無責任賛歌
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| 2007年02月09日(金) |
いつのまにかの240000ヒット/舞台『ブラックコメディ』(劇団四季) |
またまたちょびっと(どこが?)間が空いてしまったが、休みごとに自主映画の撮影なんぞをしていたもので、こちらの日記を書く精神的余裕がなかったのである。 先週からずっと風邪っぴきというのもあったし。まあ、そのあたりの事情については追々に。つか、仕事に関連したことなので、ここには書けん(苦笑)。
しかし、ほったらかしといてもやっぱりお客さんは連日押し寄せてくる大盛況で、24万ヒットをとうの昔に越えてしまっている。いったいどんな人がそんなに覗いていらっしゃるのか、掲示板に足跡でも残していただけるとありがたいのだが。 実際はお客さんの顔が見えないからこそ、遠慮せずに好き勝手書けるのではあるけれどもね。
> 「ジャーナリスト宣言。」広告、朝日新聞が自粛 > 2月9日3時11分配信 読売新聞 > 朝日新聞社は、写真記者(46)(諭旨解雇)の記事盗用問題を受け、「ジャーナリスト宣言。」と題した企業イメージの向上を図る広告キャンペーンを自粛した。 > 社内の不祥事による広告自粛は同社で初めてという。 > 同社によると、このキャンペーンは昨年1月に始まり、テレビ、ラジオでCMを放映したり、新聞、雑誌、公共交通機関に広告を出したりした。 > しかし、1月31日に写真記者が読売新聞の記事を盗用していたことが発覚したため、今月1日夜からすべてのキャンペーン広告を取りやめた。 > 同社広報部は、自粛の理由について「今回の事態を重く受け止めたということに尽きる」と説明している。
件の「ジャーナリスト宣言。」というのは、あちこちで物議を醸したアレのことである。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
私は「アンチ朝日」というほどは朝日新聞を嫌っているわけではなく、かと言って好きでもないのだが、さすがにこれをCMで聞いたときには「アサヒの独裁を目論むヤカラが何を言うのか」とブライト艦長的な言質を弄したくなってしまった。 要するに誰もが指摘していた通り、「お前が言うな」ということなのだが、こういう自己を顧みないと言うか、心に棚を作ってると言うか、何様のつもりと言うか、言語学の基礎知識もないということが明確に分かってしまうコピーを作ってしまうから、平気で「自主規制」という名の「言葉狩り」をやらかしてしまえるのだろうと納得したことである。
今回「自粛」が行われたということは、アサヒ自身も「自分たちが言えた立場じゃない」と自覚したと解釈できはするのだが、もしも本気で反省をしたのであれば、新聞発行をしばらくやめるとか、それくらいのことをしてもおかしくないのだが、ヤクでとっつかまった芸能人よろしく、「禊」がすめばいけしゃあしゃあと言葉の揚げ足取りを再開させるつもりなのだろう。 てゆーか、もう禊はすんだつもりでいるだろうねー。
基本的なことを書くことは気恥ずかしいのだが、言葉は人間が生み出したものであるが、大多数の人間にとって、言葉は常に自分よりも先に存在している「記号」である。ある言葉を最初に作り出した人間にとってはそこにかなり明確な範囲での「意味」が存在していたのかもしれないが、それが社会に蔓延していった際には、「概念化」「通念化」され、そののち個別に「解釈」されることになる。 言葉が「共通概念」を持つが故に、我々はコミュニケーションを図ることが可能なのだが、同時に個別に解釈されるということは、「完全に意味が一致した言葉は存在しない」という事態も生じているということなのである。 したがって、われわれの会話は必ずどこかで齟齬を来す。言葉のチカラとやらをどう信じるのか、この広告は全く不明瞭な言葉の使い方をしていて分からないのだが、何をどう信じたところで、言葉を使った会話で「感情的で、残酷で、ときに無力」な結果に陥ることを回避することは不可能なのだ。
もちろん、会話のトラブルを避ける方法がないわけではなくて、言葉には「概念」と「個別の解釈」の両面があることを理解して、「個別な解釈のズレ」に関しては許容するなり「そのズレを認めるか否か」で議論をするなりすればいいのだが、たいていの人は自分の個別の解釈を「絶対的な共通概念」だと勘違いしてしまっているのだ。 だからある言葉について、「差別用語か否か」などという不毛な議論が行われてしまうことになるのだ。 そんなの、「差別用語」だと思う人間にとってはその通りで、そうでない人にとってはそうでないという「個別」の問題に過ぎない。どっちかが正しいということにはならないのである。だからこそ言葉を一方の解釈にのみ基づいて禁忌扱いするということは、それ自体が、言葉を知らない人間の愚かな行為だと断定するよりほかはない。
