1日雑記

2001年04月11日(水) かってしまいたい 様々

言葉の重み、とか。
いろんな人が書いたりいったり。
いまさら僕が何を書いたところで
人に感銘とかを与えることはできずに。
これは期待してないけど。
大体、目的はそこにないし。
ただ、気づいて欲しいのが。
よく聞く言葉。陳腐な言葉。それは意味があったり
重要なことだったり。
それ故によく言われ語られる。
また、それ故に軽視される。
そこには馴れにも似た感覚があるのではないかと。
「作業」というものを連続して行ったとき
無意識の内に(意識はあるが)
「流れ作業」というものに変わっていないだろうか?
意識とは、思考とは別のところで体が動いてる。
例えば結構な量の洗物。
例えばマラソン、ジョギング。
例えば小説。
例えば音楽。
で、その途中、ふと自分に返る、我に返る、
自分のしてることに気づく…
そういったことはないだろうか?
僕はある。そのとき
「ああ、僕は洗物をしているんだなぁ」とか
「あ、今僕は本を読んでいるんだ」とか。
知りながらやってるはずなのに
そこでまた気が付くということ。
言葉も同じなんじゃないかなって。
よく使われる故に誰も気にとめなくなってしまう。
よく使われるほど重要であるにもかかわらず、それ故に。


学校が始まり講義を受けた。
なかなか面白そうだ。
同時にその人柄をみたり。
ちょっと偏った人間で。
…多分何かの分野において
マニアとかオタクとかいった人との話は
面白いんじゃないかと思う。
その分野に少しでも興味があるなら。
中学の国語の先生が
「一つの分野を極めれば他の分野もある程度できるようになる」と。
これが正しいかどうかは知れないけど。
今日の感想は少なくとも
オタクといった人はどこか他の点で欠落してる部分があるんではないかと。
人間的に…とか。
生活の上で…とか。
他の分野にまったく興味を覚えなかったり…とか。
また、視野も狭くなるのではないかと。
いや、視野というよりも思考の幅が。
視野は広くなるかもしれない。
が、そのものを神格化するあまり
他者を排除する流れが少なからず流れているように思う。
内面的にね。
気づいていないかもしれないが。
そこには自分のすべてがあるわけだし。
それを否定されたりすることは
自分をけなされるよりも屈辱を感じて。
また、「一般的な」価値観との違いがそこには存在するわけで。
それは一般的な社会から見れば非常に危険なものかもしれない。
例えば「美のために人を殺す」とかね。
しかものめりこんでいるから…
当然そこには一般的価値観より
その分野における価値観の方が強く。
無論理性や、良識といったものは備えているはずだろうけど…。
でも、俺は別にそういう生き方を否定する気も無いし
俺がそういう風にならないとも言い切れない。
何を望んで行くべきで
どこを目指して行こうかねぇ?


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