実習も後二日。
先日、かきくけこ運動の話を書きました。実習先の朝礼の一言でも言いました。これが反響が多くてびっくりしています。これだけ反響があるということは、何か皆さんの心に訴えるだけの要素を含んでいたんでしょうね。大島清さん、さすがです。
ということで、大島清さんの本の中に出ていた、もうひとつの面白い話を紹介します。これが、このサイトの名前と一緒なんです。その名も「さんかく運動」です。ただし、○×△のさんかくではないのです。三つのかくということです。ん、わかりにくいので早速紹介します。
1、汗をかく 2、恥をかく 3、ものを書く
この三つ「かく」をもじって「さんかく運動」と言われています。このさんかくを実行することで、タフな人間になれるそうですよ。汗をかくとは、運動をしましょうということですね。恥をかくとは、失敗を恐れずにどんどん前に出て行こうということですね。ものを書くとは、手を使って考えていることをどんどん表現していこうということですね。
まあ、この三つを実行することで本当にタフになれるのかどうかはわかりません。でも、二つ目の恥をかくにもつながりますが、やってみなければわからないのです。失敗もともとでチャレンジしてみるのもいいかもしれませんね。たった三つのことなんですが、三つともできてる人って意外と少ないのでは?
そういう私は、恥をかくのをちょっと避けすぎているかもしれないなあ。
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実習も残り4日となりました。ホッとした。それが今の心境です。
実習前は不安でした。自分なりに何とかなると思える程度に準備はしましたが、それでも患者さんを前に自分がどれだけのことができるのかという不安がありました。その不安が、この一ヶ月半の間に少しは解消できたかなと思います。これで、来年から臨床に出ても大きく間違ったことはしないだろうという必要最低限の自信がつきました。
ふと考えてみると、本来、自信というのは、こうした必要最低限の自信の積み重ねなのではないでしょうか。何かがめちゃくちゃ上手にできるわけではないけれど、自分なりの方針と方法でそれなりの結果を出していくということが、活動の原動力になっていくと感じます。良くも悪くも結果を出すための過程を経ること、それが大事なのではないでしょうか。
こうした必要最低限の自信ってのは心強いのです。「何とかなるだろう。ははは。」という楽天的な気分になれるのは、小さな自信の積み重ねがあるからです。決して、悪い意味での自信家ではありません。「何とかできるだろう。ははは。」とは思いますが、「俺は何でもできるぞ。うひひ。」とは思わない。その差は、「失敗してもいいじゃん。」と思える気持ちなんじゃないかなと思います。
失敗することを恥ずかしがっていては、興味ある物事に挑戦できないし、挑戦できなければ自分の興味を満足させることもできないし、自分の能力に気づくこともできないでしょう。別に、すごい能力を見つける必要はないのです。自分なりにやっていく中で、できることとできないことが見えてくればいいわけですから。
自信っていうのは、自分を信じることです。その自信は、常に自分の中で形成されていくのであって、他人との比較で生まれてくるものではないし、結果の良し悪しというわけでもない。自分は挑戦できるし失敗もできるんだ、そうして自分の能力に気づいていくんだというもっと自然な形が本当の自信につながっていくのでしょうね。
実習での訓練中に、大島清という大脳生理学者の本に書いてあったことを思い出しました。
人間の脳の活性化に有効な運動として「かきくけこ運動」というのを考えたそうです。運動と言っても、身体を動かす運動ではなく、活性化のための考え方を広めるという運動です。
どんなものかというと、「か」は感動、「き」は興味、「く」は工夫、「け」は健康、「こ」は恋だそうです。これらの五つの要素が満足いく範囲でみたされていれば、脳は活性化されるのだそうです。
さてさて、自分はどうかと考えますと、感動はあまりないし、めちゃくちゃ健康とも言えない。ましてや、恋なんて長いことご無沙汰です。興味と工夫に関しては人並み以上はあるかな。なんて考えています。
自分にとって足りない部分を意識して、できるだけ脳を活性化して楽しい人生送りたいですね。みなさんの「かきくけこ」はいかがでしょう?