「誰か一人でも傷つくのであれば、その言葉は使ってはいけない」。こんな屁理屈をまともな理由として受け入れるのなら、我々は言葉を棄てるしかない。人を傷つける可能性のない言葉など、この世には存在しないからだ。
言葉に鈍感な人間は永遠に鈍感なままで、しかも始末に悪いことに自分は言葉には敏感だと信じ切っているものだ。アサヒが今後も同様の不祥事を起こすことは火を見るよりも明らかだろう。
●福岡シティ劇場『ブラックコメディ』(BLACK COMEDY) 午後7:00〜 (1時間20分)
作=ピーター・シェーファー 訳=倉橋 健
●スタッフ 演出 浅利慶太/装置 土屋茂昭/照明 沢田祐二・長谷川智子/衣裳 大石若草子/舞台監督 嶽本由郎/舞台 ��松信子・松木克憲/音響 佐々木紀子/舞台装置 大野陽介・冨沢奈美/小道具 杉田 都・深沢幸徳/コスチューム 後藤利江・山本サナエ/ヘアー・メイク 前野香代子/協賛 九州電力・NTTドコモ九州・西日本シティ銀行・積水ハウス/協力 九州旅客鉄道・西日本鉄道・日本航空/後援 福岡県・福岡市・福岡県教育委員会・福岡市教育委員会
●キャスト ブリンズリー・ミラー(自称彫刻家):石丸幹二/キャロル・メルケット(ブリンズリーのフィアンセ):坂本里咲/ミス・ファーニヴァル(二階の住人):はにべあゆみ/メルケット大佐(キャロルの父):岡本隆生/ハロルド・ゴリンジ(古美術商):栗原英雄/シュパンツィッヒ(電力会社従業員):川口啓史(劇団俳優座)/クレア(ブリンズリーの別れた恋人):八重沢真美/ゲオルク・バンベルガー(大富豪・美術収集家):�盒鏡�郎(劇団民藝)
●ストーリー 舞台はある日曜の夜。 無名の若手前衛彫刻家ブリンズリー・ミラーのアパート。 ブリンズリーはフィアンセのキャロルと、華やかな骨董品で部屋をにぎやかに飾りつけている。優美な椅子、精巧なランプ、上等な花瓶、値打ち物の仏像などなど……。 実はこれらの作品は、現在旅行中で不在の隣人、古美術商ハロルド・ゴリンジのコレクション。こっそりと無断で持ち出し、さもブリンズリーの調度品のように装って来客をもてなすというキャロルの計画なのだ。 来客のひとりは億万長者の美術蒐集家ゲオルク・バンベルガー。ブリンズリーの作品を見に訪ねてくることになっている。もうひとりはキャロルの父親であるメルケット大佐。娘のフィアンセとしてブリンズリーがふさわしい男なのか値踏みするためにやってくる。 並べられた骨董品が老大富豪のお眼鏡にかない、賞賛される姿をフィアンセの父親に見せることができれば、ブリンズリーにとっては富も名声も愛する女性も手に入れることのできる一世一代の大舞台になるはずなのだが……。 「よりによってこんな日に!!」 突然部屋は真っ暗な停電状態。 そんな中、隣人が予定変更で帰宅。上階に住む婦人や電気会社工事人、ブリンズリーのかつての恋人クレアまで登場し、事態をさらに混乱させていく。 観客からはすべてが見える“明るい暗闇”の中、パニックがパニックを呼び、窮地に陥るブリンズリーの運命。果たしてその結末は……。
「演出 浅利慶太」とあるが、この舞台の最大の演出は、既にピーター・シェーファーの戯曲の中にある。 つまり、停電中の真っ暗闇というシチュエーション、これが舞台では全体照明の下で描かれ、ほんのかすかでも明かりがある状態(マッチやライターの火や、懐中電灯など)のときは照明が落とされている、という「逆転照明」の演出である。
映画と演劇の違いから詳述していったら字数の限界も越えてしまうだろうから、かいつまんで書くより方法がないが、これが映画なら、実際に闇は闇として描くしかないところだ。「明るい闇」などは、演劇の持つ「見立て」の表現効果を知悉していなければとても思いつかない発想だろう。この一点をもってしても『ブラックコメディ』が傑作であることは論を俟たない。シェーファーの代表戯曲は『エクウス』も『アマデウス』も映画化されているが、この『ブラックコメディ』だけが未だ手付かずであるのは、まさに「演劇でしか表現できない」魅力に溢れているからだろう。 結果、観客は「暗闇の中のスラップスティック」を「白日の下で」観劇するという、実にスリリングでエキサイティングな、現実にはありえない体験をすることになる。これがなぜ観客に快感をもたらすのか、それは他人のヒミツをこっそり垣間見る「覗き穴願望」を劇場全体に拡大して充足させて見せたからだと言っていいだろう。 まさに我々観客もまた、この「明るい闇の住人」としてここにある。
これだけ上等の戯曲であれば、多少、演技に難のある役者が演じたとしても、充分面白い芝居になる。実際、ストレートプレイを得意としない四季の役者ではあったが、今回の舞台はこれまで私が見てきた四季の舞台の中でも上位に位置するものであった。 しかし、『ブラックコメディ』の実演としては、最低レベルの舞台化であろう。観客はそれなりに笑ってはいたが、これが最適な役者と演出で行われていたなら、こんなものではすまないはずである。まさに抱腹絶倒、呵呵大笑、膝を叩き、息を詰まらせ、涙を流し鼻水垂らし、椅子から転げ落ちて床を叩き、ヒキツケを起こした挙句に心臓麻痺を起こして死んでもおかしくないほどに狂い笑うことは間違いないからである。 なぜそうならないのか。役者の誰一人として、闇の中の演技ができていないことが根本的な原因としてある。
