想
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2002年05月23日(木) |
飛び降り衝動のある方はお読みにならぬよう。 |
まだ身元が公開されていないために、はっきりしたことは書けないが、 おそらく自分と同じ所属の人間が今日の午前中に飛び降りて自殺した。
昼に家を出て、バイクをいつもの場所に停めようとしたら、 近くに救急車が1台、無音で停まっていた。 そのままいつもの道を通ると、いつもはない薄い人垣が目の前にあった。 警備員が何人か配置されている。 さすがに救急車との関係を考えずにはいられなかった。 人だかりに知人を見つけたので、声をかけ、 その目線が向けられていた方向を目で辿った。
「飛び降りみたい。」 知人が言った。 何か立体的な物を覆う、地味な色の布が見え、 その下にあるのは紛れもなく人間だとギャラリーに教えていた。 さらには、覆い切れなかったのだろう、 いかにも夏を思わせる軽やかそうなミュールが1足、 その布地からはみ出して転げていた。 瞬時に女性だとわかったのはそのためだった。 「飛び降りか・・・・・・ 即死だったらいいんだけど。」 そういってその場を離れた。 他に、言うべき言葉が思い浮かばなかった。 今朝方にはまだ人間だったその女性が、 どこの誰でいつどうやって落ちたのかには、 あまり興味が湧かなかった。 自分の近くに飛び降り志願者は少なくないから、 余計にそうだったのかもしれない。 (防衛機制にこんなのがあっただろうか?)
近くの階段を上って、遅刻気味で部屋に入った。 誰も何も知らぬような、いつもどおりの風景があった。 逆に安心できない気がしたが、 妙に落ち着いていつもどおり仕事を終えた。 (うっかり叫び出さずに済んでよかったのだろう。 下で人が死んでいますよ、などと。 多分、大半は、その事実を知ってそこにいたのだから。)
窓から下の現場を見ると、 遺体は先程のらしい布地でくるまれて担架に載せられ、 荷物が脇に一式揃えて置かれていた。 その中には、赤色系のミュールも見えた気がした。 遺体があったところには、 鮮血が、まるで水溜りのように広がっていた。 そこにはまだ、人だかりの名残があるようだった。 一部始終を見届けた人もいるのかもしれない。 それはそれで心配になってしまう。夢に出そうで。
帰り際に、また近くを通った。 丸めたホースを運ぶ作業服の人たちが見えた。 そこに残されていた彼女の血液は、 どうやら水で流され、地面に染み込んでいったらしい。 明日には、何の跡もなくなり、 今日起きたことなど予想もしない人々がそこを通るのかもしれない。
人がひとり確かにいなくなったのに、 世界はそれを包み込んで少しの歪みもなく動いている。 止まってしまったのは彼女の時計だけで、 それぞれの人の目の前に広がる風景には、特筆すべき変化もない。 大きな時間の流れは、まるで無情なようで、 だからこそ安心してその流れに沿っていけるようにも思う。
何を考えて飛び降りたのだろう。 何故、今日を選んだのだろう。 恋人や家族はいたのだろうか。 将来は見えていなかったのだろうか。 きっと計画的だったんだろう。 誰かにそのことを話しただろうか。 それとも、全くの衝動的なものだったのか?
余計な詮索で頭がいっぱいになる。 ‘頭がいっぱいになる’とは、きっとこういうことだ。 ただ、外側はあくまで冷静で。 こうやってキーボードを叩いたりしている。
彼女は、飛んだ瞬間に、思わなかっただろうか。
今この瞬間、世界で一番自由なのは私に違いない。
と。・・・危険思想と言われるかもしれないけれども。 毎日が順調、と簡単に言えないこちらとしては、どうしても、 死んでしまうくらいに彼女を負の方向へ動かす何かが、 彼女の身の回りにあったという予想を立ててしまうのだ。 それが事実かどうかはわからない。 何が本当の原因かは、彼女にしかわからないし、 彼女にだって完全にはわかっていなかったのかもしれない。 ただ、全てから解放されたのではないか、と考えることは、 なんとなく救いになる。 ただ生きている自分に対しての。なんとなく、救いになる。 もちろん、彼女に近しい人間のことを想ったときには、 こんな考えが何の慰めにもならないことは、わかっているつもりだが。
もう、自由にして、 と希い、 結果的に自由になれたたった1つの方法が、 彼女の選んだこの死だった。 気付けばこんな物語を与えているのは、 自分の願望の現われなのだろう。
別に、死にたいわけじゃないよ。
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