ぼんのう
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財団法人日本青少年研究所が発表した日本、韓国、米国、フランス4か国の中高生に聞いた意識調査で、21世紀が希望に満ちた社会になるかとの問いに「そう思う」と答えた日本人のパーセンテージである(ちなみに米国86%、韓国70%、フランス64%)。
刹那的快楽に埋没するこの流れは止められない。 将来への絶望をむしゃぶる焦燥感は止められない。 欲しいのは暴力、欲しいのは破壊、欲しいのは性器のタギリを冷ますもの… しかしその先にある貧困と荒廃を彼らは一身に負うのであろうか?
「責任は、今の大人たち」 「自然破壊の限りを尽くして、未来はない」 「努力しても報われない」 「悪いことをしたほうが、結局得」
それにしても、彼らを支配しているのは、理想というものではなく、 人倫を覆い隠した氾濫する情報の悦楽…他に頼るものはない。
異臭放つこの溢れんばかりの情報、なんとかできないものか?
我輩はふと、自分の幼少時代を思い出した。 米国で生まれ育った我輩であるが、当地は子供の世界と大人の世界を完全に 隔絶した教育を中心としていた。 子供は大人の如何なる情報からも隔絶される…しかしその代わり、 子供の世界をイマジネーションと愛情で溢れたものだけを提供し、 責任ということ、自立するということの素晴らしさと重さを徹底的に教える。 それは親に限らず、社会全体が支えるものであるという信念で。 そして社会が、子供が大人としての自覚を持ちえると認識した上で、初めて 大人の情報の門戸を開くのである。しかし決して、溺れることはない。 自らの言動と行動に対して、責任を感じる訓練を成しているからだ。
米国は実は非常にストイックな道徳律に守られている。 「米国は開放的だ」と言う連中は、単に米国社会におけるアウトサイダー (またこれが非常に目立つ)しか見えていないにすぎない。そして 自らのだらしなさを、アウトサイダー達の責任にする…みっともない。
ひるがってみよう。
日本人は何時から、自らの言葉と行動に“責任”を感じない国民になったのか? 何時からこんなだらしない民族となったのか? そもそも“責任”という言葉の意味を、じっくりと考えたことがあるのか?
未来に絶望するのは、自らの言動に責任を持たない事を意味する。
さて、堅苦しいのはこのへんで… 昨日のクイズですが、正解は
「口の中」
でした。つまらんのおおおおおお…
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