無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年06月02日(水) 年齢は関係ないのだ。

 昨日起きた、長崎県佐世保市の大久保小学校で、6年生の御手洗怜美ちゃんがカッターナイフで首を切り付けられ殺害された事件の続報、今日もニュースの半分以上を締めている。
 まず、全ての報道がそうではないのだが、いくつかのテレビニュース、新聞などが「殺された」と言わずに「死亡した」とか、まるで怜美ちゃんが死んだのは偶然の事故で、「うっかり死んじゃった」ような表現をしていることが気になる。これは、あまりに事件が陰惨なので、「表現をやわらかくした」ということなのだろうが、やはり「偏向報道」であり、一種の「情報操作」であることには違いないと思うのである。
 いつもいつも思うことだけれども、一見、加害者の人権を擁護するように見えるこういう偽善的な報道が、かえって、世間の加害者に対する反感を募らせることになると、マスコミはどうして気付かないのだろう。「殺された」と言えば、当然、「そこまで言わんでも」という反応や、「使者に鞭打つ行為である」という批判は寄せられるだろうが、反感は生まれない。事実を隠蔽するような報道は、かえって視聴者の感情を鬱積させたり、ヒステリックな反応を牽引したりしかねない。事実は事実として冷徹に報道したほうが、よっぽど視聴者は冷静でいられると思うのだが、マスコミはあえて視聴者の神経を逆撫ですることを狙っているのだろうか。

 殺害の動機についても、少しずつ、情報が流され始めた。昨日の段階では、私は「痴情のもつれだろう」と書いたが、一応、当たってはいたようだ。しかし、私が想像していたのよりも、ずっと幼稚で、馬鹿馬鹿しい動機だった。
 「インターネット上で、自分のことについて怜美さんが書き込んだ内容が面白くなかった。いすに座らせて切った。殺すつもりだった」……何なんだろうね、これ。
 実のところ、「痴情のもつれ」と書いたのには、「せめてそうであってほしい」という「願望」もかなり混じってはいたのだ。人ひとりの命を奪ったのである。それがあまりにもガキっぽい、あまりにも下らない動機では、救いがないではないか。……でも、やっぱり救いはなかったのだ。
 けれど、現実には「こんなことで人を殺すかよ」という殺人事件は、大人の間でも腐るほど起きている。幼児化した社会で幼児的な犯罪が起きるのは必然なのだろう。
 なのに、マスコミの報道の仕方は、相も変わらずの「責任転嫁」である。未成年の犯罪の場合はたいてい「親」や「教育」、「マンガ」や「ゲーム」、「アダルト本」など、「犯人以外のところ」に原因を求めよう、求めようとして、「標的」を探し回るものだが、今回は早くも「ネット危険論」が怒涛の勢いで報道され始めたのだ。自宅ばかりでなく、学校や塾などに、パソコンネットが普及していること自体が悪い、みたいな語られ方までしている。ネットを散々利用しているマスコミがそれを言うのかよ。近視眼的で一番幼児的なのはマスコミである。
 もうねえ、今更また何度もこれまで書いてきたことを繰り返すのも何なんだけれどもねえ、危険なのは「ネット」とかではなくて、「人間」なんだってば。「環境が悪い」って言い出せば、全部が悪くなるんだよ。山ゴモリしてカスミでも食って生きろとでも言いたいのか。

