たりたの日記
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2018年01月20日(土) |
ゆるしの秘跡を受けた日 |
この日、3回目のマイクロ波温熱治療へ。 10時過ぎ、治療開始。これまでのように、患部が焼けるように熱くなる。しめしめ癌細胞が熱で悲鳴を上げているぞと思いつつ、手元のスイッチを時々切りながら熱さに耐える。
今日も新しい方々とお会いした。お一人の方は、骨にまで癌が達していて、かなりの痛みがあるらしい。本来なら、緩和ケアのベッドでモルヒネを投与されている段階なのだろう。けれども彼女は、モルヒネ漬けにはなりたくないと、可能な限り痛み止めを避け、こうして治療に来られているとのこと。 痛みで涙が出てくるのよ と涙を拭いていらっしゃるのだが、その気丈さに圧倒される。まさに戦士だ。果たして、私にはそういう選択ができるだろうか。 お別れする時は、頑張りましょうねとお互いに握手した。彼女への癒しを祈る。
治療の後、夫と共に四谷へ。 4月にカトリックに改宗してから、まだ、ゆるしの秘跡(告解)を受けておらず、この事についても充分理解していないので、新しい信者のためのフォローアップ 、ゆるしの秘跡についての講座に参加したのだった。
秘跡とは神の恵みの感覚的なしるしである。 カトリック教会では最低年に一度、「ゆるしの秘跡」に与る義務がある。それは義務ではあるが、ゆるしを確認するという恵みに与ること。 罪とは何か、それを他者との関係性から考える。罪とは愛が足りないこと、愛に反すること。 愛の本質はゆるしであり、ゆるされた後、和解が成立し、関係性が回復される。 愛が分かるから神が分かる。 全ての宗教の中でキリスト教のみ原罪という概念がある。原罪がなければ、キリストの十字架の救いもない事になる。 以上は、私がメモしたもの。
ゆるしの秘跡について学び、担当者と司祭による模擬告解を見せていただき、ゆるしの秘跡の受け方は分かった。 さて、後は実践のみ。 今日は夕方のミサの時間の前に告解の時間が設定されている。お御堂の告解室の脇には、すでに ゆるしの秘跡を受ける方々が多数並んで座っておられた。 私の場合、ミサには月に一度くらいしか来れないし、今後の体調次第では、ゆるしの秘跡を受ける機会を逃しかねない。 今ですね、やはり、とその列の最後に並ぶ。
自分の順番を待つ間、葛藤があった。 自分自身の罪の正体を知りながら、それを見ないように、また考えないようにしてきた。いいカッコしいの私が、模範的な信徒でありたいと子どもの頃からそれらしく振舞ってきた私が、果たして司祭の前で罪の告白ができるものだろうか。しかも、今日の告解担当の司祭は、これまで何度か面接も受けてきた指導司祭のようだ。罪の告白をするのなら、わたしの事を何も知らず、これからも個人的に顔を合わせる事もない司祭が気が楽だと思ってきたので担当司祭の姿をお見かけした時には正直慌てた。順番を待つ間、緊張は高まっていた。 さて、わたしの順番。初めて告解室に入る。
罪の告白。 わたしがそれを語っているというより、語らされている感覚があった。 話ながら、その事がわたしにとって語るべき事だという事がよく分かった。
司祭からの助言や勧めがあり、償いが指示された。顔を上げる事ができないまま、涙と共に、ただ何度も頷きながらそれらの言葉をいただいた。
「悔い改めの祈り」を唱え、司祭から「罪のゆるし」をいただく。
だから告解は秘跡なのか。 秘跡、この感覚的なしるしを体験することで、初めて ゆるしの秘跡が何であるのか理解することができた。 神との、そして人との関係の回復。わたし自身との関係もまた。 わたしにとっては、とても大きな出来事だった。
わたしに与えられた償いは マタイによる福音書5章3節からの部分を読み、5分間の黙想をするというものだった。
子どもの頃から何度も読み、聞いてきた、このイエスの言葉への出会い直しの機会をいただいた。 わたしはその言葉のほんとうのところ、それを語ったイエスの想いにまで到達していないが、それらがどれほど深いものであるかは朧げに感じてきた。 一日にひとつずつその言葉を心に留め、思い巡らす事にしよう。
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「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
<マタイによる福音書 5章3節ー12節>
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