ここには実習の内容は書きません。となると、他に書くことがあまりないんですよねえ。
実習では観察記録というものや実習日誌というものを毎日書かなくてはいけません。書かなくてはいけないというよりも、自分のためにも記録に残しておくことが望ましいのでやるわけですが、普通、みんな手書きで書きます。でも、私は面倒臭いし、字が汚いので、ノートパソコンにカタカタと打ち込んで作ります。
外国ではこの手のレポートというのは手書きはだめで、必ずタイプが必要なのですが、日本ではタイプよりも手書きという先生が少なくありません。書く側にすれば、パソコンでタイプするほうが便利なんですよね。もちろん、パソコンより手書きの方がやりやすいという方も多いのは事実ですが。
実習中は本当に勉強以外にすることがないと言っても過言ではないでしょうね。今日も、食事の時にテレビをチラッと見た程度で、後は勉強してました。せっかくの臨床ですからね、得られるものは得ておきたいと考えています。先は長いので、気合入れすぎず、抜きすぎずでやっていきます。
何とか、エアーエッジでつながるようになりました。部屋の位置によって電波が入るところと入らないところがあるのを発見。契約したばかりで解約するのも癪に障るなと思っていましたが、何とかなりました。昨日は店員さんの悪口書いてしまいましたが、店員さんは正しかった。ごめんなさい。
さあ、いよいよ明日から実習がスタートします。別に先生によく思ってもらおうと思っているわけではありませんが、全体を見直ししています。臨床に出ると、これまでの知識がふっとぶような場面に遭遇するのでしょうけれど、やはり基礎知識は基礎知識。ないに越したことはありません。しかし、完璧といわれるまでの勉強はしていないので、やはり不安。緊張の夜なのです。
今朝は桂浜まで行ってきました。家からバスで15分ほどのところなので、すぐです。坂本龍馬の像を見て、桂浜を見て、ん〜満足。桂浜、非常にきれいなところでした。天気も良く、最高の景観でしたよ。
今日は、もう少し復習をして、明日に備えます。さあ、楽しむぞ。
実習先の高知に到着しました。これから一ヶ月半ここでがんばります。
生まれて初めて訪れた高知は、言葉は通じても勝手がわからず右往左往。路面電車やバスを乗り継ぎ、ようやく宿泊先に到着。なかなか刺激的な一日でした。
それにしても、ここにもたくさんの人々が住んでいて、それぞれが生活してるんだなあと思うとなんだかうれしくなってきます。初めての土地は楽しいですね。
ネット接続のためにエアーエッジを契約したのですが、なんと電波が届かない!私の確認不足もありますが、契約の時は大丈夫ですと言っていた店員、最悪のサービスです。
しばらく携帯から更新しますが、何とかネット環境を整えたいですね。
実習直前ということもあり、なかなかサイトに向かう余裕もなくなってきました。あれもしなければこれもしなければと思い始めると、何か余裕を持って考えるということがなかなか難しいものです。明日、荷物を発送し、月曜日に出発します。高知県で六週間の実習です。実習中も余裕がある限り更新していきたいと思っています。高知県での実習が終わってすぐに沖縄で四週間の実習がありますので、十二月中旬まで落ち着きませんが、できるだけ頑張ります。
実習は、楽しんでこようと思っています。どのような先生について実習を行うのかわかりませんが、自分らしさをなくしてまで頑張ろうとは思いませんし、自分のペースで楽しんできたいと思っています。もちろん、患者さんに楽しんでもらえることが第一の条件ですね。患者さんが喜べば、私も嬉しいし楽しい。患者さんと私が楽しければ、先生が何と言おうと構いません。先生の言う事が正しいと思えば素直に受け入れるし、違うと思えば受け入れません。まあ、知識に関しては知ってるか知らないか?の二つに一つですから、知るように心がける必要はありますけどね。
8月から土日祝日を除いて、毎日平均4時間ぐらい勉強してきましたから、後は実習で机上では学べないことを学んできます。
相田みつをさんにはまっています。
前から知っていました。これまでさほど興味はなかったのですが、古本屋で立ち読みしていた時にあることばに心動かされて、まとめて購入し読み始めました。そのことばがこれです。
あとじゃ できねえんだよ なあ いまのことは いましかできぬ
いまが 大事
−相田みつを
私は稚拙ではあるけれど、これまで「ことば」にこだわってきました。そして、ことばで人を元気にできるようになりたいなとも思ってきました。実際は、自分の苦しみや不安をぶちまけるだけのことが多く、人を元気にできることなんてレベルに達することはありませんでした。
相田みつをさんのことばは決して、「こうしたほうがいい。」「こうすべきだ。」のような圧力感がありません。恐らく、彼自身もみんなと同じように悩んだり不安になったりという自分の苦しみを持った経験があるからでしょう。
彼のことばを読みながら感じること、
人の気持ちを元気にするのは、励ましではなくて理解なのだ。
ということです。
調子が出ないときもありますよ。
そういう時は、どうやって調子を出すかを考えるんじゃなくて、
調子が出ないままに過ごせばいいんです。
そういうリズムなんでしょう。
自然のリズムに合わせて気楽にいきましょう。
たばこの話です。
もう、たばこを吸う人の権利だとか、吸わない人の権利だとか、そんな話しはやめにしませんか?
