指揮者とは評論家なのかもしれない。
と、先日考えていた事にひとつ結論を出してみました。 既に楽譜が存在している中で 指揮者は何を表現しようとしているのかという問に関するもの。
楽譜というのは、作曲家が表現するために作り上げたもの。 そこに既に意味があるとするならば それを表現する指揮者とは 何をする人なのかと考えたのはいつのことか。
結局考えた末、評論家なんじゃないのかな、と。
絵でも音楽でも詩でも小説でも映画でも。 例えばその作品の一つ一つに 作り手が考えた意味が込められていたとして それを読み取るのは受け手。 ところが十人十色というように それぞれ受け取り方が変わってくる。 それが抽象的な作品ならなおさら。
例えばピカソの作品を考えてみればいい。 アレをどう評価するかというのは まさに人によって変わってくるんじゃなかろうか?
ならば、と。
既に楽譜という形で、伝えたい作品が残されている音楽において その作品を解釈し、分かりやすい形(演奏)で聴衆に伝える。 伝え方は指揮者によって決められる。 指揮者は楽譜という作品を読み取り 評価を加えた上で「自分はこのように解釈した」と 解釈した形を聴衆に伝えるのではないか。
などと考えてみたのだけれど。
そう考えると指揮者とは評論家になるのではないかって話です。 評論家っていうのは作品を見たうえで その意味を論じる人達のことなのだから。
……まぁ指揮者の人と話したわけでもないので 実際どうなのかやっぱり分からないんですけどね。
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