無責任賛歌
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| 2005年05月20日(金) |
井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』 |
「朝鮮新報」の取材に応じて、映画監督の井筒和幸氏がした発言が、ネット上で波紋を呼んでいるようである(「ようである」と柔らかな表現にしているのは当然「2ちゃんねる」あたりでの論議がかまびすしいらしいのだが、ウィルスが怖いんで覗きに行ってないためである。キーワード検索するといろいろ引っかかりはするので、「いろいろ言い合ってんだろうな」とだいたいの想像はできるのだ)。『パッチギ!』で日本人高校生と在日朝鮮人の少女の恋愛を描いたことが取材のきっかけになったのだろうが、確かにその発言を取り上げてみると、一瞬、「何だこれは?」と目を丸くする人もいるだろうことは分かる。 曰く、「(日本人は)拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げた」。 これに激怒した人たちは、当然、「拉致問題は『物語』じゃない、『事実』だ!」と文句をつけているようである。実際、私が巡回している日記でも同様のことが書かれてあって、「蓮池さん夫婦や地村さん夫婦や曽我さんは幻想なのか?」とか「まだ拉致問題は解決していないのに、この発言は人間としてどうだろうか」「拉致被害者の家族は井筒監督に直接抗議せよ!」と、かなりの激昂ぶりである。 もちろん、井筒監督が本当に「北朝鮮は拉致などはしていない。全ては日本の捏造だ」と言ってるのであれば、その怒りは当然のことであると言える。しかし、当該の記事を実際に読んでみると、ちょっとその解釈はおかしい、ということに気がつくのだ。
念のために「朝鮮日報」から直接引用してみる。
> 「英国人はアイルランド問題について関心が高く、いつも熱く語り合っている。ところが、日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた。当然、朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた。なのに拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げ、日々それを塗り替え、あげくに国交交渉どころか、経済制裁論にまでエスカレートさせてしまった」
まず注意しなければならないのは、これが北朝鮮の記者によるインタビューの要約で、恐らくはかなり「自分たち寄りのニュアンスで」まとめられた言葉だろう、ということだ。だから、さらりと流して読んでしまったのでは、井筒監督の意図がどこにあったのかに気づかないまま、「朝鮮日報」に簡単に「誘導」されてしまうことになる。それを回避するためには、要約・省略はされていても、微妙な部分に「削りそこなった」部分があるものなので、それを丹念に見ていく必要があるのだ。
「日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」という言葉一つにしてみても、かなり政治的に我田引水的な意味合いが込められていることはアノ国のあり方を見れば見当はつく。朝鮮問題についてウカツなことが言えないのはこういうところで、そりゃあ、私だって年がら年中朝鮮問題を考えているわけではないが、つい「そっち方面には無関心でねえ」などと言おうものなら、「朝鮮問題にカブレている」人(必ずしも在日朝鮮人ではない)からは、「だからアンタはダメなんだ! 歴史を何も知らないし、加害者意識に欠けている!」なんて罵倒されてしまうことになる。「関心はない」とは言ったが、「知識がない」とは私ゃ言ってないんだが、もう「過去の歴史に学ばない日本人」のレッテルを張られてしまうのである。馬鹿馬鹿しい話だが、イデオロギーに凝り固まった手合いはやたらいるのだ。「無関心」を責められたら、「お前、メシ食ってるときやクソしてるときも朝鮮問題について考えてるのか」とか「今の私にはオゾンホールによる環境破壊のほうが切実な問題です」と言って煙に巻いてあげよう。
それはさておき、井筒監督は果たして本当に「拉致なんてしてない」と思っているのだろうか。そこまで言いきれるだけの何か確かな根拠があって主張しているのだろうか。金正日自身すら認めている事実なのに、それを覆す根拠などそうあるとは思えない。井筒監督の発言、額面通りに受け取るにはどうにも疑問がある。 そう思ってよく読んでみると、「拉致問題をきっかけに」とある通り、井筒監督は決して拉致を「幻想」などとは言っていないことに気がつくのだ。「物語」と井筒監督が言っているのは、「朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」「朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた」という言葉との関連から考えても、「平和な日本」の部分なのであって、日本が過去に戦争を経験したことすら忘れ去ってしまっている現状を指して批判しているのだ。そう考えないと、本文全体のつじつまが合わなくなる。 ここで、「いや、俺はちゃんと忘れてないぞ」と反論したって無意味である。井筒監督が批判しているのは「忘れている人たち」であって、「忘れていないあなた」ではないのだ。
