無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月18日(金) 「よろしかったでしょうか」の謎/映画『ソラリス』/『ウエスト・ウイング』(エドワード・ゴーリー)

 いやはや、どうせなんかまたセンセーショナルな事件が起きたらアッと言う間に過去のものになっちゃうだろうと思ってた12歳誘拐殺人事件、ホントにそうなっちゃったね。
 昨17日、13日から行方不明になっていた小学校6年生の女の子4人組が無事保護された。
 「近所の体育館に行く」「スーパーに行ってくる」、親を騙して出かけてった女の子たちの行く先は、実は渋谷の某マンション。「部屋の掃除」のバイトをするつもりが、待ち構えていた男は女の子たちにいきなり手錠を掛けてこう呟いた。
 「ここに来た意味が分かっているな」
 まあ、それから何がどうなったかはよくわからないのだが(^o^)、昨日の昼、女の子の一人が逃げ出して、階下の花屋に飛び込んで助けを求めたことから事件は発覚。警察官が到着して、件の部屋に踏み込むと、残された3人は手錠姿のまま泣きじゃくっており、別室では、4人を連れ込んだ男・デートクラブ兼ブルセラショップ「プチエンジェル」の経営者・吉里弘太郎(29)が自殺していた。

 報道では捜査の輪が狭まったので覚悟の自殺をしたんじゃないかということだったが、逆じゃないかね。これまでにも何度もナニで捕まってるし、ウラで暴力団とのトラブルもあったんじゃないかということだから、自殺する前に最後のイイ思いをしたい、と考えたんじゃないか。三日間、きっと心行くまで楽しんだんだろう。
 皮肉めいた書き方をしてるからおわかりだろうが、私は今回の事件に関して、被害者の女の子たちに一片の同情もしてはいない。つか、腹立ってるよ。またぞろ「親の躾が悪い」論を口にしてる「識者」がいるけどよ、「親に嘘ついて出た」ってことは、正直に「渋谷でバイトする」と言ったら止められるとわかってたってことだろ? 「知らない人についてくな」とか、親は躾、ちゃんとしてるんだよ。
 犯人が悪いのは当然だけど、親をだまくらかしてさ、こんな見え透いた罠に引っかかる馬鹿女はナニされても文句言えねーよ。自業自得じゃん?
 小学六年生相手にそこまで言うのは手厳し過ぎるんじゃないかと非難されそうだけど、こないだの12歳の事件では、「12歳だからって容赦するな」って意見が圧倒的に多くはなかったかねえ。12歳だってオトナ扱いすべきだってんなら、今回の事件でもオトナと同等の分別や判断力をあの女の子たちに求めるべきだろう。イマドキの12歳なんて、カラダは充分オトナだ。心だけがオトナでなくていいなんて言い訳が通用するか。
 周囲の口さがない連中はきっと、あの子たちの経験したアレソレについてヒソヒソとウワサするだろうけどさ、そういうものを撥ね返すだけの根性を、これから先、あの子たちは身に付けらけるのかね? 回りのオトナがカワイソカワイソと女の子たちを「囲いこみ」でもしようものなら、かえって誰かに依存することでしか自分を守れないオトナになる危険だってあると思うが。
 コドモはいつもいつも守ってやりさえすればいいとは限らんのである。イッパツやられないと自分たちがどれだけ馬鹿だったか分らんこともあるし、オトナとして遇してやることも必要だと思うよ。
 これも念のために言っとくけど、犯人擁護する気で女の子たちの悪口言ってるんじゃないんだから、そこんとこワザと曲解しないよーに。


