あふりかくじらノート
あふりかくじら



 ことばを贈ること。

たとえば、誰かが使った言葉や表現が
少しでも差別的に聴こえてしまうと、
わたしはすぐさま ぎゃんっと言って噛みついてしまう。

それがたとえば、アフリカでは「部族紛争」で
「マサイ族」で、ヨーロッパでは「民族紛争」で
「セルビア人」だったりしたときなんか
ぜったいにだまっちゃいない。

もちろん、初対面とか目上とか、社会生活を
送っていく上で立場上それをこころのなかに
おしこめることもある。場をわきまえようとはする。

二十歳くらいのころはいまよりもずっとずっと
激しかった。けっして見逃すことができなかった。

それはわたしの価値観でもあるし、ましてや他人の意識を
変えることなどできるわけもなく、する気もないが、
ただ、その瞬間になんらかのフィードバックをすることで
もしかしたら、その人の中でなんら意図していなかった
ところでの差別的な表現を省みるきっかけになるのではないか。
そういう可能性もあるのだ。
今言わないとそのひとは永遠にそのことについて考える
ことがないかもしれない、と思ってしまうからだ。

だめなら仕方がない。
でも、ことばを贈ることはしたい。
仮にも、そのひとが自分の大切なひとだったとしたら。

無意識の中で差別されたほうにたいしても、
このことで少しは失礼がないようになるのではないか。

ときどき、熱く激しく語ったりするわたしをみて、
生意気だと激しく反発するひともいるし、
すごいねぇ、と線をひいてしまうひともいる。
逆にわたしを女性として愛してしまうひともいるから困る。
(こわいー!)

この感情の激しさは盲目的で、ベッシーに似ている。
それはちょっと、恐ろしいことである。
とくにそれは、文字にしてつづってはいけない。

意図したところを汲み取ってもらうことは難しく、
そして同じような温度の答えが返ってくるかと思うと
そんなことはない。

頭の固い人間になることは恐ろしい。
誰かの言葉に、耳を傾けたいとおもう。

そして、未だにあの色に「はだいろ」という名前をつけた色鉛筆を、
わたしはいまでも嫌う。

もう一度いう。
人間の視野は、せまいのだ。

2003年12月18日(木)
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