連休ということで、ゆっくりしています。
ゆっくりしすぎて、やろうと思っていた症例報告も進んでいません。まあ、いいのです。そのうちやる気になるので、その瞬間を待てばいいと思っています。
やりたくないこともやり始めれば楽しくなると言われます。確かにそういう時もあります。逆に、いくらやっても楽しくならない時もあります。これは単にタイミングの問題であると思います。
「自己コントロール」、「意思の強さ」など、成功を約束するという本には、必ず出てくることばです。しかし、それができたら無理ねえやって思いませんか。それができないから悩んだり、困ったりする人がいるわけです。
ボクは、やりたくない時はやるべき時ではないし、やりたくなった時がやるべき時だと主張しています。
自分の弱い気持ちにムチ打って、やらなければならない事に取りかかる際に、あたかも自分をコントロールしている、または、自分は意思が強いと思いがちですが、そんなことはありません。結局、そういう力を発揮できるタイミングを見計らって、タイミングよく「よしやるぞ。」という気持ちになっただけのことだとボクは思います。
人間にそんなに強い意志など備わっていないというのが基本的な考え方です。人間は本来怠け者だし、面倒くさいことはしたくない。しかし、自分の意識とはまた別のところで、物事に対して適切な判断を下す能力を持っています。それを信頼すれば、やろうと思う瞬間は必ず訪れるのです。
「自己コントロール」だの、「意思の強さ」だのと、できもしないことをしようとするから、自己嫌悪に陥る人がたくさんいます。ボクもそうでした。できもしない自己コントロールを長年の間やろうとし、失敗して自信を無くし、結局、「俺ってダメだな...」と思っていました。そうした自己嫌悪から、自信喪失に陥り、多くの人が泥沼に陥るのではないでしょうか。
世の中にやるべきことなんてない、やりたいことしかないのです。
ああ、よかった。
今日、実習先の先生に薦められて「はっぱのフレディ」を読みました。「感動するわよ〜。」と言われてた割には、さらりと読んでしまって先生には不満なようでした。
人間は必ず死ぬんだし、それに対して悩みを抱いても仕方がないのですが、実習先の病院におられる高齢の患者さん達は少なからず「死」というものと毎日向かい合って過ごされています。中には「死ぬのが怖い。」とこぼす患者さんもいるそうです。そんな患者さんに、先生は「はっぱのフレディ」を朗読するそうです。
「はっぱのフレディ」を読んで感じたのは、生きるって何だろう?という疑問です。死を考えるには生を考えなければならないし、逆に、生を考えるには死を考えなければならないようです。「はっぱのフレディ」は死について語られています。だから、その反動として生とは何かを考えざるを得ない。
昨日の日記とほぼ同じことになりますが、生きるも死ぬも自然の流れの中では大したことない当たり前のワンシーンなんですよね。僕らが何気なく踏み出した一歩の足の下に、一匹の蟻んこの生と死のワンシーンがあってもおかしくないわけで、人間だって蟻んこと対して変わりやしません。お葬式だの、お墓だのと付随するもので面倒なことはあるでしょうけれど、死んだ本人は知る由もありません。
そう考えると、生に執着することも、死を恐れることも、単に気負いすぎということになります。あまり、生や死に価値を見出そうとしてはいけないのかもしれません。自然という大きな大きな視点で生死を語ることに、居心地の悪さを感じられる方もおられるかもしれませんね。確かに、これほどの大きなスケールで人間の生死を考えると、人間の存在価値そのものが危うくなることは確かです。しかし、人間の存在価値を真剣に考えているのは人間しかいないわけですから、結局、自分にとって都合の良い価値しか思いつかないんですよね。
「はっぱのフレディ」で、フレディは最後に土に返り、そして、木々の栄養となってまた新たな命を育てます。人間も同じですよね。自然の流れの中では、僕らが考えるような生死なんて基準を超えた連綿として続く「生」があるわけです。
地球そのものが生命体なのだから、恐れるべき死なんてないんじゃないのだろうか?なんて思います。
昔は、「テレビをつけるとダラダラと見てしまう。よくないなあ。」なんて日記にも書いていたものですが、最近は、そんなこと思わなくなりました。「ダラダラ見たいからダラダラ見てるのであって、別にいいじゃないか。」と思うようになりました。これまで自分で自分を縛ってきたのかもしれません。こうやって流れのままの自分を許すようになると、不思議とあせる気持ちがなくなり、過ごしやすくなります。
