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2004年05月04日(火) 愛し君へを観て

 昨日のBBQは最後の頃にパラパラッと雨が落ちてきましたが、ホントにパラパラだけで、買い出した食料も残すことなく盛況のうちに終わることができました。

 タイトルのように「愛し君へ」を昨日観ていて思ったことがあります。
 安曇俊介が、恋焦がれて子供の頃に新聞配達のアルバイトをやって買った大切な[nikomat]のカメラを、これから心臓手術を控えている少年にプレゼントし、その行為に?と思った友川四季が「そんな大事なカメラを上げて良かったんですか?」との質問に対する俊介の答え。
 「もう必要ないから」
 ベーチェット病で、最悪の場合失明すると言われたてのプロのカメラマンであれば当然の言葉なのでしょう。
 ちなみに、この病気は失明と同時に完治する目食いな病です。

 ところで。
 俺の友人に全盲のカメラマンがいます。名前を高畑力久といいます。アマチュアですけどね。
 全盲で、全く見えなくて、なぜ写真が撮れるの?とはじめは思いました。
 でも実際に作品を見ると、それは「全盲なのにピントが合って写真が撮れている」なんて陳腐な出来ではなく、芸術としての写真がいくつもあるわけです。
 ひたすら驚いたものです。
 だから「ど、ど、どーやって撮るんです?」と質問しました。
 答えは、まず触ること。花なら、どんな形で咲いているのかを自分の掌で触れて確認する。
 確認したら、助手(当時は息子さんがやっていました)に、カメラから被写体までの距離を聞く。
 聞いたら、それに合わせて絞りを調節する。
 そしてカシャッと撮る。
 それだけ。
 で、その写真の出来はどうかというと、ふふふっ、ピンボケ多数。笑
 多数。なんだけど、その中には「これは!」と唸るような素敵な写真があるわけです。
 そんな写真たちは、障害者写真コンクールで2度、全国3位になってもいます。

 これは俺の友人が大学時代に習った教授の話ですが、(前にも日記に書きました)教授は全盲ですが自分のもとを訪ねてきた人は全て分かったそうです。
 それは何で判断していたのかというと、廊下を歩いてくるその人の足音で理解していたそうです。 
 教授は言います。「君たち晴眼者は目に見えるものばかりに気をとられていて、その影にあるものが見えなくなっていますね」と。人間には第3の目があるのだそうです。
 なるほどなぁと思うのです。高畑さんの撮った写真などを見ると、その感は強くなります。

 「障害」「障碍」というもの語るのは大変難しいことですが、少なくともその状態は不自由であり周りの助けを必要とするけれども、しかしそれは不幸なこととは違うと俺は思っています。
 「普通」とか「健常」とか「正しい」という判断基準は、時代が変れば一緒に変わるもの。
 また、時代がどうあれ、自分がどう生きるかによってどうにでも変わるもの。

 安曇俊介がこれからどう自分を生きるために変化するのか、ちょっと楽しみにしたいと思っています。
 原作はさだまさし。俺が小学校5年からずっと好きな人。
 いつか必ず、焚き火を囲みながら酒を飲みたいと願っている人です。笑





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