、先生の怒鳴り声がなんだか心地良くさえ聞えたのです。それは、先生の感情が私の感情を刺激し、活性化させたからだと思うのです。
あらためて、私の周りでは、感情によるコミュニケーションがずいぶんと減っている事に気がつきました。私自身も反省しなければいけませんが、日頃のコミュニケーションの質が以前と異なってきたように感じます。こうしてWEB上で自分の考え方をアウトプットすることも一つのコミュニケーションだと思っていましたが、どう転んでもこのWEB上で私の感情をストレートに皆さんに伝える事はできないのです。
「好きだ。」ということばよりも、黙ってぎゅっと抱きしめる方が、愛情という感情は伝わります。「このバカやろうっ!」といくら促音やビックリマークを駆使して怒りの勢いを伝えようとしても、先生の怒りの感情が声に乗って空気を伝わってビンビンと体を刺激するのとは伝わる内容が異なります。皮膚感覚や、聴感覚、そして、怒りに赤らむ先生の顔が目の前にあってこそ、本当の意味での怒りが伝わってくるのです。そして、その感覚は私達の感情を刺激して、私達の心を動かします。
感情をもっと感じたい。感情をもっと伝えたい。そんな思いを募らせた一日でした。感情のコミュニケーションは、例えそれが怒りであっても心と心のコミュニケーションなのです。
集中講義も後半に入りました。今日から音声学の授業が始まりました。私が目指すのは言語聴覚士ですから、音声ということに関してはかなりの知識を持つ必要があると思いますし、大事な授業です。授業では、主に日本語の音声について学びます。
言語というのは、まず話し言葉ありきです。話し言葉のない言語はあり得ないそうです。ですから、ことばというのは音声言語を基本としています。音声言語ですから、何らかの音声を使うのですが、どのような音声が、どのようにして発せられるのか?それが音声学です。人間が発せられる音の数は、恐らくかなりの数でしょう。それらのうち現在世界でわかる範囲での音が、すべて発音記号となっています。国際音声表記という形ですべてが記号で表されるのです。国際音声表記(IPA)→http://www.arts.gla.ac.uk/IPA/ipa.html
唇や舌などを駆使して、音を出します。また、音に音色をつけるために口の中の容積を変えて共鳴の調節をしたりします。音声学を学んでいてまず思うのは、どのようにしてこんな複雑な事を人間は習得するのか?ということです。母親の口の中を見て、「た」の発音を学んだわけではありませんし、「か」の発音の仕方を真似したわけではありません。
すべてはトライ&エラーで習得されているのです。母親の発する音を聞いて、それを真似する。自分が発した音が、フィードバックとして自分の耳に入る。その音と母親や他の大人達が発する音と比べてみる。そして、細かい調整をしていく。こうした時間のかかる学習の過程を経て、私達はことばを駆使することができるのです。生まれながらにこうしたことばの機能が脳の一部に存在するという説もあります。どちらにしても、ことばというのは人間を人間たらしめる存在ですし、その習得過程も発音一つとっても、かなり複雑な過程を経てきているわけです。
「学ぶ」と聞くと、「勉強」という苦しい体験が思い出されますが、私は「学ぶ」とはまさにことばの過程にみられるようなトライ&エラーの繰り返しだと思うのです。大量の刺激に日常的に触れ、それについて考えてみる。人間の五感をフル活用して刺激を入れて、そして考える。表現する。そして、それを楽しむことが大事です。こどもは楽しそうにことばを習得しているではありませんか。私達もこどものように、楽しく学んでいきましょう。
イラク問題でもそうですが、何か大きなニュースがあると出てくるのが評論家です。評論家がどんな評論をするのかいつも注意して見ていますが、「この評論家すごいな。」って思ったことのある評論家はなかなかいません。
ある本にアナリストとアクティビストの違いの話しが出ていました。今の日本にはアナリスト、すなわち分析家はたくさんいるけれど、実際に行動で示すアクティビストが極端に少ないと書いてありました。なるほど、これまで私は物事を深く考えて、様々なものを注意深く観察して、分析していく冷静な心が必要だと考えていましたが、それだけではいけないようです。分析的思考は「事実」と「論理性」を重要視します。事実がなければ論理性は保たれないし、論理性がなければ事実は光り輝きません。しかし、今の時代はそうした論理的な思考よりも創造的な発想や行動が求められているのかもしれません。
遊びや突拍子もない思いつきから、新しいものが生まれてくる事も多いのではないでしょうか?論理的思考に偏ってしまって、そうした遊び心や奇抜なアイディアを無意識のうちに排除してきたのではないでしょうか?よりよいアイディアを目指して、論理的思考と創造的思考のバランスを考えていきたいものです。そして、アナリストという側面だけではなく、アクティビストとしての側面も強化していきたいものです。
