年を取るのは素敵だ。穏やかに日々が過ごせるのは素敵だ。憧れの人は素敵に年を重ねている、そういう月日の重ね方を学べるというのは素敵だ。
そう思ってはいても、わたしの中には暗くて、どろどろとした感情のマグマのようなものがある。それが吹き出さないのは、年を重ねたせい、なのだと思う。そのどろどろはきっと若さによるもので、年を取るとだんだんと冷えていくものなのだろうと思っている。そして固まる。
少し前、このどろどろはほかの人を巻き込んで、追い込んだ。わたしはどろどろの中で何日も泣いていた。そして怒っていた。わたしは自分の深いところで苦しんでいた。
わたしが一番好きだった人はわたしに確かな、揺るがないものを見ていた。わたしは濁流に耐えうる強さを持っている、とその人は思っていた。でもわたしは弱かった。ある部分では、その人の思うとおりに強かったのかもしれない。しかしそれは濁流を作る強さであって、その強さは人をつらくするものだった。
その人はわたしをすごく大切に思ってくれていたが、わたしは甘えて振り回した。その人を疲れさせてしまった。今は、連絡も取れない。生きているのに会えなくなることがあるのだと、わたしは知らなかった。生きているのに、言葉さえ通じないことがあるのだ。死んだって一緒だと思った。今もそう思う。ただ、わたしを思ってくれる人がたくさんいるし、神様もまだわたしを許してくれているようなので死なないし、死ねない。
今わたしの側にいる人は、わたしが一番好きだった人がわたしに求めたような強さを持っている人だ。確実に、歩いている人だ。彼の中にもどろどろはあるのだろうが、わたしが持つような人を巻き込む類のものではない。彼はしっかりと生きている。息をしている。そういうところに憧れた。
わたしも、わたしが一番好きだった人も同じものを求めていたんだ、と思う。世界を見据えて、流されない強さが欲しかったんだと思う。二人で寄り添っているだけではだめだった。どちらかが倒れてしまう。そして倒れた。わたしとその人の根っこはおんなじだったのだろう、その人の方が繊細であったけれども。わたしは今でもその人を大切に思うし、その人の行動が、言葉がすごく響く。そういう気持ちは大切にしたい。そういう気持ちになることは涙が出る程つらいことではあるのだけれど。
その人への気持ちを片づけられずに、こころの底を這っている時に彼が現れて、わたしに世界を見せた。そして彼はわたしの良いところを教えてくれた。悪いところも。彼はわたしに「良いところをつぶしたらもったいない」「だから、もっとがんばれ」と言った。わたしは救われた。
彼と会って、話して、わたしは変わってきた。まだ短い時間だけれども、どろどろは冷えてきた。わたしは、わたしらしくなれると思う。ただ、わたしはあの人のことをまだ思う。幸せでいてほしい。風の噂でも何でも良いから、あの人の様子を知りたい。そして、何十年かかっても良いからまた言葉を交わしたい。今書いたようなことをちゃんと伝えられると良い。
こうして言葉にできるぶん、わたしはやっぱり成長しているのだろうな。もう8月も12月も怖くない。まっすぐに、生きられる。
