言論の自由という表現を見かけるが 改めて考えると、これはどうなのだろう。
言論が統制されるべきと言うのではなく 本質的に、言論とは自由なのではなく平等であるべきなのだ。
自由とはつまり強者と弱者の差が絶対的であり 弱者が強者に勝ることは滅多にない。 情報社会といわれる現代に至っては 金銭以上に言論における貧富の差が激しいはずである。
単純に、テレビ、マスコミとスポンサーの関係を考えれば 金という力を持たない限り、弱者は発信することさえできない。
自由と平等にどの程度の違いがあるのか 言葉の定義は様々あるだろうが 法治国家の元にあって、自由の定義には悩まされる。
「法に縛られる=自由ではない」
こんな方程式が成り立つからだと思われるが 例えば自由を平等という言葉に変えれば この方程式が途端に違和感にあふれたものになる。
要するに法による規制と、言論の平等は矛盾せず 共存することが可能だと思われるのだ。
問題は、いかに平等に発言できる環境をつくるか、 そしてその意見を統計するか……なのだが。 各々、生活環境や立場によって発言できないことも多いわけで……。
少なくとも、自由である現状は 少数であっても力のある人間の方が強く発信できる環境だ。 法の元に平等であり、民主主義国家においては むしろ自由ではなく、公平に発信の機会を得るべきだと考える。
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