知らんけど

2003年05月18日(日) 生活の余裕

さて、やりたくない勉強はしないと宣言してから1週間が経ちました。今だ勉強したくなりません。学校から出される課題もやっつけです。やっつけでもどうにかなるのですから、そんなものが課題と呼べるのかどうか疑問です。とにかく授業でも、目がさめている時は聞いていますが、眠くなったら眠り、面白くないと感じたら白昼夢を見て過ごしています。

今、私が夢中になっているのは何か新しいことを起こすことです。これまでに日記でも書いたように、今のところ学校でいくつかの新しい活動を企画しています。恐らく、私自身の生きるエネルギーというのは、自分の手で何かを始めるというところに一番効率良く働くのではないかと思います。思い返してみれば、小学校低学年の頃です。親戚の叔父さんの誕生日にお呼ばれした際に、他の親戚の子どもが色々なものをプレゼントとして購入していたのに対して、私だけが紙粘土で作った模型だったのです。(渡すときには壊れていましたが...)

学校という与えられる環境の中で、自分らしさを発揮する場面がなければ、当然、気持ちは萎えてきます。今、私が勉強したくなるようにするには、私が持ち合わせている特性を充分に活かせる環境を作る必要があるのでしょう。さて、それは何なのでしょうか?学校というシステムに組みこまれてしまわぬよう、創造力を働かして自分にとって適切な環境作りをしていけるよう考えていきたいと思っています。

とりあえず、1)休憩時間には将棋をしている。→将棋を知らないので将来臨床で患者さんと楽しめるように。 2)昼休みはキャッチボールを。→体を動かして脳を刺激。 3)遊びの企画。→自分のエネルギーが使える場を得る。の三つを柱に勉強への興味回復を試みています。急がば回れ。とにかく生活を楽しむ余裕が必要です。



2003年05月17日(土) 神?

自分がここに存在するということの奇跡を考えると、私達の能力では計り知れない力がこの世界に働いているのではないか?という気持ちになります。

奇跡として産まれてきた自分を大切にすること、この世に産まれてきた奇跡に感謝すること。そう思うだけで人生は豊かなものに成り得ると思います。

私は何の宗教も信じてはいないけど、様々な宗教を信じる人達の気持ちはわかるし、彼らが求めているものが何かがわかります。中学生の頃に見たNHKの地球大紀行は、当時の私に無力感を与えました。人間なんてちっぽけな... そして、生きる意味は?と問い始めました。生きる意味に答えが出ない間は、何をしてもひとつひとつの行動に意味が見出せなかったのです。宗教に生きる意味を求めた人達がそこに安心感や充足感を感じているのではないでしょうか?

宇宙ができたのは奇跡。その宇宙の中で、地球のような星ができたのも奇跡。その地球に海ができたのも奇跡。生き物が誕生したのも奇跡。人間が誕生したのも奇跡。それらの奇跡の上に成り立つ私達の存在も奇跡。私達が決断したり迷ったりして何かが起きたり起きなかったりするのも奇跡。その私達が経験する生活のすべてが奇跡。

私は何の宗教も信じていないけれど、この奇跡の連続の上に成り立つ私達の奇跡は、何か私達の手の届かない、理解の範囲を越えた「ひとつの秩序」の表れではないのか?という気がします。それは生きる意味を求める一部の人間の愚かさを際立たせます。「何の為に生きているのか?」ではなくて、「生きる事によって何かが起きる。」のです。すべての出来事は、これまで起きてきた奇跡の延長線上にある奇跡なのです。私達が生きる事は奇跡だし、それを前提にすると私達が起こす言動、そしてその結果もすべて奇跡なわけです。

そう考える事で私は、生きる意味を捜し求めるしんどさから救われるような気がするのです。



2003年05月15日(木) 社会と自分

今日は体が辛いので早めに寝ます。

今、「この世の一番の奇跡」(オグ・マンディーノ)という本を読んでいます。自己啓発の本なのですが、小説仕立てでなかなか面白いのです。恐らく、これから後半にかけてこの本のメインとする部分が出てくると思います。楽しみです。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」