 『言語』8月号に、「世相語」としてついに「よろしかったでしょうか」が登場。ついにこの言葉も関東に進出したと見える。
 ファーストフードやファミリーレストランのマニュアルにそう言うように書いてある、とのことだが、さてホントなんだろうか。しげもバイト先のマニュアルにそんな言葉遣いは書いてない、と言うし、本当にマニュアルがあるのなら、全国一斉、同時期に使われてもおかしくないはずだ。タイムラグが存在しているのはおかしい。
 4年前に「よろしかったでしょうか」を検索にかけたら殆どヒットしなかった。今は4千件以上のヒットがある。そのルーツとして、「北海道の居酒屋チェーン」を挙げていたサイトもあったが、それでは東京をすっ飛ばして先に九州に伝播した理由が解らない。
 「大手ハンバーガーチェーンの各店の店長がアルバイトに客の注文をしっかり確認するよう指導し、『ご注文は××でよろしかったでしょうか』という接客敬語を口伝えで教えている」などと説明しているところもあるが、マニュアルもないのになぜそんな言葉遣いを徹底させられたのか、これも納得の行く説明にはならない。。マニュアルがなく、「『よろしかったでしょうか』は使わないように」と指導されているはずのしげの店でも、しげ以外の店員さんはこの「よろしかったでしょうか」を使いまくっているのである。
 学校の英語教師の能力不足のせいだとする説もある。英語などでは、過去形や仮定法を使うことでていねいな言い回しになるという表現があるのだが、バカな英語教師は、仮定法過去だろうがていねいな依頼の文だろうが、動詞が過去形になっていればなんでもかんでも額面通りに過去形で訳してしまうのだとか。つまり、“Would you mind opening the window ?”(窓を開けていただけませんか?)という英文を、「窓を開けてもよろしかったでしょうか?」と訳し、それを聞いていた生徒が、日本語でもそうした直訳的な表現をし始めたのではないか、ということなのだが、それだとこの表現がなぜ日常会話では使われず、ファミレスなどを中心に広がっているのかを説明できない。 
 何かの意識の変革がどこかで行われて、それが人々の心を捉えて伝播していったに違いないのである。その意識の変革とは何か。
 客が違和感を感じるのはこの語句の過去形の部分だけである。なぜウェイトレスが過去形を使うかと言えば、それは客の注文を自己確認しているためである。そしてそれをそのまま客に投げ渡してしまっているのである。「今の注文で間違いなかったかな」という自分の心の中での確認と、「以上でよろしいでしょうか」と客の確認を求める行為とが、合体してしまったことで起きている失敗なのだ。ギャグマンがによくある「心の中で思っていることをつい口に出してしまった」と同じなわけだ。自我肥大が起きると、意識のコントロールができなくなり、思っていることをブツブツ口にし始める神経症があるが、それと同じことなのだ。
 何気なく聞きのがしてる人も多いかもしれないけれど、お客さん。アナタすごく気持ち悪いことされてるんですよ。

 私がこの言葉を耳障りに感じ出したのは3、4年前である。その当時、東京でそんな言葉遣いしてる店員やウェイトレスがいるのかどうか、グータロウ君に聞いてみたが「全然聞かない」とのことであった。ネットで問いかけてみたこともあったが、そのとき寄せられた回答では、「東北の方では使われている」であった(北海道や東北地方の一部では、前提のあるなしにかかわらず「はい、××でした」のように「タ」形を用いることで丁寧さ(あるいは婉曲)を現す方言があるとのこと)。
 東北と九州で同時期に発生した言葉が、じわじわと東京のほうに伝わっていったというのだろうか。方言周圏論にも逆行している。さっきは「日常会話では使われない」と書いたが、徐々に普段の会話でもこの表現を使い始めている人間も老若に関わらず生まれ始めているのである。全くいったい何がどうなっているというのだろう。


 夕方から土砂降り。
 仕事帰りに、たまには贅沢に食事をしようと、「牛肉のサトウ」で食事。どれくらい贅沢かと言うと、二人で食事をするとお札が一枚吹っ飛んじゃうのである。なんたって松坂牛だから。
 味は満足だったが、ここのウェイトレスさんもやっぱり注文取ったあと、「よろしかったでしょうか」と聞く。一瞬で興醒めしてしまうが、妙なことにそのあと「サラダバーなどはよろしいでしょうか」と聞く時にはちゃんと現在形になっているのである。過去形と現在形がチャンポンになっているというのは、もしかしたらやはりマニュアルに何か記載でもあるのか。
 だんだん、「よろしかったでしょうか?」と聞かれたら「よろしくないです」と返事してやりたいヒネクレた気分になってくるのである。
 ともかくコトここに至っては、声を大にして言いたい。
てめえの思いこみを客にぶつけるんじゃねえ。凸(-~~- )


 しげはそのまま仕事へ。
 私は今日が公開最終日なので、AMCキャナルシティ13まで一人で『ソラリス』を見に行く。

 人類が遥かな宇宙にまで進出した未来。
 心理学者のクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)は、妻レイア(ナターシャ・マケルホーン)を亡くし、孤独な生活を送っている。
 そこに突然、彼に「惑星ソラリスの調査」を依頼する男が現れる。男はソラリスの開発会社からやってきたのだが、既にソラリス調査のための宇宙ステーションに派遣されていたチームのリーダーでクリスの友人、ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)からの通信ビデオをクリスに見せる。
 「助けに来てくれ」。何の事情説明もせず、それだけを求めるジバリアンの姿を見て、クリスは調査を引きうける。
 宇宙ステーション「プロメテウス」には、二人の男女がいた。科学者のスノー(ジェレミー・ディヴィス)とゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)。ジバリアンは自殺していた。船内にはあちこちに血痕が点々と残っていた。 
 残された二人は自室に引きこもり、この船で何が起こったのか、容易に語ろうとはしない。
 「アンタにもアレが起きたら分るさ」。嘯くスノー。
 「アレとはなんだ?」
 「“お客さん”(ヴィジター)だよ」
 どこかから、子供が走り回る足音が聞こえてくる。宇宙船の中に、なぜ子供が?
 その夜、クリスは悪夢にうなされる。その悪夢の彼方に映る人影。目を覚ましたクリスの前には、“お客さん”が微笑を浮かべて立っていた……。

