知らんけど

2003年08月06日(水) 絵を描きたい

ちょっと絵を始めたいと思っています。そんな難しい事をしようというのではなく、ちょっとしたペンを使った線画です。

なぜそう思ったかというと、最近、パソコンにかじりつく時間や、テレビを見る時間、それから意外と携帯を見ている時間が長いのです。よくよく考えて、すべて画面を眺めているということに気がつきました。本を読む時は大体電車の中なのですが、しばらく字面を追っていて疲れてくると外の景色を見ます。テレビ・パソコン・携帯の場合は、夢中になると画面を見っぱなしなることが多いのです。

もっと外の景色を良く見てようという気持ちもありますし、趣味を増やしていきたいという気持ちもあります。あわよくば、将来仕事でこうした趣味が役に立てばいいなとも思います。始めたけどなかなか練習が続かないギターに次いで、ホンマに続くんかいな!?という不安もあります。が、そんな事を言っていたら何も始められませんから、とりあえずやってみようと思っています。

こうやって色々なものに不安を無視してチャレンジしていけば、そのうちしっくりくるものが見つかるとも思うのです。それに、何かのきっかけで3日坊主で終わってしまったものでも、後で夢中になる可能性だってないとは言い切れないのです。人生、何があるかわかりませんからね。とにかくチャレンジこそが人生だと思って楽しむしかないのです。始めなきゃ始まらないですからね。



2003年08月05日(火) あるべきところにあれば...

散らかすのが得意です。片付けても2日で、元の散らかり状態に戻ります。

散らかすには原因があるはずだとずっと考えていますが、いまだに答えは出ません。もちろん、私のぐうたら加減が主な要因ではありますが、それにしてもぐうたらならばぐうたらなりに散らからない方法があるはずです。人間の生理に合わして機械の仕組みを合わせることをコンパティビリティーと呼ぶそうです。例えば、押して出るドアには取っ手をつけずに、引いてあけるドアにだけ取っ手をつけると、「押す」とか「引く」ってドアに書かなくて済みます。

聞いた話しですが、どこかの外国で市街地のど真ん中に芝生が美しい公園を作ったそうなのですが、1ヶ月もすると芝生を斜めに横断するように芝生がはげて獣道ができてきたのだそうです。どうも公園を斜めに横断した方が便利に感じる市民が大勢いたようなのです。そこで、その町の公園担当者は、その獣道をレンガで舗装して歩道に変えたそうです。これもコンパティビリティーの一つの例でしょう。

そんな例を出して、私が部屋を散らかすのとどんな関係があるかっていうと、部屋の中に置かれている物たちも、コンパティビリティーを念頭に入れて整理されていれば、片付ける努力をしなくても、散らかる事はないのではないか?ということなのです。例えば、私はCDをかけた後、必ずコンポの前にCDを積み上げてしまい、後で元々置いてあったラックの中に一斉に片付ける作業を行いますが、良く考えたらコンポの前に積み上げておくのが一番散らからない片付け方なのです。

そう考えると、部屋の中にある様々な物たちのあるべき場所というのがあるはずなのです。ということがわかっていながらそれを実践できないのはなぜなのか?そこが不思議なんですよね。やっぱり私のものぐさな性格が最大の原因なのでしょうか。



2003年08月04日(月) 人が動く、「働」

ふと思ったんですけど、「働」という漢字を分解してみると「人」が「動く」に成るんですね。

正直なところ、私は働くのが嫌いです。その理由は、恐らく働くということが多かれ少なかれ、自分らしさでいる事を犠牲にしなければならないというイメージを持っているためです。私のイメージですけれど。何の為に働くかと考えると、まず思いつくのが大人として自立するためという理由ですかね。経済的に自立すること、社会的責任を負うという意味で社会的に自立することでしょう。しかし、こうした自立という言葉の裏には、なんとなく社会に組み込まれて歯車として働くという意味が見え隠れしているのです。

恐らく、人それぞれ感じ方は違うのでしょう。育ってきた環境や、働いている環境で大きくことなるので、一概に私の持つ働くということへのイメージが他の人と共通したものだとは思いません。とにかく、私にはそうしたイメージしかありません。少なくとも以前のサラリーマン時代には、働く事に何の意味も見出せませんでした。まあ、気がついたら銀行の口座に大金があったという意味はありましたが。