マザー・テレサのことばを噛み締める毎日です。無関心が日本の社会を蝕んでいるのは事実かもしれない。そう思わせる出来事がありました。誰かがやってくれるだろう。時間が解決してくれるだろう。まあ、それも間違いではないのでしょうけれど、そこに自分の社会への働きかけはないし、社会から自分への働きかけもないと考えると、やはり自ら働きかける事が大事なのではないか?と考えます。悟りをひらいた振りをした人が多すぎる。

自らを戒め、自分を社会に活かし、そして社会を自分に活かす生き方を模索したいと考えています。



2003年05月14日(水) 水曜日の午後

今日は授業が午前中まででした。昼食を取って神戸に戻り、三宮をブラブラ。特にあてもなくほっつき歩いていました。それで、歩きながら色々と考えていたのですが、考える事があまりにも後ろ向きだったのである事を試みました。ある事とは、とにかく目に入ったものを、ことばにして解説してみるという試みです。

目の前に女の子が歩いていたら、「若い女性が歩いている。」とことばにし、携帯で話しているサラリーマンが居たら、「サラリーマンが携帯で電話をしている。」「ネクタイはダサい。」「スーツのボタンを三つしている。」などと、とにかく目に入るものをありのままにことばにしていったのです。たまに、ダサいとかブサイクなどの主観も入ってしまいましたが、とにかく客観的に事実だけを述べるように努力しました。

これが結構大変なのです。すべてのものをことばにしていくのは実際には不可能です。ことばにするという作業は意外と時間を使います。だんだんと早口になり、そのうち口形をつけてことばにしていくことができなくなりました。そこで心の中で唱える事にしたのです。心の中で、次々と目に入る状況をできるだけ客観的にことばにして述べていくのです。すると不思議なことに、これまで意識していなかった事柄にも意識が行き始め、「は!面白い!」「え?こんなのあったの?」というような新たな気付きを体験していきました。

もう一つ気がついた事がありました。それは、通りすぎていく人達とは恐らく高い確率で二度と知り合わないだろうということです。一人の人間がいるということは、そこに一つの人生があるというのに、私達はそんなこと意識してお互いを見ていないのです。でも、自分にはない価値観を持ったそれだけの人達がただ通りすぎていくのを意識して見ていると、「なんて自分は知らなさ過ぎるのだろう。」と思ったり、「世の中には知り合うべき人はたくさんいるし、出会うべき価値観は無限にあるんだな。」と感じたり、これまでに感じた事のない感覚を覚えました。

で、最終的にふと心に浮かんだのは次の思いでした。

「生きてるってこういうことなのか。すばらしい。」

実際のところ、「こういうこと」がどんなことなのかことばで説明はできませんが、一つ突き抜けた感覚を覚えました。生きる意味はわからないけど、生きていることを実感した。そんな雨の水曜日の午後でした。



2003年05月13日(火) やり始める

風邪を引いてしまいました。喉の痛みに始まり、咳が出てきました。毎年、秋から冬にかけて慢性気管支炎を起こすのですが、そのときのようなひどさはありません。ただ、胸のあたりがむずがゆく、痰が出て咳き込みます。

風邪気味のせいもあるかもしれませんが、最近は授業が退屈で仕方がありません。一応、先生の話は聞いてはいますが、ほとんどノートは取りません。「ふ〜ん。」とか「へ〜。」というような、心を動かされるような事柄しかノートに記さないようにしています。これは風邪もありますが、もう一つ、私の心境の変化が影響しているかもしれません。とにかくやらされ勉強はしない方がまし。最近、強くそう思っているのです。

やりたいと思わない勉強はしない。というように心を決めると、何だか普段の生活の気持ちが楽になりました。そこで、前からやりたいなあと思っていてできなかったことをやり始めたのです。手始めに、ラフティングというゴムボートで激流を下る遊びをクラスで企画してみました。それから、学校の休み時間に将棋を始めました。というのも、私は将棋をしたことがないので、将来、臨床に出たときに患者さんとそれなりに対戦できるようになっておきたいと思ったからです。そして、近日中に、ビール工場見学ツアーの企画を打ち出す予定です。