「分断の原因」については私も井筒監督に反論したいとは思うが、ここで「悪いのは米ソの冷戦構造だろう」と反論するのはやはり「日本の責任回避だ」と突っ込まれることになる。「そもそも日本が植民地支配をしなければ米ソに付け込まれることはなかった」という恨みが北朝鮮・韓国の双方に長年に渡ってある反日感情の根拠になっているので、そこから理解して反論をしなければ、これも火に油を注ぐことにしかならない。「逆恨みも恨み」なので、ただ突っぱねれば終わりになるわけではないのだ。 確かに、井筒監督は北朝鮮に対して同情的だとは思うが(知り合いに北朝鮮人が多いらしい)、これを「拉致自体を物語としたがっている」と読み取るのは無理がある。そう読みたがっている人は、井筒監督に対しての先入観というか偏見が先にあって、何としても井筒監督を「北朝鮮の広告塔」呼ばわりがしたくて無理やり読んでいるのであろう。我田引水というか「捏造」という点では、朝鮮日報を笑えるものではない。
『パッチギ!』という映画自体、私はあまり政治的に読み解きたくはないのだが(単純に『ロミオとジュリエット』的青春ものとして面白く出来ていた)、以前も書いたとおり、批判の矛先は“日本人にだけ向けられたものではない”。「迫害されている在日朝鮮人」という被害者意識を逆手にとって日本人を責めたてる在日の老人たちの卑怯さに対してもちゃんと目を向けているのである。朝鮮日報のインタビューがどれほどの長さのものだったかは分からないが、仮にそういうことを井筒監督が語ったとしても、当然、カットされているであろう。そもそもインタビュー記事が監督の生の声であると判断すること自体、メディアの本質というものが分かっていない。
しかし、これも誤解を招かないように念のために書いておかなければならないのだが(まあ、誤解したい人は何言ったってわざと誤解するものではあるが)、私は井筒監督の思想に全面的に賛同しているわけではない。在日の問題はデリケートであるだけに、その扱い方が大雑把に過ぎるのはちょっとどうかとは思っているのだ。「北朝鮮のスポークスマン」のように勘違いされても仕方がない「ウカツさ」は確かにあって、逆にだからこそ「あんなウカツな人を広告塔にしてどうする」と、「広告塔説」を否定する根拠になっているのである。 あのね、井筒監督の発言を聞いてりゃさ、あの人がそんなに「難しいこと」が考えられる人ではなくって、極めて庶民的な感情から映画を作り、発言していることは察しがつくってもんじゃないのよ。嫌われると分かっててプロが映画評を好き放題言ってるのは馬鹿な証拠だ(笑)。一番「ウカツ」なのは、朝鮮日報の取材に応じちゃったことだろうが、これも「断る理由がない」とか、素直過ぎる理由で受けちゃったんだろうなあと思うのである。
井筒監督が思想的なところから外れている人だという根拠は、記事中のこんな文章にも表れている。
>「人の苦しみに寄り添う芸術とは? 教条主義やウソではない、ピカソのゲルニカのように厳しい現実の中から生まれるものでなくてはならないと井筒監督は考えている」
このあたりの発言がかなり「要約」されているのは、恐らくは朝鮮日報について「都合の悪いこと」が書かれていたからだろう。「教条主義」というのが何を指しているのかが曖昧になっているが、これが井筒監督の出身地である「大阪の教育」という現場を考慮に入れてみれば、典型的な戦後民主主義教育、サヨク教育であることは容易に察しがつく。サヨク批判の部分はぼかさざるを得ないのだ(全くカットしてしまっては、井筒監督からクレームが来るだろうから、「紙面の関係で要約」という姑息な手段を取るのである)。 ピカソの『ゲルニカ』を引用しているのもその推測を補強するもので、井筒監督の世代なら、当然、1988年に起きたいわゆる「ゲルニカ事件」のことも知っているだろう。福岡市立長尾小学校の卒業式で生徒たちが壇上に『ゲルニカ』を掲示しようとしたのを校長によって日の丸に差し替えられ(『ゲルニカ』の絵自体は式場後方に貼られたそうで問題はないと思うのだが)、それを卒業生の女子の一人が式の真っ最中に突然立ち上がって抗議し始め、また、女子の発言を制止しようとした校長を教員の一人が恫喝し、戒告処分を受けたという事件である。その教員というのがまたコチコチのサヨク教師だったものだから、この女子が「洗脳」されていたことは想像に難くないのである。 だが、『ゲルニカ』はそもそもそんなひ弱な思想のサヨクに利用されるような芸術作品ではない。ピカソがナチスドイツによるゲルニカの町の空爆の悲劇を、わずか20日あまりの製作期間で一気に描いたのは、もっと根源的な、戦争という人間の業を描かないではいられなかったからである。井筒監督が「人の苦しみに寄り添う芸術」として『ゲルニカ』を自身の映画の根本にあるものと引用している以上、それは単純な「サヨク」芸術の範疇に留まるものではないのだ。
まあ、右寄りのみなさんもさ、井筒監督が「言ってもいないこと」に難癖付けるんじゃなくて(繰り返すけど、「拉致なんてない」とも「拉致られても当然だ」とも言っちゃいないよ)、言ってることに対してちゃんと文句を付けようね。でないと「ただの馬鹿」と見なされるのは自分たちのほうになるよ。仮に井筒監督自身が在日朝鮮人で拉致に関連してたとしても(そうは思えないが)、『パッチギ!』は決して北朝鮮を正当化するような映画にはなってなかったので、素直に誉めたいと思う。……なんかこんなふうに書くと『パッチギ!』がよっぽど気に入ったのかと思われそうだけど、「面白さレベル」で行けば実は「まあ普通」なんだが(笑)。
