たりたの日記
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2004年12月25日(土) ふるさとのクリスマス

24日の日記を書くためにここを開くと時はすでに25日、クリスマスを迎えていました
クリスマスおめでとうございます。

携帯からは時を逆上って昨日の日付で日記を書くことができません。
けれどここに24日の事を書いておきましょう。

朝は予定通り6時に起き、夜明け前のまだ暗い別府の大通りを海岸の方に向かって10分ほど歩き さらに小さな路地を入ると、そこに昔ながらの竹瓦温泉がありました。ここは古い木造作りの昔ながらの温泉で、冷暖房はなし、入口は冬でも大きく開かれたままです。シャワーも蛇口もありません。たっぷりの熱いお湯の回りにはもう5、6人の人が一番風呂に入りに来ていました。いつもいらしてるんですかと尋ねると毎朝かかさず来ているということでした。土地の人の生活の中にしばし入れてもらったような気持ちでおばあちゃん達の話を聞きながら朝のお湯を楽しんだことでした。

この日は父に 合いに母と病院を訪ね、夜は子供の時から通っていた教会のキャンドルライトサービスに出かけました。なつかしい人達と再会し、いっしよに礼拝が守れて幸せなクリスマスイブでした。この事はまた後ほど詳しく。


ところで今日は心太日記の担当日です。
ここに掲載されたものを貼り付けておきます。



   心太日記 特別企画<豊かさについて> 12月25日




   暗闇の中で輝く光    

               たりたくみ



物が人間を豊かにするのではないことを
わたしたちはすでに知ってしまった。
この地上の豊かさの象徴のような
マンハッタンの空にそそり立つ巨大なビルが、
怒りの炎に包まれ崩れ落ちた時、
わたしたちはその豊かさの内部で膿み病んでいる
闇を思い知らされた。

今日も人が人を殺し、
人が自ら命を絶ったというニュースが報じられる。
子供も若者も、中高年者も老人も、
例外なく心の闇に捕えられる。
このように物が溢れている豊かな国の中であっても、
いえ、その物質的な豊かさが増すほどに、
人の心は萎え荒廃していく。

どのように人間が知恵と力を合わせても、
襲ってくる地震から身を守るすべのないことをわたしたちは知り、
自分の命がいつ終わりの時を迎えるのか、
わが身のことですら意のままにならないことを知っている。
わたしたちの命のなんと頼りないことだろう。

そんな中にあって、「豊かな世界を!」「豊かな未来を!」と、
豊かさを掲げたどのスローガンも空しく響く。
いったい豊かさとは何なのだろう。
果たして世界は、自分は豊かなのだろうか。
人は豊かに生きることがそもそも可能なのだろうか。
そのような問いかけが、押し殺したつぶやきのように、
あちらもこちらからも噴出しているように思える。

2004年前の今日
(正確にはちょうど2004年前の12月25日というわけではないが)、
ユダヤのベツレヘムという町の貧しい馬小屋の中で生まれ、
後に十字架に架けられ死んだイエス・キリストは、
その命をかけて人間に豊かさの提言をした。
彼は言う。貧しいものが幸いなのだと。
空の鳥や野の花のように明日のことを思い煩うことなく
今日という日を生きよと。
神と人とを愛することの中にほんとうの豊かさがあり、
神の国と義を求めるなら、他のことは添えて与えられると。
人々はその言葉の意味を解せずイエスを殺したが、
イエスという地に落ちた種は芽を出し、根を張り、広がって、
その言葉は今を生きるわたしたちにまで届き、
変わらぬ力を放つ。

クリスマス、この日イエスは光としてこの地上へ降りた。
人間の世界の闇を、個人の心の内の闇を照らす光としてここへ来た。
神自らが人となり、この闇の中を人と共に歩くために。
あなたはこの闇の中で手を差し伸べる
イエスの手の感触を知っているだろうか。

わたしにとっての豊かさは、キリストの内にあること。
その腕の中で呼吸し、その手を握り、明日がないかのように、
今日という日を今日の分だけ生きること。
生きることも死ぬこともすべてイエスの想いの中にあることを感じること。


初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
                 

(ヨハネによる福音書 1章1〜5節)


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