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■ 2004年12月29日(水) in 九州−湯布院・久留米・太宰府編 <画像あり>
最初に言っておきましょう。 この日の九州北部の天気予報は、「曇り/雨/雪」みたいな感じでした。実際、夜中には雨も降ったようだし、朝起きてカーテンを開けると、別府の山々は白くなってました。昨日果たせなかった朝風呂を浴び、ホテルをチェックアウトして出発。向かうはあの白き山の向こう、湯布院です。
下から見て白かったんだから当然のことですが、山越えの道は雪道です。でも、降雪地仕様ではない我が家の車(品川ナンバー)には、チェーンやスタッドレスタイヤといった雪道装備は一切ありません。途中、土産物屋の駐車場のような所でチェーンを売る人(絶対ぼったくってる)がいたり、路肩に突っ込んでる初心者マークの小型車がいたり、なかなかスリリング。だって山道且つ雪道。対面で坂道で雪道。ひとつ間違えば崖に激突、もしくは転落です。雪が殆ど降っていないのがせめてもの救い。果たして雪道装備ナシで湯布院まで辿り着けるのか謎ですが、ここまで来たら行くしかない。後ろの車はこっちがノーマルタイヤだと気が付いたのか、車間をかなり取ってます(笑)。前方にもノーマルと思われる車がちらほらいるので、きっと大丈夫だろう。何とか「なる」んじゃない、何とか「する」のだ。
ノーマルタイヤでも何とか山を越えて湯布院に辿り着きます。目指すは宇奈岐日女神社。「うなぐひめ」と読みます。微妙に小雪が舞う中参拝。残念ながら社務所は窓からドアから鍵が開いてるのに無人でした(爆)。すぐ戻るつもりなのか、それとも田舎故のことなのか。謎です。いつ戻るとも知れぬ人を待っていきなり時間を食うとこの後の行程が危ういので、御朱印は諦めて次へ向かいます。大分自動車道に乗って鳥栖JCT経由で九州自動車道久留米ICへ。次の目的地は筑後国一宮・高良大社です。
車道を跨ぐ重文の石造大鳥居(一の鳥居?)を車でくぐり、神社に向かい山を登ります。途中、道端に第二鳥居が建ち、本来はそこから参道の階段が続いていますが、今は三ノ鳥居の下まで車で行くことが出来ます。地元の高校の陸上部か何かがランニングを繰り広げる中、車で三ノ鳥居まで。ちなみに、第二鳥居から参道を行くと、片道約20分だとか。往復40分階段は苦行ですな。 三ノ鳥居横の駐車場に車を停め、鳥居から131段の階段を経て高良大社。「大社」の名に相応しい大きな神社です。御朱印を待つ間に境内をウロウロしましたが、高良会館の展望台からの筑紫平野の眺めはサイコーです。西流する筑後川も確認出来ます。 帰路、一の鳥居を撮影する為に車を下りると、一の鳥居のすぐ手前の細い道に「←高良大社下宮」の案内板が。片参りにならないよう、こちらにも参拝。
  雪の宇奈岐日女神社と、高良大社境内より久留米市街を。 続いて福岡・佐賀県境に鎮座する肥前国一宮の一・千栗八幡宮を目指しますが、途中、筑後川の河畔に「←水天宮」の標識を発見。そう言えば水天宮の総本宮は久留米だったじゃないか。引き返して立ち寄ることにします。 社殿向かって左には大河筑後川。周辺は特に高い建物もなく、その御陰で空が物凄く広いです。水天宮の名の由来は良く知らないのですが、「水」はこの筑後川に由来するんだろーか。そんなことを青い川面と空を見ながら思いました。
それから当初の予定通り千栗八幡宮へ。「千栗」で「ちくり」ではなく「ちりく」。現在、この辺りの県境は微妙に筑後川の流れとは外れています。その為、県境が入り組んだような感じなのですが、県境は昔の筑後川の流れに沿っているらしいです。治水工事で流れを変えたんですかね。千栗八幡宮は、元は筑後川の河畔の丘上に位置する神社だったワケです。高良大社と(鎮座する山の規模は違うけど)同じ図式ですな。境内から高良山も見えます。 ちなみに、ここから吉野ヶ里遺跡へは西へ僅か10km程度だと気が付いたのは、帰って来てからのことです(爆)。丁度、もうひとつの一宮・河上神社(與止日女神社/大和町)と千栗八幡宮の中間に吉野ヶ里遺跡が位置しているように思います。正確な地図が手元にないので曖昧だけど、うまくすれば一直線に並ばないだろうか、なんて。河上神社に詣でる際には、吉野ヶ里遺跡も是非見たいと思います。
   左から水天宮、水天宮前の堤防の切れ間より筑後川、千栗八幡宮。 この辺りを訪れた時は物凄く気持ちの良い晴天でした。 再び福岡県内に戻り、ここからは福岡県を北上します。まずはマイナーどころですが、小郡市内の延喜式内社・御勢大霊石神社へ。ここは仲哀天皇の殯葬の地で、社殿前に天皇の御魂代として三韓征伐の際に軍船に乗せられた石があります。「御勢(みせ)」は「夫」の意味(「夫」は「せ」と読みます)で神功皇后から見た仲哀天皇の尊称です。社名の由来はそういうこと。 境内にあった公民館に社務所の看板も上がっていたので中にいた人に尋ねると、社殿の横の家が宮司さんのお宅だということ。そちらに伺い、宮司さんに御朱印を認めて頂きました。宮司さんの奥様にまたしても学生に間違われた私。果たしていつまで学生で通用するのか私は。頑張れ自分。御朱印は決まった形式はないそうで、初穂料も受け取って頂けませんでした。とても気持ちの良い応対をして頂き、満足(いや、学生云々は関係ないっすよ)。
カーナビにはない出来たてのバイパスを快適に走行し、続いて筑紫野市の筑紫神社へ。筑紫国の国号の由来となった、延喜式に名神大社として掲載される由緒正しき神社です。社殿左前に結構リアルな馬像がありました。 ここの宮司をお務めの味酒氏は菅原道真の忠臣でその亡骸を葬った味酒安行の子孫。太宰府天満宮禰宜で同文化研究所の主管をお務めの方もここの血筋の方です。昔は「うまさけ」今は「みさけ」と読むようです。いつ頃読みが変わったんだろう?