やりたい事をやると書きましたが、実際には、私らしさを素直に出しているだけです。よく考えると、私はこういう人間だったのです。自分から何かを始めるということを楽しくできる人間なのです。事実、この数年間において、こうした自分らしさというものをすっかり忘れてしまっていたようです。もう、外部の圧力にやらされるという人生おさらばです。

自分らしく生きることを思い出して、退屈な授業を耐え忍びます。



2003年05月11日(日) 芸能人の半生記

夕食時になにげなくついていたテレビで、浅香光代さんの半生を取り上げた番組をやっていました。特に内容はよくわかりませんが、そのときにふと思ったこと。「芸能人の半生記の番組多いなあ。」

こうした番組の目的は何なのだろう?単純にそう思いました。視聴者が喜ぶからやっているのだろうし、喜ぶからにはエンターテイメントとしての価値があるからやるのでしょうけれど、芸能人の半生記にエンターテイメント性を求める視聴者のこころが良く分からないからです。いかに自分が安定した普通の生活をしているかを再確認すると同時に、自分もあんな奔放な部分があったら良かったのになあ〜という羨ましい気持ちを呼び起こすためでしょうか?

確かに紹介される芸能人の方たちは、芸能界では成功者でしょう。しかし、一般人の私にとってはまったく縁のない世界で、そこで取り上げられる内容は、「ふ〜んそうなんだ。」というぐらいの感想しか持てない非常に私的な内容ですから、私はまったく面白くなくて、いつもチャンネルを変えてしまいます。中には彼らの生き方になんらかの格好良さを感じ取ったりする人もいるのでしょうね。

やっぱり電車の中で、となりで読まれている新聞が気になるように、他人の人生もきになるものなのでしょうかね。それとも、自分と同じような人を探し出して安心したいのかな。



2003年05月10日(土) 暗示

風邪気味で頭がくらくらしていました。喉も少し痛くて、今日の朝は久しぶりに辛くて午前中の授業を休みました。学生という身分はこれができるから大好きです。まあ、明日も一日中授業があるので、そのためにも今日は様子を見ました。

体調の悪さは精神力でカバーだと思い、「俺は元気だ。俺は元気だ。」と暗示をかけようとしましたが上手く行きませんでした。肩から首にかけてだるさがひどく、肩を回したり自分でもんだりしたりしましたが、結局、今もだるいです。でも、だんだんと慣れてくるもので、午後にはだるさにもなれて、午後は普通に授業を受けて、夜は遊びに行きました。

私は、暗示の効果を身をもって体験した事があります。そんな能力を持っていたときがあるのです。どんなに頭が痛くても、「だんだん痛くなくなる。」と何度も唱えていると、本当に痛みがとれたのです。熱が出ていても、「すぐに平熱にさが〜る。」と何度も唱えていると、本当に熱が下がったものでした。その頃の自己暗示能力はすごいものがありました。

「集中力」なんでしょうね。今は、一つの暗示を集中して唱える持続力があまりありません。途中で、もういいやとなってしまうことが多くなりました。多分、大好きな女性に会いに行くとかなら、頭の痛みなんてすぐ吹っ飛ぶのでしょうね。確かに、今日も友達を御飯を食べているときはまったくだるさを忘れていましたし。自分の意思ではなんともならなくなっていますが、そうした環境を与えてやると人間の痛みなんて意外と簡単に除去できたりするのかも。



2003年05月08日(木) 開放

何か一つの物事が上手く行かないときに、まったく別のものに取組んで楽しみを見つけることで、うまく行かなかった物事もうまく行き始めるこってありますよね。

今、私はあまり勉強に関して夢中になれていません。夢中になれないから、あまり楽しんでいるとは言えないし、楽しめないから取組む時間も限られています。結果として、あまり知識もつかないという非効率な状態なのです。この状況をふと客観的に見てみると、勉強を「やりたくじっとしていられない!」からは程遠く、「やらなければならないのだが...」という義務感のような感覚で捉えてしまっているのです。

