無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2005年03月31日(木) |
お勤め最後の日。内容は特にない/能楽座福岡公演『能狂言』 |
最後の出勤、と言ってもたいしてすることがない。 女の子何人かとお喋りをするが、「せっかくお話できるようになったのに」と残念がられる。でも顔はそんなに寂しそうではない。しげとも知り合いの子なので、何かの折にまた会う約束をする。「しげさんと会うとコケたらはたかれるから怖い」とか言ってたが、確かに何もないところでコケることにかけては、天下一品な子であった。 同僚何人かと挨拶をして別れるが、玄関を出がけにトンガリさんとすれ違ってしまった。相変わらず目がイッていて不気味である。当然、挨拶はナシであるが、この人ともう関わらなくてすむかと思うと、こんなに心が軽くなることはない。
大濠公園能楽堂にて、能楽座福岡公演『能狂言』。 なんかむっちゃストレートなタイトルである。まあわかりやすいっちゃ分かりやすいけどな。演目は、梅若六郎・大槻文蔵による福岡初上演の能『泰山木(たいさんぼく)』、野村万作・萬斎親子による親子による狂言『川上』、梅若六郎・観世榮夫による能『竹』。 桟敷自由席なので、開演の一時間前に入場する。舞台から間に指定席を挟んでかなり距離があるが、一応、ほぼ真正面の席に座れた。もっとも開演後にのこのこ入ってくるおばさんだの家族連れが多くて、やたら視界を遮られたが。 歌舞伎も能も好きで、時間と財布に余裕があるならもっとあれこれ見てみたいのだが、1万2万は当たり前なんて料金では、ビンボー人は諦めるよりほかはない。ところが今回の公演は、これだけの一流の演者を集めていながら、わずか二千円(実はツテがあったのでさらに安かった)。どうしてこんなに安く公演できたのか、協賛がやたら入ったおかげなのか、事情はよく分からないのだが、こりゃもう見るっきゃないと何週間も前からウキウキして待っていたのだ。 お客さんはたいていが能好きの老夫婦、という感じで、中には若い女性や親子連れもいるけれども、普通のカップルなんてのはあまり多くない。隣に座っていた女性二人連れも、ちらちら聞こえてくる話によると、萬斎さんの『間違いの狂言』(シェイクスピアの『間違いの悲劇』の翻案)を見て、興味を持ったものらしい。あれは異端で、今日のは普通の狂言だから、感じがかなり違うと思うんだが、つまんないとか思われやしないかなあと心配になる。他人のこと心配したってしょうがないんだけど、つい、ねえ。 歌舞伎や能を古臭いもの、あるいは小難しいものだと考えて敬遠しがちな若い人もたくさんいるだろうが(いやもう私と同年輩でもそんなこと言うやつがいて悲しいのだが)、確かに詞章は古文だし謳い方も聞き取りにくかろうとは思うが、演者の仕草でどういう話なのか、見当はつくものである。それにたいていの能公演では詳細な解説や謡曲そのものがパンフレットとして配布されることも多いので、初心者でも鑑賞にたいした苦労は要らない。狂言はさらに解説要らずで、小学校の芸術鑑賞で狂言を見た経験のある人も多いと思う。 ただ、能を楽しむためには、「微妙な仕草」を注意深く見ることが要求されるので、漫然とテレビを見るのに慣れたような人にとっては面白く感じられないかもしれない。それに、下手な演者がやると退屈なものにしかならない能も多い。「能ってよくわかんない」と仰る方にもお勧めなのは「薪能」(たきぎのう)で、これは篝火の下で夜間に行われる能である。本来はこれが能の普通の上演形式であった。揺らめく火に照らされた能面が、動かないはずなのにさまざまな表情を見せて一種凄絶ですらある。機会があったらぜひ見てみてくださいな。
