勉強ばっかりでつまらないです。
もう、退屈になるぐらい知識が頭に入っていれば良いのですが、まだまだ知識は入っていません。ただ、勉強という行為に飽きてきました。はは。
問題はですね、国家試験のために勉強してるというところなんですね。当たり前のことを言ってるように感じるかもしれませんが、試験のための勉強というのは基本的につまらないんですよ。点数を取るのが目的ですから。だから、できるだけ国家試験に合格することはイコール言語聴覚士としてやりたいことができることなんだからと自分にはっぱをかけるんです。
しかし、目の前にある勉強は結局は試験のための知識の羅列なんですねえ。いや〜、受験勉強らしい勉強をしたことがない私にはただただしんどい。よくみんな受験勉強なんてしますね。感心します。
どんな勉強も臨床で必ず役立つと思うようにして、自分を何とか机に向かわせる毎日です。
2004年01月24日(土) |
オークションデビュー |
実家が売られることとなり、置いてあった荷物がどんどん自分の部屋に送られてきています。その中にいろいろと忘れられないものがあるものです。
今日出てきたのは、今から七年前に購入したSchottのライダースジャケットです。知らない人にはぴんとこないでしょうかね。いわゆる革ジャンです。バイクに乗る人が着るような。これ、購入してから私は少しずつ体がでかくなりまして、すぐに着れなくなってしまった代物です。
何しろ高い買い物だったので、いつかやせたら着ようと思ってしまっておいたのですが、そのうち存在さえも忘れ、久しぶりに目の当たりにしました。しかし、これを誰かにあげると言っても私の周りでSchottのライダースを着るような方がいません。そこで、Yahooオークションを試してみることにしました。→これ
今まで興味はあったのですが、なかなか売るものがなくて「面白そうだな。」程度で終わっていました。しかし、今回は出してみましたよ。まだ誰も入札してくれませんが、見てる人は確実にいます。もう七年前の品物なんで送料分が取れれば儲けもんかなと思ってます。
前の会社で、このオークションで中古車を販売している先輩がいました。で、それを仕事にするということで会社を辞めていったのですが、今、どうしてるのかなあ。私も目覚めたりして...
今日は勉強してません。明日は頑張ります。
ちなみにライダースジャケットに興味ある方、ぜひ入札にご参加くださ〜い。
最近、どうも疲れたなあと感じていたのですが、生活を楽しんでないことに気が付きました。勉強も含めてもっと楽しまないとなあ。焦りから悲壮感漂っていたかもしれません。
それゆえに日記を書いても変な日記ばかりで、書いては消し、消しては書きで結局更新せずじまいでしたからねえ。今日も、大したこと書いていませんが、こんな調子でしばらくいきますね。
このごろ無意識にグチが出てしまい、結構周りの人に迷惑をかけてると思います。
学校に対する不満、家族に対する不満、国家試験に対する不安、就職に対する迷い、いろいろなネガティブな要素ばかりが自分の心の中で膨らみます。これではいかん!という気持ちがまたネガティブさを助長して悪循環に陥るのです。
かと言って、無理やりポジティブになる必要はないし、ネガティブさを否定する必要もないのですよ。必要なのは今ある状況を、自分の精神状態も含めてそのまま受け入れることなんですよね。分かっちゃいるんです。
そして、具体的な一歩を踏み出すことが必要なんですね。何もしないで放っておくと、頭の中でネガティブな要素がぐるぐると回りながら雪だるま式に大きくなってしまうんです。
学校に対する不満は今からどうにもこうにもできないので、無視して自分で考えてやっていくしかないので、無視です。無視。家族に対する不満はかなり積もり積もっているので、引っ越します。さっさと引っ越してしまいます。どうせ3月で引っ越すのですから。国家試験に対する不安は、勉強で解決するしかありません。時間があれば勉強します。するしかないです。就職に対する迷いは、耐えます。納得いく就職をするには迷う時期が必要です。今、迷っているからといって中途半端に答えを出す問題ではないので、迷い続けるしかないでしょう。3月までに決めなければいけないなんて自分で焦る要素を作らないことが大事ですね。
具体的に取り組んで行動に移すこと。これでネガティブから脱出だ!