しかしですね、今日、ふと「働」という漢字を分解したら「人」が「動く」という風になるじゃんと思った瞬間に、働くという言葉がこれまでの暗いイメージから開放されたんです。人が動くということは、人が生きているということそのもではないか!と思ったわけです。生きているということは、人が動くことそのものですからね。そう考えた瞬間に、働くという言葉を、経済的自立とか社会的自立に関連付ける思考が、実は、働くという言葉が本来持っていた意味を制限してしまっているのではないか?と考えたわけです。

すなわち、人が動くことは働くことなんではないか?もっと言えば、生きている事自体が働きなのだということです。生きている事だけで、何らかの役割を果たしているとは考えられないでしょうか?ただですね、人が動くという見方と同時に、人に動かされているとも分解の解釈はあるわけです。働くとは、人に動かされることなのか?それとも、人が動くことなのか?働いている本人が、どう感じているかで決まるのかもしれませんね。

私は、働くとは人が動くこと、その立場でこれからも働いていきますよ。こうやってホームページを作るのも、私の働きなのです。



2003年08月03日(日) 花火と人生みたいな

いやー、今日は暑かったですね。汗だくです。今日は、ゴンチチのコンサートに行き、その帰りに淀川の花火大会に行き、夏休みの一日を堪能しました。

ゴンチチのコンサートの感想は、何でも感想文に譲ります。淀川の花火大会ですが、感想は「人、人、人。」もう、人だらけの花火大会でした。花火はとてもきれいに見えたし、内容もすばらしいものでしたが、それ以上に印象に残ったのは人の多さですね。どこから湧いてくるのか?まあ、私達もその湧いてくる人達の一部なのですが、これだけの人が同じように生きているということ、当たり前だけど、気持ち悪くなりました。

ネズミがチューチューと山のように出てきたら気持ち悪いですよね。でも、人間だとあまりその気持ち悪さが感じられないのは、やはり同種だからでしょうか。空を飛んでいる鳥は、人だかりを見て「うわぁ、きしょい。」なんて思っているのかもしれません。今日は、十三から淀川にかかる橋の上から見たのですが、河川敷に見える人の頭は気持ち悪かったです。

これだけの人が同じように生活しているという現実は、逆に考えると自分一人の意味の無さに繋がったりして、ちょっと寂しい気持ちになったりもします。あれだけいる人間の中で、どれだけの人が自分なりの人生を楽しんでいるのだろう?一瞬の内に華やかさを表現し消えて無くなってしまう花火を見ながら、自分の人生にダブらせる夜でした。俺は、人生を楽しむ。



2003年08月02日(土) 追われないように

今日は一日を振り返ると何もしていない一日でした。こういう日があってもいいでしょう。

午前中はゲームをしたり、音楽を聴きながら管理しているいくつかのホームページを更新したりして過ごしました。これまでやろうと思ってできていなかった事がいくつかできて気分すっきりです。午後は、パソコンのお気に入りを整理しなおしたり、部屋を片付けたり、フットバッグの練習、ギターの練習などをして過ごしました。夕方から出かけて、ビデオを借りて、マクドでマックシェイクをすすりながら読書と、まったくもってリラックス。夜は阪神戦を観て、借りてきたビデオを観て、今、日記を書いている次第です。

こんなにゆっくりできたのは久しぶりで、逆に「何かしなければ。」と思ってしまうほどでした。で、思ったのですが、「何かしなければ。」と思ってしまう気持ちが、時間の進みを早く感じさせている原因ではないかと思いました。本当に、心がゆったりしていれば、そんなに時間の流れは気にならないものなのに、「ああ、もう11時。あれせなあかん。」とか、「ああ、もう5時。これやってない。」とか考えると、本当に時間とやることに追われる感覚になり、時間はいくらあっても足りなく感じてしまいます。

世の中、どんなにあがいてもやらなければならない事ってあるものです。ただ、それをどのような気持ちでやっていくかで、時間の進み方が変わるのかもしれません。良くビジネスマン向けの自己啓発本にありますが、仕事を楽しんでいる人は周りから見て多忙そうでも、本人は全然忙しさを感じていないそうなのです。楽しんでいるのでしょうね。楽しい時間は、後から振りかえるととても長い時間に感じます。心がしっかりとその瞬間瞬間の楽しみを感じているからでしょう。焦ると、瞬間瞬間のことではなく、「もし…」のことしか考えられなくなりますもんねえ。