 スタニスワフ・レムの傑作SF(人によってはこれを世界SF小説のベストワンに挙げる人もいる)『ソラリスの陽のもとに』をアンドレイ・タルコフスキーが映画化(『惑星ソラリス』)したのは1972年。日本公開はもちっと遅れて1977年。私はこれを劇場で見てもうぶちのめされた。
 もちろんそれまでにもテレビでは『ミステリーゾーン』や『宇宙大作戦』『謎の円盤UFO』『プリズナー�癸供戮曚�、数多くのSFドラマを見ていたし、ウェルズ、ヴェルヌなどのSF小説の古典からそろそろブラッドベリやブラウンに移行しつつ、星さん小松さん筒井さんと言った日本のSF作家の作品も片っ端から読んでた時期なので、SF的発想に自分では「慣れていた」つもりだったのだが、それが奢り高ぶりというものであった。これで私は完全にSFに「かぶれ」てしまうことになる。原作本も私の「無人島に1冊だけ本を持っていくとしたら」の候補の1冊となった。
 私が『スターウォーズ』にハマらなかったのは、『惑星ソラリス』を見たあとでは、あんなのはガジェットをちりばめただけのもので、中身はただのお伽話、まるでSFとは思えなかった、ということもある。実際、本気で「SF」してる作品は、単に小道具だけではなく、その物語もコンセプトも含めてSFしてるものなのである。
 だから『アルマゲドン』なんて物語自体はSFでもなんでもないんだから、アレをSF映画として云々したって無意味なんだってば(-_-;)。
 そういう事情があるので、今回のスティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演によるリメイクには正直、不安を隠しきれなかった。タルコフスキー版を超えられるとは到底思えなかったからだ。
 結論から言えば、私はこれはこれで充分に満足した。
 同じ設定、同じストーリー展開でありながら、映像が安易に旧作の追従にも反発にもなっていない。確かに旧作を彷彿とさせるシーンも多々見られるが(例えば冒頭、ジョージ・クルーニーが降る雨を見続けている様子は、『惑星ソラリス』でドナータス・バニオニスが川を見つめているシーンとシチュエーションとしては同質である)、それはソダーバーグ監督自身の原作へのアプローチとして改めて映像化されたもので、不自然さがない。
 カットバックが乱雑に繰り返される(普通は現実のシーンと回想のシーンは交互に入れ代わるものだが、時には回想が連続する)ことによって、現実と回想との境界線が曖昧になっていく。観客は何度か混乱に陥るが、それがラストシーンの伏線となって、実に効果を上げている。「映像の文法」が「主題」とこれだけ密接に係わり合い、効果を上げている例はめったにない。それを見抜けなきゃ、「オマエは映画を見る目がない」と言われたって仕方ないよ。
 脚本・撮影・編集・監督と一人四役をこなしたソダーバーグ監督、旧作の呪縛に捕われずにきちんと自分の映画を作っている。旧作とどちらが上かを語ること自体ヤボに思えるくらいだ。
 ジョージ・クルーニーも、あまり私はこの人の演技を買ってはいなかったのだが、感情の抑制されたいい演技をしている。
 これ以上の批評はどうしてもラストに触れるしかないのだが、友人から「絶対書くな」と言われているので、残念ながら省略(^o^)。前作とは違った結末のつけ方をどう評価するかで賛否が分れるところだろうが、私は可である。
 タルコフスキーに強い影響を受けた日本の某映画監督の某作品とソックリになっちゃったのは、これも同族進化というやつだろうか(^o^)。


 エドワード・ゴーリー『ウエスト・ウイング』(河出書房新社・1050円)。
 1963年製作、ゴーリー氏は38歳、これが14作目の絵本になる。この年には代表作の一つ、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』ほか、5冊の絵本を出版しており、最も油の乗り切った時期の作品と言えるだろう。
 いつもの翻訳者、柴田元幸氏の名前がないがそれはそのはず、これは純然たる「絵本」で、文章はついていない。説明を排除して、物語は読者の想像に任せるという方式なのだけれど、何しろ作者がゴーリー氏なものだから、これがもう怖い怖い。子供が普通の絵本と間違って買っちゃったら、悪夢にうなされそうだ。もっともそれはゴーリーの他の絵本についてもそうなんだけどね。