例えば、電車に乗った時にあなたの隣の人が「プッ」とオナラをしたとします。しかも、それがめちゃくちゃ臭かったとします。あなたはどう感じますか?匂いフェチならともかく、「何だよこいつ、クセーなあ。」と気分を悪くするでしょう。
たばこを吸わない人間にとって、たばこの煙や、たばこを吸った直後の人の匂い、そして、歩きタバコしている人が持っているたばこの先端への警戒心は、単に気分が悪いんです。
権利とかの話しをすれば、どんな人にもどんなことをする権利だってありますよ。人を殺す権利だってある。ただ、法律で犯罪となるから、権利を使うと捕まって罰せられますけどね。でも、純粋な権利というものは、何をする権利をも含むことになります。だから、結局、権利をそのまま使おうとすれば、その行為は自己中心以外のなにものでもないわけです。他人の権利を考えていたら、自分の権利なんて使えません。だから、権利と権利は相容れないものになって、いつもぶつかる。
物事は権利という枠組みの中では解決できないんですよ。それで解決をしようとすると、必ず敗れる側がでてくるんです。そして、権利を守るが故に、誰かの権利が無視されてしまう。たばこを吸う権利、ありますよ。でもね、もうそんな権利とかいうレベルではなくて、単に周りの人の気分を害しますよというレベルにもってこれないんですかね。
今の人達、私も含めて、権利という概念に毒されていますよ。若者が自分勝手で自己中心的になってるなんてテレビで言っていますが、彼等は権利を使っているだけなんですよ。それをあおってきたのは誰なんでしょうね。資本主義ですかね。資本主義がどうかなんて良く分かりませんが、とにかく、「俺はこれをされたら気分が悪い。だから、人にはしないでおこう。」って考えが無くなってきていると思うんですよ。
価値観が多様化したのは良い事だけど、このままだと気持ちはすさむだけですよ。頼むから、「たばこを吸う人の権利。」なんて言葉を出さないで。
月は地球を中心にして周っています。地球は太陽を中心にして周っています。太陽は何だか知りませんが、何かを中心に回っています。銀河系は何だか知りませんが、何かを中心に周っています。そうやって宇宙の秩序が出来あがってるらしいです。
人間は、自転する地球の上にいます。地球に重力があるから地上にいられます。地球に重力があるのは、たぶん地球が宇宙の秩序の中で重力をもつような作用を受けているからでしょう。ということは、人間がこの地上で生活できているのは宇宙の秩序のおかげです。いや、生活というレベルを超えて、生命体がこの地球上に存在できるのも宇宙の秩序のおかげでしょう。
人間は細胞からできています。ひとつひとつの細胞が存在できるのも、重力をはじめとした何らかの秩序をベースにした科学的、物理的作用のおかげです。細胞の中にある遺伝子だってそうです。
遺伝子には人間一人一人がユニークでいられるための情報が書きこまれているそうです。私が私という人間であるのは、遺伝子のおかげと言っても過言ではないでしょう。しかも、生命体にはすべて似たような遺伝子が存在するのです。
たぶん、宇宙自体も何らかの秩序の上に成り立つものではないか?ということは容易に仮定できます。その秩序は、宇宙から銀河系に、銀河系から太陽系に、太陽系から地球に、そして、地球から私達に連鎖的に何らかの影響を与えています。そして、私からあなたへ、あなたからあなたの大事な人へ、あなたの大事な人からその人の大事な人に...
私が昔の友人にばったりと会った話しを前にしました。調子が良い時にこうして会いたいと思っていた人に会うとか、思ってもしなかったことが起こるとか、そうした偶然が世の中にはたくさんあります。私達を牛耳っている共通の秩序によって、私達をそうした偶然に引き寄せるように働いているのではないか?と考えるのは、SFの世界にとどまらない現実味を持っていないでしょうか?
