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2005年10月13日(木) ■ |
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翻弄される日 |
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何を勘違いしていたんだか、8時30分に家を出れば十分に間に合うのに、あわてて8時に家を出てしまう。 来る途中で気が付いて、でもまあいいかと講義室に行けば何故だか誰もいない。 早く来すぎたのかなあと思って掲示板を見に行くとうんざりしました。今日休講やん。 一旦帰るのも面倒だし、図書館で論文の一本でも読むかなとふらふらしているとFがやってくる。休講の旨を伝えると同じくうんざりする。
Fは何に気合が入っているのか超ミニのスカートを履いており、ねえ可愛いでしょなどと聞いてくる。 正直な話、少しでも動くと中が見えるくらいにミニで、可愛いとかセクシーとかそういう次元を通り越してなんだかうんざりしてくる。 今日は気合が入っているのよ、などと言うので、お前は一度大学病院の精神科にかかるべきではないか、無料だからと勧めると、そんなスカートにもかかわらず人を蹴り上げてきて、もうあなたは隠す気がゼロですかと訊けば、そっち方向にはあんたしかいないから大丈夫等と言う。なんだかぐったりする。
そんなぐったり気味でいるといつの間にやら論文の表紙も読まないうちに2時限目の時間。 2時限目は発達臨床心理学という科目で、これは授業科目自体はなかなかに興味深いものなのですが、いかんせん教授の授業スタイルが面白くない。 ぼそぼそと何やら喋っているだけで眠気を誘う授業なんですが、今日はちょっと一波乱。
器質的なものが原因でない男児の遺尿症について、教授は介入方法として必要があれば遊戯療法、と仰ったのですが、行動主義に汚染されているTという男が一人猛然と挙手をし 「そこはキンメルーアズリン法とアラームシーツの併用療法のほうが有効ではないでしょうか」 などと教授の治療プランに対して異議申し立てをしおる。 なんのこっちゃかと言いますと、要するにこの二者の対立は心理学そのものの考え方が違うのです。
一般に心理学,といえばおそらくほとんどの人が思い描くのは、教授の立場である「精神分析」の学派の論です。 おそらく専門の学生ではなくともフロイトの名はどこかで聞いたことがあるでしょうし、日常生活では「無意識」や「自我」という言葉を使いますな。 これは精神分析の考え方で、ものすごく大雑把に言うと、人間には無意識と意識があり、不適応は無意識に何らかの問題が抑圧されていると考える。
それに対してTという男が言っておるのは「行動主義」の考え方。 行動主義と言うのは、これもまたものすごく大雑把に言うと、心理学は科学であるから証拠に基づかなければならないという考え方。 なので、行動主義の人たちは無意識だとか、超自我だとか、あるんだかないんだかわからんものは認めない。 不適応を起こしているのならその症状を治療することを目的とします。
それで両者で介入方法が大きく違ってきてしまうというわけですな。大げさな例を挙げると、例えば注射が怖いといって相談に来た人がいたとする。精神分析では、これを先端恐怖であるとして、先の尖ったものが象徴するのは何か、と考察していくわけですな。その結果、相談に来た人が自分は女々しい男だと悩んでたりしたら、おお、男性性の象徴として注射が怖いのだと考え、そこに介入していくのが精神分析。 一方、注射が怖いものではないということを学習させ、恐怖感をなくしていこうとするのが行動主義。エクスポージャーと言って、少しずつ注射に慣れさせることで決して怖いものではないよという認識を植えつける方法をとります。
自分も行動主義に大きく傾いているので、遊戯療法というのがどういうものかいまいちよく理解できないんですが、そのような分析心理学的な介入方法より、認知行動療法のほうが実証的だろう、というのがTの論。 もう教授はカンカンですよ。しばらくそれから議論になって、結局授業時間が終わりました(^^;
そんなこんなでどうにか大学が終わり、今日は北広島市に用事がある日。 ところが、いざ向かっている途中で急にその予定がキャンセルになり、結局大学のある町へ戻ってきました。 それなら、この間メシに誘われて断ってしまった友達がいるから、彼を誘ってメシでも、と思って大学へ戻る。 すると、その彼は今日は予定があって……と逆に断られてしまう。 そんなわけで家に帰ってきたのでした。なんだかどっと疲れた一日。
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