 私も、これまでにもこの日記で、誰かの批判をしたことは腐るほどある。「なんだあいつらは猿か」と、口汚く罵ったことだって、一度や二度ではない。しかし、根拠のないただの中傷をしたことは一度もないし、何の覚悟もなく、言いっぱなしでモノを言ったこともない。もちろん、私が「根拠がある」と思っていたことがただの勘違いで、反論が寄せられた場合も何度となくあり、その場合には必ず謝って訂正をしている。私が反省してないと見る向きは、それこそが「中傷」である。
 翻って、ネットの掲示板などでの罵り合いは、殆ど脊髄反射的な感情のぶつけ合いでしかない。「傷つきたくない症候群」は、今やいいトシをした大人の間にも蔓延していて、「この程度のモノイイでここまで怒るか」と言いたくなるくらいに幼児的な言質が横行している。博多の「悪口文化(日常の挨拶が身内の悪口なのである)」の中で育ってきた身にしてみれば、「バカ」程度のモノイイで激昂する人間には、「あんたら、いくらなんでも苦労ってものをしなさすぎてんじゃないの?」とイヤミの一つも言いたくなってしまうのである。更に念のために注をつけておくが、私は「他人の悪口を言った人間」に対してしか悪口を言ったことはない。それなのに怒って噛み付いてくる人間は、自分は悪口を言いっぱなしなくせに、自分が言われることについては全く無自覚なバカなのである。責任感もなければ覚悟もない。
 ネットに限らず、「発言」には本人がどうあがこうと、「責任」というものが伴ってくる。その点、この日記の「無責任賛歌」というタイトルに反しているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、この「責任」というのは、人間にはどうしたって取りようのない「原罪」のようなものなのだ。
 これまでにも、「何かを書くことについては“覚悟”がいるのだ」ということを散々書いてきている。その「覚悟」というのがどの程度のものなのか、この日記を読んでる人でもピンときてない人がいるんじゃないかと思うので、改めて書いておくが、「自分の書いたことが、人をひどく傷つけるかもしれない。あるいは死に至らしめることもありえるかもしれない」「そのことで誰かから恨まれて、殺されるかもしれない」という「事実」を受け入れる覚悟なのだ。どんなに表現を抑えようと、どんなに人を傷つけまいと努力しようと、自分の書いたものが万人に受け入れられるということはありえない。どこかで、必ず誰かを傷つけているのである。そして、一度誰かを傷つけてしまえば、その責任など、取ろうったって取れるものではない。傷ついた人の心は、死んだ人間の命は、どうしたってもとには戻らないのだ(だから逆に私は、人から批判されたからと言って簡単に「傷ついたり怒ったり」はしないのである。それがスジというものだ)。
 人は生まれながらにして罪を作ることでしか生きて行けない。これは厳然とした現実である。開き直って言うのではない、人は、「心」を持ってしまった時点から、自らの罪を十字架として背負って生きて行くことしかできない動物なのだ。もしもこれまでに誰も傷つけたことがない、迷惑をかけないで生きてきたと嘯く者がいたら、その人の本性は悪魔であろう。ネットに責任転嫁しようとしている人々も、自らの罪から目を逸らそうとしている分だけ、悪魔の側に足を突っ込みかけているのである。
 ……でも誤解を招くタイトルなのは事実だからなあ、いい加減で別タイトルに変えちゃおうか。

 あまり具体的に書いちゃうと、ビビッてしまう人もいるだろうと思って、これまでは「匂わせる」程度でしか書いたことはないが、この際だから書いてしまおう。
 私は女房と結婚した時も、「こいつに殺される可能性も覚悟できるか」と自問自答し、納得して結婚したのだ。仮に、私がしげを裏切るようなことをして、しげに殺されることになったとしても、それを受け入れられるか。あるいは、しげや、我々二人の間に生まれてきた子供が人を傷つける行為を働いたとして、その償いにしげや子供を殺して、自分の身も処することができるか。その質問に「諾」と答えられたからこそ結婚する覚悟だってできたのである。突拍子もないことや過激なことを言ってるように思う人もいるかもしれないが、うちは親もそういう考えの持ち主だったし、死を常に身近に感じていた戦前世代の人の多くはそれくらいの覚悟はしていたのである。少なくとも人間と人間の絆を本気で考えるのならば、「死」を覚悟しないものは全て偽善でしかない。特殊なことを言っているわけでもなければ、威張ってモノを言っているのでもなくて、「覚悟」をすることが人としての「最低限の礼儀」なのである。