2003年08月01日(金) 岡山かなりや学園

今日は、岡山にある難聴幼児通園施設「岡山かなりや学園」という施設に見学に行ってきました。難聴の新生児スクリーニング検査など、難聴教育では珍しい試みを行っているところで、色々とためになるお話も聞けました。

難聴というと、恐らく皆さんは「耳が聞えない。」ということをとっさに思い浮かべられるでしょう。その次に来るのが「手話」や「補聴器」などのキーワードでしょう。しかし、生まれながらにして難聴がある場合、ただ聞えないという問題以上に大きな問題を抱えているのです。どういうことかと言うと、こどもは五感のすべてを使って外の世界を感じ取り、それを栄養にして様々な発達を遂げていくのです。知的な発達、体力的な発達などです。

耳が聞えないということは、一つの感覚を奪われたわけですから、聞えるこどもとはやはり違う成長の仕方をしていきます。例えば、音が聞えないことから、発音がうまく習得できなかったりします。ことばだけの問題ではありません。やはり、五感の一つが弱いために、社会性を獲得していく段階でバランスを失う事もあり得ます。社会で生活していくために、様々な特別な教育をしていく必要があるのです。

言語聴覚士は、こうした聴覚障害やこどもの発達を総合的に観ながら、医療との連携によってこどもの療育(医療+教育)を行っていきます。今回は、こどもの施設でしたが、様々な部分で大人へのリハビリテーションとも絡んでいて、大変ためになった見学でした。ちなみにこどもへのリハビリテーション(Rehabilitation)は、ハビリテーション(Habilitation)と言われます。大人は一度獲得した能力を再度(Re)回復させていこうという意図がありますが、こどもの場合は生まれながら障害を持って生まれてくるわけですから再度(Re)という考え方が無いのです。

なかなか世間一般にこうしたリハビリの世界を知ってもらう機会がないんですよね。このホームページで少しずつ紹介して行きます。



2003年07月30日(水) スキューバ始めたい

なんだか、沖縄の話ばかりを書いている気がしますが、まあ、いいでしょう。とてもうきうきわくわくしながら生活できているのは沖縄のおかげなので。

昨日、試験が終わりました。これから学生ならではの夏休みが始まります。でも、一応実習に向けての勉強を開始しようと思っています。やはり、実習で大きな成果を得たいので、基本的な知識や技術のことで無駄な時間をできるだけ減らしておきたいのです。自分でできる事、本から学べる事は、実際の現場では本当に些細な問題なのでしょうけれど、その些細な問題がわかっていないがために、本当に知るべき事、体験すべき事を見逃してしまう可能性があるのです。基本は疎かにしないこと。すべてに通用することでしょう。

勉強はするのですが、せっかくの夏休みですから、夏休みらしいこともしたいなあと考えています。お金との相談になりますが、できたらスキューバダイビングのライセンスを取得したいなあと思っています。まあ、沖縄の影響ですね。スキューバーのライセンスがあれば、いつでももぐれる環境な別けですからね。せっかく目の前に広がる海をただ陸から見ているだけではもったいないですからねえ。これも就職先があればの話しですけれども。

テストが終わったわけですが、なんとも試験とは無駄な感じがして仕方がありません。何のためにテストがあるのかはもちろんわかっていますが、それがどうした?という感じが拭えません。テストで良い点を取るための勉強なんて、ほとんど現場では役に立たないのになあと思うと、切なくなります。ま、ともかく今回はすべての科目で適当にやってそれなりの点数が取れると思います。試験なんて損なものなんですよね。ん〜、終わっても満足感なしです。

本日、甲子園に阪神vs横浜を観に行ってきました。



2003年07月28日(月) いつか答えは出る

沖縄に気持ちが向き始めてから、精神的にとても調子が良いのです。今の生活に一つの大きな目標ができたからだと思います。でも、それだけではなくて、なんとなくですが、自分らしさを活かせる生活とは何かという事がわかった喜びもあるのでしょう。

小中高とどちらかと言うと泣かず飛ばずの人生で、勉強ができるわけでもない、運動もずば抜けているわけでもない、受験も大して成功しなかった、充実感を感じた生活は人生の中で1年くらいしかありませんでした。本当は色々な人生があって良いはずなのに、なぜか窮屈な人生を歩んできたような気がします。周囲の人の目であったり、学歴であったり、そうした外部に求めた価値観が私を窮屈に感じさせていたのでしょう。