続いてはその太宰府へ。まずは太宰府天満宮。参拝する前に門前で(またしても)蕎麦を食します。入ったのは門前唯一の手打ちを謳うお店。西日本だから蕎麦つゆは薄かったけど、出汁がしっかりしていて西日本で食べた蕎麦の中ではかなり美味しかったです。腹ごしらえも済んで、いざ天神さんへ。
太宰府天満宮。全国に数多ある天満宮の総本宮。言うまでもなく学問の神様です。私は生まれ育った土地の氏神様が天神さんで、初宮参りも7歳の七五三もそこで済ませました(3歳の七五三は明治神宮だったけど)。8年ほど正月の助勤巫女をしたのもこの天神さん。故にそれなりに馴染みのある神様です。 時は年末。そろそろ受験生は切羽詰まってくる時期です。その所為か参拝客もかなり多め。飛び梅は花を付けるにはまだ間があるので、梅の時期にも来てみたいものです。京都から太宰府まで飛んできた梅ですよ。そんな花、是非見てみたい。 ちなみに、太宰府天満宮の禰宜さんが道真の忠臣・味酒安行の子孫だという話をしましたが、宮司の西高辻さんは道真直系の子孫です。1200年の時を超えた主従関係。うーん、すごい。
続いて、太宰府の鬼門の護り・九州総鎮守宝満宮竈門神社へ。今は縁結びの信仰が盛んらしく、若い人の参拝が多かったです。鎮座地・宝満山は九州で一番登山者が多いとも言われる山だとか。修験の山でもあり、宝満山山伏の子孫たちが現在もここで護摩焚きなどを行うそうです。参道の階段途中には鹿小屋(!)がありました。中には立派なツノを生やした牡鹿も・・・(^^;)
続いて太宰府市内を観世音寺方面へ。まず観世音寺を拝観します。往時は西の東大寺と呼ばれるほどの規模を誇った観世音寺ですが、現在はその面影はない小規模な寺院。でも境内の礎石を見れば、自ずと昔の規模が知れます。 そこから戒壇院へ向かおうとフラフラしていたら、僧玄�靴諒茲砲屬租�たりました。玄�掘0で榁臻穗い箋犯�真備らと遣唐使船で唐に渡り、帰国後、橘諸兄の下、権力を振るった法相宗の僧。これを排そうと藤原広嗣が九州で乱を起こしたけれど失敗(藤原広嗣の乱)し、のち、藤原仲麻呂の時代になって観世音寺別当に左遷され、観世音寺造立供養の日に広嗣の霊に取り殺されたのだとか。玄�靴諒茲�観世音寺のすぐ横にあったとは。 ここ以外では東大寺と下野薬師寺にしかない戒壇院。僧になる為には戒壇院で戒律を受けなければならなかったのだから、きっと多くの僧がここにも来たんでしょう。今は観世音寺にも増して小規模。 都府楼(太宰府)跡を横目に見つつ、筑前国分寺にも参拝して、最後に目指すは飯塚市の曩祖八幡宮。
曩祖とは祖先の意味だそうで、神功皇后がここに祖先を祀る祭壇を設け、戦捷奉告の祭典を執り行ったんだそう。訪れたのは結構遅い時間でしたが、初詣の準備で結構人がいました。
   左から太宰府八幡宮、竈門神社、玄�靴諒茵� 今日のお宿は小倉市内。小倉の駅前はぶっちゃけ広島より栄えてる気がします。伊勢丹まであるなんて羨ましい。道中、スペースワールドも見えました。一度くらい行ってみたい。
当初の予報はどこへやら。ほぼ好天に恵まれた3日目でした。
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・過去の「今日」。
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