役者たちは果たして、実際に目隠しをして演技をしてみる、などの試みをしただろうか。学校の同和授業などでよく「盲目の人になってみる」ために目隠しをして部屋の中や路上を歩く、などのシミュレーションを行うことがあるが、実際に一度何人か集まって試してみれば私の言いたいことは即座に納得していただけるはずである。実に千差万別、一人一人が奇妙でいびつな歩き方をし、そこには統一性も均一性もなくなるのである。 ある者はひたすら壁を探し、そこから伝うように出口を探し、ある者は四つんばいになり、ある者はへっぴり腰になってあとずさり、ある者はうずくまったきり動けなくなる。歩くスピードも決して均等ではない。一歩進んでは立ち止まり、からだをいびつに曲げ、手を伸ばすかと思えば足で床を探り、見ようによっては暗黒舞踏を目の当たりにしているように思える時もある。 それをいかに舞台上に再現して見せるか。工夫のしようはいくらでもあるはずだ。明るいところでは立派な態度の紳士が、闇になった途端に豹変しておかしな仕草を見せるとか、役者も演技のし甲斐があるはずである。
ところがそういった工夫がこの舞台には一切ない。彼らは全員一様に手を先に伸ばす姿勢で歩き回り、スピードも均一で、あたかも目が見えているかのごとくである。いや、随所で偶然ではなく相手をするりと交わし、「確実に目が見えている」動きをしてしまっているのだ。これで「私らはプロの俳優でございます」と大口を叩くのであれば、「客を舐めるな」と言いたくなる。 もしもあれで「暗闇の練習もちゃんとしました」と言うのであれば、もう役者としての資質自体に問題があると断定せざるを得ないだろう。
一番どうしようもないな、と感じたのは、階上にいるクレアが、階下の男たちに次々に水を浴びせていくシーンである。これが実に正確で、目が見えていて目標を捉えているとしか思えない。実際に役者はちらちらと階下を覗いていた。これを、声の聞こえている位置で判断しているのだろうと解釈するのは好意的に過ぎる。ここは正確に頭に注げなくても構わないから、水は適当に振りまいてみせるのが「リアル」というものである。一事が万事この調子で、少しも舞台に説得力が生まれない。 「闇の中の練習をしていない」あるいは「おざなりな演技をしている」と確信をもって言えるのは、こういう「手抜き」がはっきりと見えるからだ。 いつもながらの「四季喋り」も、セリフのテンポを遅らせるばかりでキャラクターの個性を殺いでおり、この戯曲にはふさわしくないとしか言えない。
これだけ面白い芝居なんだからねー、四季にやらせるんじゃなくて、PARCOプロデュースでもいいから、ちゃんとした役者を集めて、もっと面白い芝居にしてほしいよ。四季もさー、自分とこに合わないと分かってる芝居なら、版権は取らないくらいの理性は働かせてほしいものだ。 ちなみに、1966年の本国イギリスでの初演のデータは以下の通り。
Black Comedy Chichester Festival Theatre, then Old Vic Theatre, then Queen’s Theatre,London, 1966.
Directer:John Dexter(ジョン・デクスター)/Designer:Alan Tagg(アラン・タグ)
cast Brindsley Miller:Derek Jacobi(デレク・ジャコビ)/Carol Melkett:Louise Purnell(ルイーズ・パーネル)/Miss Furnival:Doris Hare(ドリス・ヘア)/Colonel Melkett:Graham Crowden(グレアム・クラウデン)/Harold Corringe:Albert Finney(アルバート・フィニー)/Schuppanzigh:Paul Curran(ポール・カラン)/Clea:Maggie Smith(マギー・スミス)/Georg Bamberger:Michael Byrne(マイケル・バーン)
当時のスチールを見てみたが、それだけで演技のレベルが格段に違うことが見てとれる。 これだけの名優が演じた舞台を再演するのはかなり勇気の要ることである。よくぞやったものだと感心してさしあげられればよいのだが、四季の場合、これが名作への「挑戦」ではなくて、ただの「増長」としか言えないのが残念なところだ。それは、出来上がった舞台が如実に語っていることなのである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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