たりたの日記
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1956年の4月3日に私の父は父となった。私が生まれた日である。父は終戦後、引き揚げ先の郷里で小学校の教員をしていたが、同じ学校で教えていた母と結婚し、同時にその小学校をやめ、郷里を出て法務教官として歩み始めていた。
娘の名前をはじめ、葦子としようとした。パスカルの「人間は考える葦である」という言葉が心にかかっていて、そこから名前をもらいたいと考えたようだ。でもアシという音は響きが悪い。役場に行き、この文字でヨシと読むように届けを出したが、受け入れてもらえず、押し問答をしたあげく、結局は今の名前になったと残念そうだった。今なら葦子(あしこ)なんていいじゃないと思うが、その話しを聞いた小学生の頃は河に生えているアシだのヨシだのという名前でなくてよかったと思ったものだった。
故郷を離れ、親、兄弟、親戚から離れての暮らしだった。言葉も慣習も違う。その土地の言葉を持ち、その土地の習慣の中で生きている人々の中にあって、私たち家族は「よそもの」であり、子どもごころにも違いやそこから生じる違和感をいつも感じていた。 その「よそもの」の意識のせいなのか、それとも父の信念の故か、父の育て方の中には、人と足並みをそろえるのではなく、より大きく、より広く、より高くといった理想のようなものがあったと思う。父は公平な視点は失っていなかったが何か高い理想のような、夢のようなものを内に持っていて、それを子育てのなかで実現させようとしていた節がある。幸い母親が小学校の教員をしていたため、子どもたちの教育係りは父の仕事となった。小学校から大学に至るまで、入学式について来たのは父。授業参観もよそのお母さんたちに混じっていつもいた。話しに聞けば、父の父もよく学校へ授業を見に来ていた教育パパだったらしい。これは血だ。父は私や弟、また近所の子たちを何かにつけて教育しようとかまえていて、ラジオ体操や子ども会のリクレーションといったところにはいつも出没した。読書感想文のコンクールや交通安全などのポスターのコンクール、夏休みの作品には子ども以上にファイトを燃やした。そんな熱心さにちょっといい迷惑気味なところも、子どもとしてはあったのである。
私が高校の入学を控えていた4月のはじめのある日のこと、父が意気揚々とパンフレットを持って帰った。それは中学生と高校生のカナダでのサマースクールのパンフレットだった。今はすっかり定着した海外夏期学校や海外体験学習は当時まだ珍しく、小さな田舎町ではなおさらのことだった。この話しを聞いた時にはうれしい気持ちを通り越して仰天した。余分なお金など無いので借金して行かせるというのである。なんだか気も重かった。しかし、父の言い分はこうである。「大人になって観光で外国に行っても、外国から学ぶことはあまり期待できない。まだ若い時に外国の空気を吸う必要がある。」と。私もあわてて、ラジオの英会話の番組を聞いたり、高校では英会話クラブに入ったりし準備を始めた。しかし、学校は良い顔をしなかった。その頃は受験体制が変な具合に強化されていて、高1だというのに、夏もお盆以外は夏期クラスがあったのである。その夏期クラスのほうが大事だと校長が言ったらしかった。父は学校に呼び出され、担任から説得されていたのを覚えている。父はこちらの方が大切だと主張て譲らず私ははらはらした。今思えば、父の夢にも似た思いがそこにあったのだろう。
父がカナダへ私を行かせたことは、すぐには英語の成績にも、英会話にも結びつかなかった。逆に私はカナダの高校生達と接触して、自分たちの課せられている受験勉強がどんなに意味のないものかと憤慨してしまったのである。大学受験を最重要視する学校や教師にわたしは反抗的になった。それでいて大学には進学したい。その矛盾に苦しんだ。その後しばらくは英語とも外国とも無関係に日々を送っていたが夫の海外赴任のため、アメリカで生活をするようになり、カナダでの体験がやっと繋がったのである。少しも好きではなかった英語が別の輝きをおびて迫ってきた。やがて英語は私にとって自分を表現するもうひとつの言葉となった。言葉を得ることは、またちがった自分を得ることになる。息子たちは親に付き合い、望まないままに2つの文化と2つの言葉の中で育ち、それ故の生きづらさも味わった。どうなることかと思ったが、一人目は最近バイリンガルとしての自分の立場に目覚めたようである。
大学一年生の長男は、ふとしたきっかけから、アメリカ人のジャーナリスト達が手掛けているプロジェクト(世界中の17才に彼らの夢を語らせるというもの)に通訳としてかかわった。はじめはただのアルバイトのつもりだったようだが、外国人記者クラブのメンバーであるそのジャーナリスト達は、息子がジャーナリスト志望だと知って、彼が自ら取材し、記事にする場を与えてくれた。つい先日、息子が書いた英文の記事が載った外国人記者クラブの発行する新聞が送られてきて驚いた。よくもまあ、ついこの前まで高校生だった息子を一人前に扱ってくれるものだと、彼等の懐の広さと育てようとする力の大きさに感動し、感謝もしたが、その新聞を手にした時、まず浮んだのは父だった。父がこのことを誰よりも喜ぶだろうと思ったからだ。父の夢のようなものが孫へとバトンタッチされている、とそんな気がしたのである。
エッセイ集、「父の12ヶ月 」のために
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