科学的な話ではないのかもしれませんが、物事には必然というものがあるのではないかと思うのです。成せば成るということわざがありますが、成るように成るという言い方もあります。正反対の意味を持っていますが、実際はどちらも正しいのではないかと思います。結局、心の持ちようが、すべてを決定するわけです。こう言うと、人間は心の持ちようで人生をコントロールすることが可能なように聞こえます。しかし、未来を予想できない私たちには、成せば成るとか、成るように成るとかと信じる根拠が実際はないわけです。
水の流れが自然の気まぐれならば、人間の心の流れも自然の気まぐれだと思いませんか?大きな自然という法則の中で生かされている人間が、自分の意思ですべてをコントロールするのは無理だと思いませんか?自分の気持ちをコントロールできていると思っても、実はそれはそういう流れの中にいるのであって、自分の力ではないのかもしれません。
自然体で生きたいものです。
実習先の朝礼では当番が決まっていて、誰かが毎日一言を言わなければなりません。実習生は別枠で一言を言わなければならず、数の少ない実習生は短い周期で一言がまわってきます。私も実習生ですから、二日に一度は一言の日がまわってきます。
私が話する内容は、やはりこのサイトで話をするようなことで、決して面白くて笑うような話ではなく、生き方についての話です。できるだけ、体験談を交えて単なるまじめ話で終わらないように工夫しているつもりです。
ところが、リハビリ部長がいつも私を批判します。今日なんかは「そんな考え方は早くやめたほうがいい。」などと平気で朝礼で言うわけです。失礼極まりない人でしょ?別に私の話は正しいか正しくないかを言ってるわけではなく、世の中にはいろいろな考え方があって、そうしたさまざまな視点を知ることは単に楽しいじゃないですかという話をしてるのに、変なチャチャをいれてくるわけです。
世の中にはホント変わった人がいるものです。
このところ思慮を巡らすことも少なくなり、新しい発見も少なくなってきました。本当は、世の中は不思議なことだらけで、ちょっとした視点の変換で何でも新鮮な気分で観察することができるのでしょうけれど、最近は、視点の変換なんてことを意識することさえなくなってきました。
実習をしていて思うのですが、人間は視点の変換なんてことは実は面倒臭いのではないでしょうか。一人の患者さんも視点を変えればさまざまな症状を観察することができます。しかし、毎日毎日同じ患者さんを見ていると、だんだんと見るところがなくなってきます。これ、実は見るところがなくなるのではなく、見る自分の視点がなくなってきているのです。
視点というのは、自分で新たに気が付く瞬間もありますし、本やテレビやインターネットで得た知識を土台にして出来上がるということもあります。しかし、新たな視点を持つために必ず必要なのは、新たな視点を持とうという自分の意思なんですね。でも、それが面倒くさい作業なんです。なぜならある程度固まった枠の中で患者さんを見ていれば楽ですからね。
実習も残り数週間となってきました。今後は、できるだけ新たな視点を意識的に持って観察していきたいと思っています。面倒くさがってはいけませんね。
いやはや、長い一週間です。明日も土曜日ですが午前中があります。長く感じますね。
以前のサラリーマン時代は忙しくて、長さよりも忙しさが中心でした。今は忙しさよりも、一週間が長がさが中心です。
どちらにしても、本当の意味で楽しんでいないんでしょうね。ダメだなあって毎日感じます。楽しさは歩いてこない、だから歩いて探すのです。←訓練で水前寺清子の唄を歌って思いつきました。
絶対に楽しい仕事をさがしてやります。言語聴覚士がそれになればいいけど、実習だけから判断すると今のところ楽しい度は4/10です。あんまり楽しくない。
まだ、結論を出すには早いので、とりあえず実習をがんばります。
毎日毎日、同じような1日が流れていくこと、なんか退屈です。
実習を終え、国家試験に合格し、言語聴覚士として就職すると、今の実習で体験しているような変わり映えのしない毎日を過ごすことになるのかと思うと、どうも気持ちが萎えてきます。
サラリーマンを辞めて、やりたいと思って飛び込んできた世界なのですが、実はそれほど変わり映えのしない世界に戻っていくのではないか?そんな不安がよぎります。
バカみたいな話ですが、やっぱり自分には9時〜5時の世界が性に合わないのではないかと思うのです。まっとうな世界で生きておられるかたがたには大変おもしろくない話しでしょうけれど、どうもなじめない。
乗りかかった船ですから、言語聴覚士はしばらくやっていくつもりです。でも、同時に自分にとって最適な生き方を探り続けたいと考えています。ゴールはないんですよ。モラトリアムな人生でもいいじゃないですか。
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