今日はしげとは博多駅で待ち合わせ。 ヤマダ電器でDVDを買って、「しーじゃっく」で回転寿司。 そのあと、今日で最終日の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』を見に行くつもりだったのだが、しげの体調があまりよくない。今日の昼間、ラクーンドッグさんたちと「エコロジーな缶詰ワールド」の次回公演の打ち合わせをしていて、かなり疲労したそうである。「寝不足だしきついんだよ」と言うが、私だって毎日のようにしげの「スリーピング・バイオレンス」の被害に遭っているので、3時間くらいしか寝ていないのだ。でも無理強いしたってしようがないし、必ずしも評判のいい映画でもないから(笑)、私一人で行くことにする。 しげの話によれば、ラクーンドッグさんも『弥次喜多』は見たがっていたそうで、「今度みんなで一緒に見に行こう」とか相談していたとか。それなら、最終日であることを教えて差し上げれば、一緒に見に行けるかとも思ったのだが、しげに連絡を付けさせてみると都合が悪くて無理とのこと。残念だったが、ドッグさんも見たい映画のスケジュールをとんと調べていないというのは呑気なことである。つか、そういう「習慣」がない人みたいね。血液型O型かなあ(笑)。 しげが捨てられた子犬のような目で「どうしても一人で行くと?」とグスグス鼻をすすりながら私を見るものだから、私のココロの中でも「どうする? アイフル?」と声がしたが、もちろん袖を振り払うように見捨ててキャナルシティへ。
最終日で楽に座れるかと思っていたのだが、結構お客さんが入っている。ざっと百人ほどか。しかも女性が連れ立って、というパターンが多い。しりあがり寿の原作マンガのファンか、監督の宮藤官九郎のファンか、主演の長瀬智也・中村七之助のファンか、と考えると、圧倒的に三番目なんだろうなあと、一番目の私はちょっと場違いなところに来てしまったような気にならないでもない。洋服売り場に迷い込んだ斑目(『げんしけん』)みたいなもんか。 ちょうど後ろに並んだ女性陣が、これが何でここまで受けるんだってくらいに映画の間中、笑い続けでうるさい。いや、笑っちゃいけないわけではないのだが、明らかに「笑いの沸点」が低いのだ。弥次さんも喜多さんも、江戸時代人だからバイクに乗るのはおかしいと寺島進の白バイ岡引に注意を受けるとか、スキップしようとしてもスキップはできないとか、その程度でけたたましく笑うのだ。まあ古田新太が追いはぎにあった惨めな姿で「清水次郎長です」ってのや、中村勘九郎のアーサー王に研ナオコの脱衣婆といったキャスティングの妙、この世で死んだ人間の魂は老若男女問わず「荒川良々」になるってギャグには私もちょっと笑ったが(CGによる「荒川良々軍団大暴走」およびエンドクレジットのダンスは必見である)。 そういう環境で見たもんで、反作用的に映画の印象はあまりよくない。確かに「弥次さんが、ヤク中の喜多さんを回復させるためにお伊勢参りに連れて行く」という原作のコンセプトは守られているけれども、しりあがり寿のあの“崩れた絵柄”から滲み出る独特の倦怠感、ほのぼのとしているようで何だか切ない味わいは生身の人間に演じられるものではない。主役の二人がマンガチックな演技を無理して演じているものだから、旅の途中途中の展開がやたらもたついて感じられてしまうのである。露天風呂で、弥次さんが喜多さんのタ○ブクロを引っ張って噛り付く、なんてギャグ、マンガならヒトコマでパッと描けちゃうものを延々実写でやったって退屈するだけだ。いったん原作を「忘れて」映画を見るべきだったと、見終わってから後悔した。 全体として、ややぼやけた印象ではあるが、江戸時代と現代、現世とあの世、現実と空想とが混交する中で、「弥次さんだけがおれのリアルだ!」と叫ぶ喜多さんの叫びは切なく響く。その「リアル」だって幻想に過ぎないということはもラストシーンで再び「伊勢」に向かって疾走するイージーライダーの二人のその先が、『幕末太陽伝』の左平次が駆け去っていったのと同じく、どこにも続かない無明の世界だからである。 あと、役者さんでこの人はいいなあと思ったのは意外にも弥次さんの妻・お初を演じる小池栄子だった。『義経』での巴もそうだが、目鼻立ちがくっきりしているのがそもそも役者としてかなり有利なのだが、その表情をどう生かせばいいかをよく知っているなあ、という印象なのだ。弥次さんと喜多さんの関係を知って、「米を磨ぎます」と真夜中に延々と米を磨ぎ続ける怖さ。包丁で刺されて死んでいく表情の苦しさ、悲しさ。自分を殺した弥次さんを許すときの慈母のような表情。充分演技賞ものだと思うのだが、グラビアアイドルだってことで批評家からは色眼鏡で見られちゃうんだろうなあということも予測がつくので、それがまた悲しいのである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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