何の宗教的な影響も、精神世界の影響もありません。一般的な思考回路で考えてみても、こうした何か私達の想像を超えた秩序があるということを考えずにはいられません。私達はそうしたものに生かされているのではないか?「俺は生きている。」なんて自主性を声高に叫んでみても、それは何の意味も持たないことに気がつくのです。
友人:「issyさ、前の会社辞めるの怖くなかった?せっかく安定した収入があるのにって思わなかった?やりたい事があるのからっていうのはわかるんだけど、凄く勇気がいるよな?」
私:「要らなかったよ。そんな安定なんて発想がもともとないから。俺にとっては冒険してる時が一番楽しいからね。辞めた時は不安なんて微塵もなかったよ。逆にあれもできるこれもできるって希望でいっぱいだったけど。」
友人:「勇気あるな。でも生活していくお金のことは心配じゃなかった?貯めてたんだろうけど、もし底をついたらって思わなかった?」
私:「だから勇気じゃないって。そりゃお金のことだけじゃなくていろんなことを考えたけど、人生一度切りだぜ、やりたいこやるチャンスが目の前にあるのにやらないのは損だと思うからね。金ないならはたらけばいいじゃん。学費払えないなら貯めるまで休学すればいいじゃんと思ってたよ。まあ奨学金のおかげでそうはならなかったけど。でも1歩踏み出さなきゃ奨学金だってなかったわけだからなあ。念を押すけど勇気なんてたいそうなもんじゃない。」
友人:「issyは、自分が選んだことの結果に対して、悪く出ようが、良く出ようが責任を取る各語があったんやろな。すぐに、学校に受かったからいいけど、受からなかった受かるまでチャレンジしてた?」
私:「それは分からんな。逆に考えれば受かった事は巡り合わせのチャンスだから、それをそのタイミングで掴んだだけ。それ以外のことはよう想像できんな。自分にとっての現実しか判断材料にないから。」
友人:「それは言えてるかも知れないな。その職業につく運命だったから、受かったのかも知れないって思うのはある。」
私:「その職業につく運命かどうかはまだわからないよ。やってみて、もっとやりたいことがあればやりたいことするし、天職になるかもしれないし、わからないさ。ただ受かったのはたんなる運の問題ではないと思うよ。お前は運とかツキにこだわることが多いけど、なにもないところに運やツキは生まれない。」
友人:「それは、そうやと思うよ。何も努力や積み重ねのないところには運は生まれないと思う。」
私:「でしょ?努力までいかなくてもさ、好きなことをやっていればほっといてもツイて来るんだよ。だから勇気じゃない。自分のやりたいことにいかに素直に取り組めるかだけだと思うよ。」
友人:「やっぱり好きな事をやってる人って輝いているよね。」
2003年09月20日(土) |
他人の成功話は聞き飽きた |
成功した人に自分の成功話をネタにして、「前向きにがんばる必要がある。」「不眠不休でやり遂げた。」「継続は力なのだ。」などと語られても、私にとっては面白くもなんともないんです。そういう人は、自分の好きなことに夢中になってるから、不眠不休で頑張れるんです。
世の中の成功したいのにできなくて困っている人たちの多くは、潜在意識では嫌々な気持ちなのに、それを抑圧して仕事や研究をしてるから成功するはずがないんですよ。まだ、我慢してるって自覚のある人はましかもしれない。抑圧している人たちは、自覚もないんです。
困った人たちの問題の本質は、「何をやったらいいかがわからない。」ということなんじゃないかと思います。もっと言えば「何がしたいかがわからない。」とも言えるんじゃないでしょうか。よく最近はフリーターと呼ばれる人が増えて、モラトリアムの時期が長くなっている。なんて話しを聞きますが、私は、世間一般に自立していると思われている人達、代表的にはサラリーマンみたいな人の中にもモラトリアム真っ盛りな人がたくさんいると思いますよ。実際に、私がそうでしたから。
何が問題かというと、「何かわからないけど、なんだか大きな体制に、自分は物事をやらされている。」という感覚がない人が多いということです。「なぜ、学校に行くのか?」「なぜ、勤勉は美徳なのか?」「なぜ、結婚した方がいいって言われるのか?」「なぜ、残業してまで働くのか?」「なぜ、車が来ていないのに赤信号で立ち止まるのか?」
確かに、多くの人間があつまる社会にルールがなければ、秩序は保てません。しかし、問題は社会秩序とは別の次元で起こっているのではないかと思うんです。ビートたけしが、「赤信号みんなでわたれば怖くない。」というギャグを残しました。日本人の気質を表現した社会学的にも面白いギャグだとある社会学の先生がおっしゃっていました。このギャグが意味するのは、社会集団の中における個人の責任感の希薄さです。「俺は、どうのこうのよく分かんねえけど、みんながしてるからいいんじゃないの?」こんな気持ちにさせるのが今の社会秩序なわけです。社会の秩序を守るためのルールは、個の責任を希薄にしているんです。
本当に、自分自身と向き合うためには、この社会的な秩序に常に懐疑を持ち続けないといけないのです。それを声高に主義主張として公言する必要はないけれど、少なくとも自分の中に、外から迫ってくる自分とは別の価値観と一線を引く自分らしさを強く持つことが大事なのです。もちろん、責任が伴います。「みんながしているから。」というのは、もはや自由を放棄した人達の言い訳でしかありません。
やりたいことをみつける、やりたいことをやるという自由は、個々の人間が自分の責任のもとで得られるものですよ。その自由のもとで、自然に前向きに頑張れるのだし、不眠不休になれるのだし、継続していくエネルギーが沸いてくるのです。社会なんてものに巻かれてしまわないで、自分をさらけだしていくこと、それが生きているってことだと思います。そうした人達がうまく助け合っていければ、それは外から押し付けられる社会秩序ではなくて、本当の意味での価値ある社会秩序になっていくんじゃないかな。多少、夢物語的な結論になってしまいましたが...
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