試験が返ってきています。今のところ結果は上々で、とにかくパスさえすればいいと考えていた割にはよい成績です。しかしながら、短期記憶に頼って得た結果でこんな点数が取れていいのか?という疑問も湧き上がってきます。やはり試験で本当の能力なんて評価できませんね。
ある試験で、ことばの発達が遅れている子供が遊んでいるビデオを見せられてそれを評価するという形式のテストがありました。もちろん、ビデオでわかる範囲のこどものことばの状態や、遊ぶ姿からの運動発達や知的発達の状態などを評価するので、メモをとらなければなりません。しかし、そのメモが減点の対象になりました。答案用紙にメモを残してはいけない。それが先生の考え方だったようです。
ある生徒は充分に合格ラインの点数を取っていたにも関わらず、そのメモのおかげで20点引かれて再試験となりました。60点の学生と79点とってメモで減点されて再試験になった人の能力の差は一体何なのでしょうか。先生は何の能力を評価しようとしていたのでしょうか?先生の考えていることがテレパシーのようにわかる生徒を振るい分けるための試験のようにさえ感じました。
メモを残す事が良いとか悪いとかという考え方の問題ではなく、こうしたことがまかり通る評価体制というものに疑問をもちました。こうしたことは一例に過ぎず、この世の中には、こうした不合理なものが多いような気がしませんか?多くの人がそうした不合理なものに適応するために必死になって頑張らなければならないなんて、とても無駄なことです。何が本質なのか?表面的なものだけではなく、その奥にある人間の本質を評価してもらいたいですね。そして、私はそうした医療人になりたいです。
▼今日の日本政府の米英支持に関して 日本政府には戦争回避の方針をもってもらいたかったです。最近、私も含めた日本人の危機感の無さに諦めを感じる事が多々あります。まるで他人事みたいにニュース見てる自分がいるんですから。日本人は日本が攻められたらどうするのでしょうね。一目散に外国に逃げるのでしょうね。あまり難民を受け入れない国の国民が難民になるときが来たりして。それもお金はたくさん持った難民ね。笑い事じゃないんですが、現実味はまるでゼロなのが怖い...
2003年03月07日(金) |
ゆっくりだけでいいのか? |
最近、テレビでやっているCMでお気に入りがあります。大和証券のCMです。「動いている人は美しい。」このコピーの真意はともかく、今の私を応援してくれる言葉に聞えるのです。
ゆっくり、焦らず、確実に。という座右の銘を5年くらい掲げているのですが、最近この「ゆっくり」という部分に少し説明不足を感じ始めています。確かにゆっくりという感覚は非常に大事な感覚なのですが、最近はスピードを重視した生活を送ることで何かと結果が出ているのです。これはどう考えたら良いのだろう?と考えていますが、今のところうまく説明できないのです。
なんとなく感じているのは、大きなスケールや長いスパンで見たときにはゆっくりに、小さなスケールや短いスパンで見たときは急いで行動するのがいいのかな?とか、やりにくい事、解決し難い困難な事はゆっくり時間をかけて、今すぐにできる簡単で単純な事は急いで時間をかけずにすることなのかな?という事です。
スポーツでもそうですが、緩急をつけた動きとか、メリハリの利いた攻撃なんていい方がされています。そうした視点が生活においても必要なのかもしれません。焦らず、緩急つけて、メリハリつけて、確実に。そんな感じに変えればよいのでしょうか?これからも考えます。
聴覚検査の実技で1回目の試験落ちていたのですが、今日の再試でなんとか通りました。ほっと一安心です。今日は意外な人に意外なことを言われて、とてもうれしかったのです。
聴覚の先生は比較的厳しい先生で、悪く言うと重箱の隅をつつくようなとても細かい指導をする先生なのですが、今日の再試後にとてもうれしい一言をかけていただきました。「あなたは、就職したらその地域の中心的存在になる人だと思うから、どんなことでもできるようにしておきなさい。」言っていることは非常に厳しいことで、私にはまだ基礎知識がついていないということを言っているのですが、その前提として「地域の中心的存在になる人」という言葉がついていたのが驚きでした。
意外な人に言われる意外な言葉は非常に心に残るものですね。それがどんなに嫌いな先生でも、嫌いなだけにうれしいというかなんというか...これを糧に頑張って基礎科目から積み上げていきたいと考えています。
…あるメルマガより 《難しく考えることはない、やりたいかやりたくないかだけなんだから》
実習先となる姫路の病院に行ってきました。私より2歳若い実習担当のバイザーは、非常にサバサバした感じの良いバイザーで、気兼ねすることなく結構話ができました。小一時間ほど話しが盛り上がりましたし、実習へも緊張無く入っていけそうです。何せ実習といわれるものは初めてですから、何かと不安がつきものだと思っていましたが、今日の対面でかなり不安は払拭されたような気がします。
