想
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2002年03月12日(火) |
顔を斜めにすると視界が涙で曇らずに済む。 |
シアワセ とか フシアワセ とか、そういうのは他人が決められるものじゃないんだなぁ。 というのが、ある女優の一人芝居を観た30分後の率直な感想、というか、考え、なのである。 何を今更、とは、どうか言わないでほしい。
どんなに周りが親切でも、どんなに現在に恵まれていても、金があっても、家があっても、他の何があっても、その人が シアワセ か フシアワセ か なんてことは本人にしか決められないことで。
折角そばにいる人を、シアワセにできないのはなぜだろう。とか思ってしまっても、その人が本当に シアワセ なのか フシアワセ なのかは本人にしかわからないことで。
その人がホントウのことを言っているのかウソを吐いているのかということは、もしかしたら、もしかしたら本人にだってわからないかもしれなくて。
それでも、人が人を シアワセ にも フシアワセ にも するというのは確かなことのようなのだ。
ここまで考えて、芝居のタイトルを思い出した。
そうか、所詮あれは幻の、そこに在るわけではないのに確実に存在する、光でしかなかったんだ。
そうか。そうだ。 人は別に、シアワセでなくても生きてゆける。
光という存在それ自体が、既に幻のようなものなのだから。
****** 嗚呼。 なんてわかりにくい感想なんだろう。
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