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変わっていく - 2003年08月04日(月) 昨日の晩は、今度はブラームスの「ドイツ・レクイエム」を聴き、 また色々なことを思った。 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルのライヴCD。 このCDは学生時代に買ったもので聴くのは久しぶりだったが、 実に素晴らしい演奏。 古今東西こんなにも「慰め」の音楽が、さらにも増して高潔なジュリーニの指揮のもと、 なんという品格、精神的な重み …深々と心に染みてきた。 オーケストラが、合唱が全身全霊を込めて演奏している。 そして今は大スターのソプラノ、バーバラ・ボニーとバリトンのアンドレアス・シュミットがまだデビューしたての若々しい声を響かせているのが何とも感慨深い。 そういえば買った頃、何度も何度も聴いたっけ…。 ところで、聴きながら改めて、というかひとつ強く印象深いことがあった。 それは他ならぬウィーン・フィルハーモニー管弦楽団という、世界に冠たる名オーケストラの当時の充実ぶり。 私は「昔は良かった…。」などと言うような趣味は持っていない人間のつもりだが、 今のウィーン・フィルは実演を聴いても、CDを聴いても正直それほど魅力を感じなくなった。 とはいっても、そりゃ、他の凡百なオケとはワケが違いますよ。 なにが変わったか? それはちょっと慎重にたくさんのことを考察していかなきゃならない問題だろうし、こんな一音楽馬鹿の日記で考えていくには手に余るので止めるけど、 でもやっぱり何か変わったよ。 この「ドイツ・レクイエム」のCD、1987年のライヴだ。 当時のウィーン・フィルといえば、 1970年代から80年代あたまはあのカール・ベームが看板指揮者のように振っていた時代で、(ビデオなんかで知ってる人は知ってると思うけど、ドイツ系の名指揮者という以上にまあ、ガミガミガミガミ厳しい人でオケは相当鍛えられただろうし、またその分緊張してグッと引き締まった演奏をしていた。コンマスのキュッヒル氏からも「カレハコワカッタデスヨ〜。」という話を聞いたことがある。) そのベームが亡くなってからは、なんといってもカラヤン、バーンスタインがウィーン・フィルにとっての大横綱だった。 それにこのジュリーニや元気バリバリのショルティ、ハイティンクや小澤さん、マゼールが定期的に指揮をし、またアバドがオペラの方の音楽監督を務めていた錚々たる時代 − それが80年代のウィーン・フィルだったかと思う。 私がウィーン・フィルを初めてナマで聴いたのは確か1989年。 アバドの指揮でブルックナーの「第7交響曲」だった。 前にも書いたことがあるような気がするけど、あまり感心しない演奏会だった。 アバドがあまりブルックナーと相性が良くないのかなぁ?なんて思っていたけど、 その後小澤征爾さんの指揮で聴いたブラームスの「第4交響曲」もさっぱり。 それからなんだかんだ1年おきくらいにウィーン・フィルは聴いていて、そりゃ大指揮者が指揮するし、例えばショルティ指揮でチャイコフスキーの「悲愴交響曲」とかハイティンク指揮でブルックナーの「第7交響曲」とか、ムーティ指揮のシューマン「第2交響曲」とか、そうそう一番最近でいえばラトルの指揮でベートーヴェンの「第9」。 これらはみんな良かったけど、それでも天下の名器を聴いたにしてはあまり後々まで感銘が残っていない。 なんでかね? 70年代のベームで聴くCDやさっきのジュリーニの「ドイツ・レクイエム」なんかで聴こえてくるある種の「重み」、とか全身全霊、それこそ命を削って何かを訴える、という感じがないのだ。 そんなストイックに聴くものかい? またもっと年配の人に言わせれば、「何を言ってるんだ。50年代60年代はもっとそんなものではなかったよ。」 とか言われるかもしれないが、私の受けるこういう感じは動かしようがない。 それに繰り返し強調(言い訳)しとくけど、 っていうか、私のカキコをずっと読んでいてくれる人ならわかってくれると思うけど、 基本的には保守的だとしても、私は決して懐古趣味の人間ではないし、むしろ新しい価値を積極的に肯定するのが好きな人種だ。 でもね、変わっていいものと変わって悪いものがあると思うのですよ。 しかし、これって別にウィーン・フィルの話、音楽の話だけじゃなく、 つまるところ今の世の中至るところに感じられることだと思うのだけど、 どうでしょうね? ...
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