学校の授業を途中で抜けて梅田から姫路まで電車で行きました。阪急電車と山陽電車を乗り継いで1時間半、途中に明石海峡大橋が見えました。先日の日記に書いた、NHKスペシャルで紹介されていた安藤忠雄さんの建築も見えましたよ。その電車に乗りながら色々と思いをめぐらしていたのですが、ふと不思議な感覚に襲われたのでそれを携帯に記録しておきました。
『姫路に向かう山陽電車の中。窓の外は海が見える。向かいの席には、若いリクルーター、妙な若作りをしたおばあちゃん、不思議な味を出している中年おじさん。窓から西日が差す中、太陽の偉大さを感じるととも、その偉大さとは裏腹に人生のはかなさを感じる。流れゆく時間は一定でも、人間の人生は好む好まざるを問わずに放物線状の時間として流れる。自分のちっぽけな存在に気づくと同時に、わずかな人生の時間に自分を偽る生き方はしたくないという思いがつのる。太陽の光は降り注いでいる。後はいかに自分の人生というはかない限られた時間を光輝く快適なモノにしていくか?なのだ。あるがままに生きないのであればどう生きる?私は私自身を太陽の光にさらして生きたい。』
別に詩にするつもりもなく、ただ思った言葉をそのまま残したのですが、自分にとって今日感じた事は非常に大事なことのような気がします。一瞬一瞬をどう生きるかということを初めて意識した瞬間でした。
睡眠時無呼吸症候群。他人事ではありません。私はそんなに太っていませんが、どうも日中の眠気が取れないのです。意識が無くなるほどの眠気ではありませんが、これはもしかしたら軽度ではあるけれども、睡眠の質に問題あるのではないかと考えるのです。気持ち良く朝を迎えたいです。それで、一日のリズムというか気分が八割方決まってしまいますからね。
最近、気になるのが寝返り時に目がさめることです。ばっちり覚醒するわけではないのですが、ぼんやりと寝返りした記憶が残っていますから、多分、起きてるのでしょうね。枕のせいなのかと思って買い換えようかと思いましたが、まだ悩み中です。
1年半前に鎖骨を折った時に、折れた鎖骨をかばうために寝返りをしない睡眠を強いられた時期がありました。そのとき以来、鎖骨が完治してからもなかなか寝返りの感覚が元に戻らないのです。たかが寝返りなのですが、どうもここに原因がありそうです。いつも右側を向いて寝ているために、右の目元のしわが増えてきました。
質の良い眠りを求めて今晩も研究です。おやすみなさい。
2003年03月02日(日) |
タイ・オーストラリア |
4月の前半から中盤にかけてタイとオーストラリアに行く事にしました。タイではカナダで仲の良かったタイ人の友達と会う予定です。バンコク中心にゆっくりしたいと思っています。オーストラリアは色々行きたいのですが、今回はシドニーだけです。以前、通っていた大学がシドニーから電車で約二時間ぐらいのところにあるので、そこに7年ぶりにいってきます。この前シドニー近郊で列車事故があったと思いますが、あれはまさに私が乗る電車です。
今回、タイに行くのは観光+友人に会うという目的があります。タイ人以外にも日本人の友達にも会う予定です。とにかく楽しみたいという気分です。オーストラリアは観光というよりかは、里帰りみたいな感覚です。昔の友人にも会いたいし、昔の先生とかにも会いたいですね。ビールも飲みたいし、クリケットも観たいし、何といっても向こうの太陽をいっぱい浴びたいですね。後、チャンスがあればオーストラリアのST(言語聴覚士)事情も見聞してきたいと思っています。
ここ3年というもの、純粋に楽しむという行為をしてこなかっただけに、今回のタイ・オーストラリア行きは楽しみです。また、写真など掲載するつもりでいますのでお楽しみに。
タイ情報をおもちの方は是非色々と教えて下さい。ここは観とくべき、これは食べるべき、これは飲むべき、これは体験しておくべき、という情報があればメール、掲示板で教えて下さいね。
試験が終わったばかりだというのに、今日もいつもと同じ時間に起きてアルバイトに行ってきました。ん〜、土日にアルバイトが朝からあるのは、こういう時に辛いですね。体が思うように動かないので、イライラしました。外は雨だし、お客さんはチェックアウト遅いわで、何だかストレスの溜まるアルバイトでした。
今日、一つ嬉しかったのは、バイト先に韓国人の留学生の女の子がいるんですが、6ヶ月目にして初めて話したことです。アルバイト先では人間関係をシンプルにしておこうと思って、あまり話しをしないようにしているのですが、最近、やはり土日だけとはいえ、6ヶ月もいるので周りの人達の方から私に話しかけてくれるようになってきました。
ホント、色々な人がいるものです。話していて、色々な人生があるのだなあと感心してしまいます。それぞれがそれぞれに意味のある「人生」ですから、それが自分にとって不可解なものでもとても面白い。考え方というか、一つの行動に至るプロセスには様々な価値観や思考の傾向があるのです。そう考えると、同じ対象物を見ていてもそこに感じるものは人それぞれだということが良く理解できます。
世界は一つではない、世界はこの世に生を受けた人数分あるのですね。
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