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流れ者の遺伝子 - 2001年04月01日(日) 大正十一年の正月 ――略―― 極南、鵞鑾鼻の地にて旭日を拝す 太平洋金波銀波の初日出 大洋に瑞雲たなびく初日出 祖父の俳句日記の冒頭である。 先日、母が伯父の家から思わぬものを持ち帰った。 母方の祖父の遺品で、「翰墨緑 九華堂寶記」という銘がある二冊の帳面である。 たぶん当時販売されていた日記帳のようなものであろう、同じ形のを二冊を買い求め、俳句は緑、短歌は赤、と、罫線の刷り色で使い分けている。 印刷された罫線は、たぶん木版刷りだと思う。顔料の発色が柔らかい。 薄い和紙は、かなり黄ばんではいるが、頁を繰るのに何の不安もないほどの強度を保っており、毛筆で細かに記された文字の墨の色は褪せることなく瑞々しい。 そして、和綴に使われた絹糸は、いまだしなやかさを失っていない。 素晴らしきかな、東洋のテクノロジー。 私が生まれる前に他界した祖父に、こんな形で出遇えたのはしあわせである。 句の巧拙はさておき、台湾の最南端の岬に立つ若き日の祖父は、私にとっては顔も知らない人なのに、無性に懐かしい。 今はダムの底に沈む、月山の麓の寒村に生まれた祖父は、貧しさに追われるようにして、幼い頃に一家で台湾に渡ったので、山形出身なのに雪を知らなかったそうだ。 自分が定住型じゃないDNAを受け継いでいるのは、なんとなく感じていたが、また一つ根拠が発見された気分である。 先年、私はふるさとと思える風景を夢に見、それが現実にこの国に存在する土地であることに魂を揺さぶられた。 そして、その山野に帰属したいと切望したのだが、どうやら山野の方が、流れ者のDNAを受け入れてくれなかったようである。 夢に見た山がなくなってしまったのだ。 三度目にその地を訪れた夏の日、宅地開発のために山は崩されつつあり、風景そのものが変わりかけていた。 拒絶するのは人の心だとばかり思っていたが、山や野も、それが人の手によるものとはいえ、こんな形で拒絶するものなのか・・・。 ついに、最後に訪れた冬の日には、不自然なかたちに切り取られた山を車窓に見て、打ちのめされる思いで目を伏せたのだった。 流れ者の遺伝子は、車窓に、船上に、機上に、そして路上に運ばれて、望むと望まざるとに関わらず、とどまることができないのかもしれない。 曽祖父(私の母の母の父、前述の祖父にとっては義父にあたる)は、明治時代にアメリカを目指して小笠原に渡り、何かの船に乗り込んだものの、嵐に遭ってトラック諸島のポナペに漂着し、彼の地で宣教師になった。 その後、どういう経緯かハワイに渡り、ついには当初の目的地のアメリカ本土で奨学金を得、ちゃっかり大学にまで行ってから帰国しているのである。 この話は、ある基督教系の大学の先生が、曽祖父の研究論文を書くために、祖母のところに聞き取り調査に訪れて明らかになった。 何も知らなかった末裔の親族一同はびっくり仰天したのだが、私にとっては、どこかで「なるほどね」と合点がいく話でもあったのだった。 ついでに言えば、今は隠居ぐらしの父は、外国航路の船乗りだったし、現在アトランタ駐在の弟は、通算で8年もアメリカで暮らしていたりする。 とまれ、今は祖父の話だ。 山形から台湾、内地に戻ってまた満州へ。 働きながら独学で得た知識と人脈で、満州に渡った頃には、かなり豊かな生活をしていたらしい。 しかし、敗戦。 着の身着のままで引き揚げた直後に病に倒れ、品川の六畳一間の仮住まいで亡くなった。 華やかな満州時代と赤貧の品川暮らしについては、母から耳にタコができるほど聞かされていたが、この二冊にはそれ以前の祖父の姿がある。 ぱらぱらと頁をめくっていくと、恒春、高雄、大阪、奈良、京都、さまざまな土地のこと、移動中の車窓や船中のこと、四季それぞれに感じたことを言葉にした句が、歌がある。 一冊の厚さが5mmほどの小冊子、本当にささやかだけれど、初めて触れる祖父の香りである。 ゆっくり味わってみよう。 ・・・・・・・ ちなみに今、娘が春休みの宿題で、ハワイ州を紹介するプリントの英文和訳をしている。 たかが田舎の市立高校のくせに、この秋、修学旅行でハワイに行くのだ。 ハワイの州の魚は“フムフムヌクヌクアプア”、州の鳥は“ネイネイ”、州の樹は“ろうそくの樹”だそうだ。 もし玄孫(やしゃご)にあたる娘が、修学旅行でハワイに行くことを知ったら、曽祖父は笑うだろうか。 ...
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