7年。 - 2002年01月17日(木) 7年前の今頃。 私は、TVが落ち、本棚が倒れ、 手をつけていないシチューの鍋が落ちて お気に入りのマットの上に広がっているのを 茫然としながら片付けていたんだった。 1月17日、後期試験の初日で フランス語�気竜佑畊�み勉強で徹夜してて お布団に入ると1限の試験に遅れるからと、 炬燵で座ったまま仮眠・・・に入って45分。 どーんという衝撃で目が覚めて 縦に揺れて、揺れ続けて 食器!と思って後ろにあった 水屋を押える私の前で、 いつもなら私の頭が乗っている枕の上に どすんとTVが落ちるのを、 妙にゆっくりと本棚が 部屋を斜めに横切って倒れるのを、 為す術もなく見つめていたのだった。 とにかく慌てて部屋を飛び出して 3階から駆け下りて 何を思ったか表まで走り出て でも誰も外にはいなくて 夢を見たかと思ってしまった。 それは、大阪だったからなんだけど。 部屋に戻ると 廊下に友達たちが出てきてて それぞれ青くなっていた。 そして、うちのTVは落ちてたから 友達の部屋のTVを皆で見て それぞれ実家に電話をし無事を伝えて その10分後くらいから 関西圏の電話は一切繋がらなくなった。 (実家の親は眠ってて 私は無事だけど とにかく起きてTVを見て!という 1人娘の言葉に、 ?と思いながら電話を切った後 TVを付けて事の重大さに気付き 慌てて掛け直したけどもう繋がらなかった) 芦屋に住んでいた伯母のマンションは倒壊し 震災を機に富山へ帰った。 散歩中だった伯父も 斜めになったマンションに居た伯母も けがもなく無事だったが 安否の確認には時間がかかった。 伯母が、神戸から新大阪に辿り着いた時の 新大阪の平静さが嘘のようだったと 絞り出すように言ったその言葉が 今でも忘れられない。 仲の良い友人と2週間連絡がつかず 毎日学生課に安否確認の結果を聞きに行った。 なにしろマンモス大学のこと 学生課も学生の安否確認にてんてこまいだった。 聞こえて来るのはつらい話ばかり。 心配で心配で眠れなかった。 眠れない私を心配して 毎晩電話をくれた人のことも憶えている。 長田区に住んでいた友人と 10日ほどして連絡がついて 淡路のマクドで待ち合わせして、 何も言えなくて抱きついて泣いた。 秋の学祭のTV出演で学校中に名前の知れ渡った 珍しくかっこいい名を持つ陽気な先輩が あの朝、亡くなったということも みんなの心を暗くした。 奈良の子だったのに 初釜に出席するため 神戸のお茶の先生のおうちに泊まってて 亡くなった子もいた。 家族を助けるために 犠牲になったお父さまと その犠牲を目の前にして、 生きることしか出来なかった家族がいた。 ボランティアとして行っても 役に立てないほどの混乱と苛立ち、 火事場見物で神戸まで出掛ける人を 激しく非難しての喧嘩沙汰。 揺れは酷かったけれど 県をひとつ挟んでいるだけで 大きな被害を免れた大阪に居て、 被害の大きさや辛さは TVなんかを見るまでもなく伝わってくるのに 具体的にはなにもできない無力さやもどかしさを あんなにも感じたことはなかった。 そして、震災の日から、 早朝から深夜まで 安否を気遣ってずっと電話を掛け続けてくれた 高校時代の友人のことも忘れられない。 彼の電話が繋がったのは 4日目の深夜3時過ぎだった。 あれだけの被害を蒙った街が 活性を失うことなく すぐに街として復興を遂げたことは あれはほんとにすごかった。 崩れ落ち、燃え尽きたのに、 神戸にそのイメージが定着する前に 一通りの修復を成し遂げたのだから。 街の隅々には もちろん数多くの傷跡が残り 翌年のクリスマスにも 盛り上がるポートアイランドの観覧車からは 夜景より何より 規則正しく立ち並ぶ仮設住宅が見えた。 今でも、完全に復興したとは 言えないことも分かっているけれど。 あれから7年。 なにも言えない。 まとめることもできない。 ただ、いろいろなことを思い返すばかりだ。 ...
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