その窮屈さから飛び出して、自由な環境で自分らしさを伸び伸びと出せたのが、オーストラリアでの生活でした。日本で染み付いた学歴志向からだけは、なかなか抜けきれずに、日本でも大学に行き直しましたが、素直に自分らしさを出せる生活ができたオーストラリアでの経験は、以降、私の強烈なアイデンティティを生み出しました。ただ、そのアイデンティティが強烈であったがために、日本では、また、そのアイデンティティが窮屈な檻の中に押し込められた感がありました。

これまで感じてきた何か判然としないモヤモヤ感は、こうしたアイデンティティの行き場所の無さだったのではないかと考えるのです。私が私らしさを出せる環境をさがすこと。そうした視点を持てたことは非常に大きな1歩です。沖縄がそうした環境かどうかはまだわかりませんが、自分の人生において何が大事なのか?それを考えつづけたことは無意味ではありませんでした。捜し求めていた答えなのかどうかは、これからわかるでしょう。ただ、探していなければ決して見つからなかった道なのです。いつか答えは出ると信じること、大事ですね。



2003年07月27日(日) 沖縄に住みたい(2)

生活の豊かさを求めて、私は沖縄に移り住む事を真剣に考えています。

こんなところに住めたらいいなあ〜。そんな気持ちを持った事はありませんか?私は常日頃から、そうした思いを色々なところに持っています。例えば、5年のオーストラリア在住中に2年間滞在したブリスベン、最高でした。残りの3年を過ごしたウーロンゴン、海山に囲まれた楽園でした。交換留学で訪れたカナダのバンクーバー、寒い冬でしたが海と山に囲まれたすばらしい環境でした。この4月に訪れたタイのバンコク、決して美しいとは言えない環境でしたが、人々が自由に自分らしさを出して生きている姿は心に大きな衝撃を受けました。

でも、海外に移り住む事はたやすい事ではありません。沖縄に移り住む事も、決してたやすいことではないでしょう。恐らく、オーストラリアやカナダとはまったく違う文化ですし、同じ日本とは言え、様々なカルチャーショックを受ける事でしょう。でも、それを凌駕するような海や山や空があり、豊かな時間が流れる中で自分に正直になれる文化がそこにあります。ビーチに行くだけでエンターテイメントなのです。クレジット会社のCM風に言うならば、「ビールのつまみになる空と海、プライスレス。」なのです。まさに、お金で買えない価値が沖縄にはあるのです。

ある意味、私は都会生活の落伍者です。競争は嫌だし、欲もそんなに無いし、派手に遊ぶ事もありません。ゆっくりした時間と、おいしいお酒と食べ物、そして楽しい仲間とのひとときがあれば充分に幸せを感じる事ができます。それでいいではないか?いい意味で開き直ることにしたわけです。



2003年07月26日(土) 沖縄に住みたい(1)

沖縄に就職しようと真剣に考えています。沖縄の本を買い込み、沖縄のサイトを探しまくり、沖縄の友人に連絡を取り、沖縄への実習を先生に訴え、就職担当の職員の方にも沖縄を志望に入れてくれと頼むなど、前準備を進めています。なぜ沖縄か?これまでこのサイトで沖縄などという言葉を出した事があるのは、2001年12月28日(金)の日記以来です。

沖縄との縁は、私が中学生の頃からになります。父親が転勤で沖縄に住んでいた事があり、その頃に何度も沖縄に足を運びました。それからも沖縄を訪れた事が何度かあります。中学生の頃の沖縄の印象は、「なんか違う国みたいだ。」というもので、あまり好印象ではなく、特に沖縄への憧れを抱いた事はありませんでした。

私が沖縄を強く意識するきっかけは2つあります。一つはオーストラリアで5年住んでいたということ。それと、もう一つは最近訪れたタイです。

私の今の自我が作り上げられたのはオーストラリアでした。空、海、人々、そういった雰囲気の中で伸び伸びと自分らしさを発見し、育めたのはオーストラリアという環境があったからなのです。そうした今は感じない環境の豊かさを再び与えてくれそうなのが沖縄だと感じています。タイでは、日本での生活で忘れた人間らしい生活というものを目の当たりにしました。物質的な豊かさではなく、本当の意味での生活の豊かさを実感できる人生を送れる環境をタイに見ました。タイに行ったときに、「ん?沖縄の雰囲気に似てる。」と感じてから、沖縄の存在がずっと頭の中にあったのです。

では、明日は沖縄に私が求めているものをもうちょっと具体的に書いてみますね。


 < 過去  INDEX  未来 >


T [MAIL]

My追加