さてさて、学校への愚痴をひとしきり吐いた翌日はすっきり爽快です。
最近、すこし国家試験に向けて焦りすぎている感があります。つめすぎて、どうも気持ちの面で不安定さが感じられるようになってきました。ちょっと自分で自分を追い込みすぎたかな。
今日は、早めに帰宅しゆっくりしています。
やはり追い込むにしても少し余裕を持つ必要がありますね。それにしても国家試験はとても不安なのです。今年から出題基準が少し変わるのです。出題される内容に変化は無いのでしょうけれど、どのような形で出されるかはまったく分からない。普通にやってれば大丈夫とはいいますが、普通って何さ?って感じなんですよね。どんな言葉も根拠がないもんだから。
周りの人が不安に思っている場合に、わたし自身も「大丈夫だよ。普通にやってれば大丈夫だと思うよ。」なんて無責任な声かけしてますからね。自己嫌悪もいいところです。
無理のない範囲でやるしかないですね。
今日はイライラしたことがひとつ。
学校で国家試験対策ということで模擬試験をしています。毎回、答えあわせをするのですが、模擬試験の答えで明らかにおかしいものがいくつも出てきてきました。生徒から「これおかしいですよ。」という指摘に「これは間違い。直しておいて。調べておきます。」とおろおろする先生。あきれてしまってもう笑うしかありませんでした。
こういうのって、事前に設問を先生方で一通り見て答えが妥当か否かを検討するのが普通じゃないでしょうか?生徒に指摘されて気付くということは、模擬試験はどこで作ったものなんでしょう?いつのものなんでしょう?本当に今年の国家試験に対して予想された問題が出ているのでしょうか?もう、ホントに仕事のできない学校で呆れます。
どこかから持ってきた試験を、問題と答えも確認せずに、ただ刷ってやらすだけ。それが学校の仕事なんでしょうか?私たちは年間約150万円払う立場。先生や職員の方は、年間何百万円ともらう立場。私が学校に払ったお金は、毎晩夜中まで働いて、何度も日帰りで北海道に出張に行って、無い知恵振り絞って頑張って働いた結果なんです。それがどれほどの価値かを考えもらいたいものです。リハビリとは何かを教える前に、人からお金を取って教えるとはどういうことかを考えてもらいたい。
忙しい?それが仕事だろ!って言いたいですよ。この時期に、こんなことを考えさせるということだけで学校の質が分かります。私は大金払って学校に行っているのです!そのお金の中から給料払われているのです。私が納得するようなサービスをしなさい!
就職に関しては結構いろいろ言ってくるのは、学校の威信がかかっているからでしょうか?こんなことを日記に書きたくなるようなことをしないで欲しいよ。ホントに。
国家試験の勉強で頭がいっぱいで、なかなか気の利いたこと書けなくすいません。
今日、発達心理学の勉強をしていて、面白いことが書いてあることがありました。中国では「勉強」と書くと「物事をやらされてやること。」という意味だそうです。確かに、「強いて勉める。」ということですからね。本来、勉強というは学習であるべきだったそうです。ところが、それがいつの時代からか勉強になってしまいました。
遊びと学習というのは、子供の発達を考える上で非常に大切な概念です。親や友達との遊びの中から多くのことを学びます。遊び=学習というのが、子供の発達の基礎なわけです。今、私たち大人は「何これ?」「なんで?」という質問をあまりしません。子供、特に2歳頃の子供には第一次質問期というのがあります。とにかく質問しまくる時期です。
この時期に彼らは外界のものへの興味を深めて、そして言葉と知識を増やしていきます。そうして外界を認識し始めると、今度は外界と自分との差を感じ始め、自我を育てていくのです。
国家試験の勉強をしていて常に心掛けていることがあります。それは、自分が言語聴覚士としてやりたいことを常にイメージしながら勉強することです。今やっているこの勉強は、もし自分が臨床に出たらどんな状況で役に立つ知識なんだろう?これで患者さんにさまざまな角度からアプローチできるなあとか考えることもです。
そうするとですね、楽しいのですよ。勉強が学習に変わっていくのです。これは自分にとっての遊びであるということに気付き始めてます。楽しまなくちゃ、たった一度の人生ですよ。
よく来てくださる方に質問。
今のこのサイトのレイアウトどうでしょうか?