 原タイトルの“The West Wing”は「西棟」の意味。もっともみなさんご承知の通り、ホワイトハウスの別名も「ウェスト・ウィング」であるから(そういうタイトルのドラマもあったね)、そのあたりのニュアンスも含めているのかどうか。この西棟で起こった出来事を象徴的な30枚の絵にしたものが本書。絵本と言うより、「西棟」をテーマにした絵画集と言ったほうが妥当かも。

〔表紙〕 黒雲の漂う空を背景に、切り石で出来た西棟の一部が描かれる。整然と並ぶ窓はいずれも暗く、中は見えないが、左下の窓だけはなぜか石で固められている。
〔見返し〕右下に小さく、しゃれこうべを種のように撒く蝶ネクタイの少年。
〔扉絵〕 「西棟」と表札のかかった入口に入って行く人物。中は暗く、人物の姿も足元しか見えず、あとは影に隠れている。
1、カーペットの敷かれた床。カーペットの模様は一つ一つが人の顔のようにも見える。そしてどこかに伸びている階段。
2、扉を開けて部屋に入って来る女。福は黒く喪服のようでもある。
3、誰もいない部屋、窓の下に靴が三つ、落ちている。
4、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉も開いている。
5、壁にかかった絵。黒雲に覆われた空の下、森の向こうに丘があり、道が伸びている。丘の上には墓石が小さく一つ。
6、椅子に座り、杖をついて瞑想する禿頭の老人。シルクハットが床に置かれている。
7、壁に建てかけられた梯子。
8、床に置かれた荷物。
9、水差しを盆に載せて運ぶメイド。
10、部屋に置かれた姿見。扉が映り、誰かが裾だけ見せている。
11、水没している廊下。
12、手すりの前で、髭を生やした全裸の男が背中を向けている。
13、宙を舞う2枚の布。
14、部屋に置かれた彫像。
15、床に倒れている男。
16、階段と窓。窓は塗りこめられている。
17、部屋に落ちている一枚の紙片。窓からそれを覗きこんでいる白い影。
18、廊下の陰から覗いている四本の棒。椅子が倒れているのだ。
19、廊下を歩く全身包帯のミイラ。
20、床に置かれた丸太。
21、人の形をした壁の染み。それは宙に浮いているようにも見える。
22、ひび割れた床。
23、天井のフックからぶら下がっている黒い「人形」。内臓のようにも見える。
24、床に置かれた唐草模様の壷。高さはドアほどもある。
25、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉は閉ざされている。
26、床を四つ足で歩く、小さく奇妙な生き物。蜥蜴のようだが顔は鳥のよう、体にはセビレと縞模様がある。
27、テーブルに置かれた石。なぜか石の表面は一部が切り取られたように白い。ゴーリーが白い絵の具で塗り潰しているのである。
28、床に座って向こうを向いている少女。
29、壁紙が3ヶ所、破られている。
30、宙に浮かぶ蝋燭。
〔裏表紙〕広い空の下、左下に小さく西棟。窓が一つ、塗り固められている。

 さっき「怖い怖い」と書いたけれども、17の白い影や、19のミイラのように、直截的で怖いというよりはおかしみを感じてしまう絵もある。26の小動物は『うろんな客』にも通じるゴーリーワールドのマスコットの一匹で、かわいらしいくらいだ。12の裸の男など「ナニしたあとかよお前」と突っ込みたくなる(^_^;)。
 こうして見ていくと、折り返しに「とほうもなく怖い作品」と惹句が書かれているのが、「ホントにそうかあ?」と疑いたくもなる。ゴーリー氏、案外ワザとやってるのではないか。
 ホラーとコメディは紙一重だが、あえて滑稽の部分に足を半歩踏み入れてコントラストを取り、他の絵の恐怖を弥増す効果を狙っているように思う。
 4と25が対照的に描かれているのも上手い。総じて、思わせぶりになりすぎない程度の、絶妙なバランスの絵が多い。中でも私が一番好きなのが18の椅子の絵だ。これなんか額に入れて部屋に飾ったら、たとえどんなにハートウォームな雰囲気の部屋でも、それだけで一気にダークなムードに包まれること請け合いである。まあやるやつぁあまりいないだろうが。
 ゴーリー氏がこの世に残した作品は120冊。日本に翻訳されているのはまだその膨大な作品群の一部に過ぎない。これらの本がもっと売れに売れて、次の作品を読めるまでの間隔が縮まってくれると嬉しいのだが。

2002年07月18日(木) 芸能界の宿便/『名探偵コナン』38巻(青山剛昌)ほか
2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか



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