 加害者の少女にも、被害者の怜美ちゃんにも、そんな「覚悟」があったとは思えない。10歳やそこらの少女にそれを求めるのか、という意見は、そもそも人間の能力をバカにしている。小学校高学年なら、「失われた命が元に戻らない」ことなど、熟知している子供の方が圧倒的に多いだろう。たとえ相手への殺意があったとしても(キレイゴトを言うつもりはないから、殺意を持つこと自体がおかしい、とは言わない。私だって少年時代、心の中では何度も親や友人を殺している)、それを実行に移すことの恐ろしさに気付かないのならば、それはあまりに鈍感で、明らかに精神的成長に異常を来たしている。
 思い出してみたらいい、命の価値を、その重さを、あなたが最初に知ったのはいつだったか? 小学校高学年になっても、あなたはバカだったか? 殺したい相手がいたとして、実際にそれを実行し、その人がいない世界を自分が作り出すことの傲慢さに全く気がつかなかったか? 仮に残酷なマンガやゲームや、煽情的なサイト(昔はそんなものはなかったから、アダルト本でもいい)があなたの神経を磨耗させていたとしても、それ以上に命の素晴らしさを称え、どんなに無意味に見える存在にも存在し続ける価値があるのだという「教え」を訴える人や、物語はあなたの回りに全くなかったか?
 だから私は逆に、10歳も過ぎて、この程度のことで、精神のコントロールができなくなるというのは、やはりただの異常者だろうとしか思えないのである。この子がもっと大人だったなら……大人並の「痴情のもつれ」から行われた犯罪であったなら、本当に、まだしも、救いがあったのだが。できれば、事件の解明が進む中で、もっと「納得のできる」動機が判明してほしいと願うのは、不謹慎ではあるが、正直な感慨である。


 昨日治療を受けて以来、左眼が暗くなった気がする。
 仕事の休みが取れるかどうか、眼科の診療日とスケジュールが合うかどうか、調べて見たら、「今日しかない」ということに気がついた。いきなりであちこちに迷惑をかけてしまったが、予定をいろいろと変更して、午前中でバタバタと仕事を片付ける。
 1時頃、しげに車で迎えに来てもらうが、今朝までしげは鴉丸嬢のところでチラシの打ち合わせをしていたので、殆ど寝ておらず、眠そうである。けれども瞳孔を開いたら、しばらくは外を一人では歩けないので、しげには無理を頼むしかない。しげは今晩の仕事を代わってもらうことにした。申し訳ないことである。
 もうしょっちゅう休みを取るわけにはいかないから、多少痛くてもガマンしようと思っていたのだが、どうしたわけか、今日は昨日ほどには痛みを感じなかった。やはり昨日は体調が悪かったのだろう。昨日はいったいレーザーを何発撃たれたのか、数える余裕もなかったのだが、今日は三百発とちょっと撃った。けれどもこれはあくまで「予防」で、これまでに発生した飛蚊症が治るわけではないのがツライ。前の医者が「左眼も予防の必要があります」と言ってくれてりゃ、こんな苦労をする必要も、カネが素っ飛ぶこともなかったのだが。左眼が暗いのは、やはりこの「濁り」が右眼に比べて多いせいだとか。
 ともかくこれで終わり、とホッとしていたら、「2週間後にまた来てください」と言われてガックリ。やっぱり休み取らんといかんか(+_;)。


 そのあと、しげが来月の父の日に、プレゼントを買いたいと言うので、キャナルシティに回るが、お目当ての店が改装で閉店中。しげ、「オレって運が悪い?」と嘆くことしきり。
 せっかく来たんだから、と、福家書店に回って本を買って帰宅。
 晩飯はしげの手料理。昨日はおでんだったが(でもコンニャクやガンモドキに混じってタコ焼きが入っているのはどうかと思う)、今日は水餃子。水餃子のみオンリーで、実に独身男の手料理である。せっかく作ってくれてる料理だが、私が全く誉めないので、しげは随分ブスくれているが、ちゃんときれいに平らげているのである。そのあたりで私の気持ちは察してもらいたいものだ。

2003年06月02日(月) 人間みんなどこか狂ってるけどな/『るくるく』1・2巻(あさりよしとお)
2002年06月02日(日) 天動説健在/『ブレーメン�供截慨�(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか
2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)



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