私の性格上、「やらなければならない。」という義務感から勉強はできません。だから「勉強したくてじっとしていられない!」という気持ちになるまで勉強しないことにしました。その代わりに、やりたい事をとことんしていくことにしました。やりたくてじっとしていられない勉強以外のことを徹底的にやってみることにします。そうすることで、何かが変わるかもしれないからです。

国家試験?まあ、落ちれば縁が無かったと考えればいいでしょう。お金?別にどうにかなるでしょう。本当に勉強したいという気持ちになれば、国家試験だって何とかなるはずですし、急がば回れという戦略で行くことに決めました。

これまで何だか見えない何かに縛られていた感じでした。自分らしさを開放して、純粋なやる気を呼び起こします。



2003年05月07日(水) 書く快感

昨日のふしだらな日記に恥ずかしさを覚えながらも、やはり自分の本心はこれだなと確信を深めております。

私の表現手段で一番うまく行くのがこうした文字による表現です。私が得意としているのは、「ラブレター」、「批判的文章」、「感想文」です。学校から出るレポートなんて、小一時間でできてしまいます。逆にラブレターは推敲に推敲を重ねて完璧にするまで時間を惜しみません。他人の書いたアイディアに批判的な文章を書くのは、それが正しいとか間違いなど関係無く、ただ単純に楽しいです。理屈を言葉にしていく過程がおもしろいのです。

文章の上手い下手ってのはあるのでしょうけれど、私は、上手い下手という部分にとらわれる必要はまったくないと思います。そんな技術的というか、ハウツー的な部分をマスターしても、たいして面白い文章なんてかけないと思います。私がラブレターや感想文を書く際に、これは大事だなって思うのは、1)読み手のことを意識する 2)自分の考えがある の二つです。もし、シンプルにかけるならシンプルに分かりやすく例えなどを交えてかければ更に良いのでしょう。文法的な正誤なんて意識にも上りません。

思考というものが言葉をベースに行われるのなら、頭の中に描いている思考を文章として明示化してみることは自分自身を再確認する事になるのではないかと思い、さんかくしそうを続けています。まあ、大した人間でないことを周りにさらけ出す事にもなるのですが、それはそれでまた良し。格好つけても仕方がないのです。文章を書いて、自分自身を再認識し、そして弱い自分も受け入れる覚悟を決める。ん〜、書くって心地良いですね。



2003年05月06日(火) パートナー

連休明けの学校はとてもきついものでした。バイトが忙しいぶん、学校でじっと座って話しを聴くだけの時間は拷問に近いものがあります。6月でバイトを辞めるのですが、今以上に体を動かさなくなるとどれだけストレスが溜まっていくのだろうと考えると、ちょっと心配です。

学校のホームページの掲示板で、クラスメイトに「何か満たされてないのでは?」という指摘を受けました。確かに。精神的にも肉体的にも調子は上昇中なのですが、その上昇気流に乗っかるものが不足している感じがします。何をどうすれば満たされるのかよくわかりません。時間を忘れるほど勉強には充足感を感じませんし、バイトはストレスの発散にはなりますが、後に特に何も残りません。お金は奨学金などで充分あるし...

それで一つ自問自答してみました。

「おい、issy。今一番欲しいもの、または、望んでいるものは何だ?素直に答えてみろ。バカにしないし、笑わないし、軽蔑もしないから。」

で、瞬間的に出てきたのはこんな答えでした。

「女の子を抱きしめたい!」

この瞬間的に出てきた本心そのものに向かい合うと、「まあ、なんて俺は寂しい男なのだ...」と自己嫌悪に陥ってしまいます。しかし、道端を歩いている女性にいきなり抱きつくわけにも行きませんし、女友達に「とにかく、抱きしめさせてくれ!」なんて言えませんし、かと言ってそういう対象となるための好きな女性も居ないわけで、踏んだり蹴ったりで溜息は止まりません。セックスがしたいとか、キスがしたいとかじゃなくて、「抱きしめたい!」ってところがまた悲壮感を漂わすわけでとても悲しいのです。

満たされないもの。恐らくそれは周りの人からの関心とか、自分自身の夢とかではなくて、自分自身をさらけ出せるパートナーが居ないってことなのでしょうね。よし、抱きしめることができる人を探そうっと。


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