フレームを多用するのは本来ウェッブデザイン上あまりよくないとされているのですが、二つの理由で今のような形にしました。ひとつはトップページにどうしても日記を表示させたいのですが、日記は無料のレンタルCGIを利用しているため、自分のページとして組み込めない。二つめは、タイトルバナーが意外と気に入っている。
やっぱりテキスト主体のホームページなのに、読みにくいのもどうかなあって思っています。国家試験終わったら、blogに乗り換えようかなとも考えていますので、何かご意見などありましたらぜひお願いします。メールでも、掲示板でも結構です。
「【宝地図】夢を叶えた88話」http://www.takaramap.com/ というサイトで発行しているメルマガから。
『理想の兄』 ダン・クラーク (「こころのチキンスープ」より)
これは僕の友だち、ポールの話である。
ある年のクリスマスイブのこと、ポールは、兄さんからクリスマスに新車をプレゼントしてもらった。ポールがオフィスから出てくると、街でよく見かける少年が、そのピカピカの新車のまわりを歩き回っていた。よほどその車が気に入ったらしく、ポールに話しかけてきた。
「この車、おじさんのかい?」
「ああ、兄貴からのクリスマスプレゼントさ」と、うなずきながらポールは答えた。
少年はそれを聞いてひどく驚いた様子だった。
「えっ? おじさんの兄さんがくれたって?おじさんは全然お金を払わなくてよかったの?うわあっ、すごいな? ぼく・・・」
と、少年は何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。 少年は、
「ぼくにも、こんな兄さんがいたらなあ」
と言いたかったのだろう、とポールは思った。
ところが、少年の口から出た言葉にポールは耳を疑った。
「ぼくね、おじさんの兄さんみたいになりたいなって思ったんだ」
ポールは、まじまじと少年の顔を見つめていたが、自分でも思いがけない言葉が口をついて出ていた。
「この車に乗ってみるかい?」 「本当? ウン」
車を走らせてまもなく、少年の目はキラキラと輝き始めた。
「おじさん、ぼくの家の前まで乗せてくれる?」
ポールは思わずニヤッとした。きっとこんな大きな車で帰ってくるところを近所の人たちに見せて、自慢したいんだなと思った。しかし、その憶測はまたもやはずれた。
「あそこに階段がついている家が見えるだろう?そこでちょっと待っててくれる?」
少年は車を降り、駆け足で家に入っていった。 しばらくすると家の中から、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。 少年が身体の不自由な弟を背負って出てきたのだった。 弟を階段の一番下に座らせ、車がよく見えるように弟の身体を支えた。
「ほらバディー、見てごらん。さっき言ったとおり、すごい車だろ。そこにいるおじさんの兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって。それも、まるっきりタダでくれたんだって。お前も、待ってなよ。兄ちゃんが、いつかきっとあんな車をお前に買ってやるからね。そしたら、いつも話してるクリスマスのきれいな飾りを、その車に乗って見に行こうね」
それを聞いたポールは何も言わずに車を降りると、少年の弟を抱き上げ、新車の助手席に座らせた。 目をキラキラ輝かせた少年もその横に乗り込むと、三人はドライブに出かけた。
本当にすばらしいクリスマスのドライブだった。
このクリスマスの日、ポールは聖書のみことばをしみじみ感じたのである。
「受けるよりは与えるほうが幸いである」
ダン・クラーク
「何だよ。説法かよ。」と思われる方もいるでしょうが、私は素直に心打たれる話でした。人の役に立ちたい、人に喜んでもらいたいという気持ちは与える喜びだと思います。与えるというと、どうも上から人を見下ろしたような印象になりますが、決してそうではない。与えるのは物やお金や労力でも、その裏には気持ちがある。誰にでも見境なしというのは問題ですけど。
与えることで、自分は喜びを受けるわけです。与えられた人も喜びを感じ、与えた側も喜びを受けられる。信頼はそこから生まれるのではないでしょうか?
一日中学校の図書館にこもっていると、一日がとても速く感じます。国家試験まであまり日にちが無いわりに、内容がとても多岐にわたるため、多少、焦っているのだと思います。焦らず、ゆっくり、確実にと行きたいところですが、国家試験は日にちが決まっていますので、物理的な時間が限られています。やるしかないのです。
しかし、自分でもこれだけドンッとギアチェンジできたことに驚いています。ようやく「言語聴覚士になってバリバリやりたい!」という気持ちが心の中に育ってきたのかもしれません。
この一ヶ月は死に物狂いという言い方は変かもしれませんが、生きている=勉強しているという生活でいいと思っています。そして、それを楽しんでしまいたいとも思っています。
朝から夜まで図書館で勉強して、帰宅して少し勉強して、外を歩いて、パソコンに向かって日記を書いて寝る。単調に思える生活も、向かう先が楽しみであれば楽しいのです。
何といっても、自分の意思で「やりたい。」と思ってやっていることですから、楽しくないわけがないのです。やっぱりやりたい心って大事ですね。この時期にこんな気持ちになれたのは、やはりそういう運命だったのでしょう。感謝です。
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