で、こんな前置きばかりダラダラ書くから日記が無駄に長くなる(苦笑)。 『泰山木』はもともと世阿弥の作。現在は金剛流の『泰山府君』としてしか残されていなかったものを、観世流の地謡の形式で復元したもの。散りゆく花の延命の儀式の最中に花を手折った天女を、泰山府君が諌める話。 「泰山府君」とは人間の寿命を司る山神であるが、名前の通り、ルーツは中国である。伝説によれば吉備真備によって賀茂家、続いて安倍家に伝えられ、陰陽道の祖神として祀られるようになったという。普通、「たいさんふくん」と読むが、舞台では「たいざんぶくん」と発音されていた。通常、二項対立で描かれることの多い天女と人間という関係の中に、裁定者としての泰山府君という「神」が介入してくる図式が面白い。ここでは天女も人間と等しく、花の美しさに惑わされて一枝盗んでいく。「花折」は能狂言の重要なモチーフの一つであるが、たいてい犯人は世俗の数寄者であるのが、ここでは天女。天女も魅了されるほどの花の美しさ、という逆説的な表現でもあろのだろう。 「羽衣」でもそうだが、天女は決して至高の存在ではない。自身の煩悩に惑わされている点では怨霊に一脈通じてさえいる。天女が至高の存在でないのと同様、天上もまた地上を統べる万能の空間ではない。泰山府君の「天井にてこそ栄華の桜」との言葉とは裏腹に、手折られた花の命を永らえさせる力とてないのである(これはつまり天女の邪な心故にであろう)。しおれた花を持って泰山府君に声もなく差し出す天女の嘆き。もはやそれはただの「女」の姿である。 能が多く現世ならざるものを扱うのは、現代人がファンタジーを好む感覚に通じるものがある。日常と非日常の交錯、異界の住人はマンガや小説中にゴロゴロしている。しかも「人間臭い」ところまで同じだ。『ああっ女神さまっ』の原点として楽しめば、能の世界も面白く鑑賞できまいか。……ってこんなこといつたら真面目な能のファンから怒られちゃうかなあ。
狂言『川上』はもちろん万作・萬斎親子の絶妙な芸で客席の笑いを取っていたのだけれども、物語自体、みょうちくりんなものである。めくらの夫が川上地蔵の霊験で目が見えるようになる。ところが地蔵は夫に「妻とは悪縁だから別れよ」と告げる。妻がそんなムチャクチャなことを言う地蔵がどうして仏なものかと夫をなじるので、夫はつい「分かった、別れない」と答えてしまう。途端に夫の目は元通りのめくらに。 昔の人が信心深かった、というのはまあ半分は本当で半分は嘘だろう。現代人も結構たくさんの人が占いだのシューキョーだのに引っかかっちゃってるのを見れば、人間のメンタリティなんて時代が進歩しようがたいして変わりゃしないのだということがよく分かる。昔の人にだって、現代人に通じる合理的精神の持ち主はいたわけで、人間を勝手気ままに幸せにしたり不幸せにしたり、そんなもんが「神だ仏だと言えるか」と憤慨していた人は当然いたのだ。手を取り合って橋掛かりを歩いていく夫婦の姿を見ながら、『川上』はまさしく「信仰の否定」の物語なのだなあと感嘆した。であって、しかもそれは「たとえ仏に本当に神通力があろうとも、そんなものは拒絶する」という強い意志がそこにあるのである。 『竹』を見てるときはかなり体調が悪くなっていたので、印象が薄い。萩原朔太郎の詩を謡曲に仕立てたということだが、どういう趣向がよく分からなかった。やっぱ能波田一様が万全のときでないと集中しては見られんわ。
観劇中に小さな余震が二度ほど。体感では震度1くらいか。しげが後で「揺れた?」と聞いてきたので「もちろん揺れたとも」と答える。別に威張っていうこたない。 もうそろそろ余震も終わるんじゃないかと思ってたところにこれだから、断層野郎も相当しつこいのである。公演が中止にならなかったのが不幸中の幸い。
2004年03月31日(水) 人の噂は何十年。 2003年03月31日(月) メモ日記�� 2001年03月31日(土) 藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|