たりたの日記
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2018年02月14日(水) |
ちりから出てちりに帰る〜灰の水曜日の今日 |
今日、四旬節(受難節)の始まりの日、 「灰の水曜日」 灰の水曜日のミサに出てれば、司祭が、 「あなたはちりから出たのだからちりに帰ってゆくのです」と言った言葉と共に、黒々とした灰を手に取り、額に十字架を施してくれる。 私は、この儀式が好きだ。 ちりに帰るという言葉も。
今日は遠出は避けておいた方が無難なので、 ミサに出るのはあきらめ、ひとり灰の水曜日をやった。 まず灰作り。 去年の「枝の主日」にいただいた棕櫚の葉と、その前の年の棕櫚の葉を缶の中で燃やし、灰を作って、額に十字架の印を施したりと、これは儀式とは言えない、ただの真似事だけど、自分で灰を作ったことはよかった。
それから、灰の水曜日に歌われるグレゴリオ聖歌をひと通り、youtubeで探しながら、どこかの国の修道士の方々の歌に合わせて歌う。
午後からは、BSプレミヤムで放送されていた映画、『奇跡の丘』を見る。この映画は1964年公開のパゾリーニ監督によるイタリア・フランス合作映画。マタイによる福音書を忠実に映画にしたもので、脚本はテキスト通りでひねりも固有な解釈もなかったが、詩人でもあったパゾリーニ監督の作品だからか、映像は美しく詩的で印象的だった。 そして音楽、とりわけ、黒人女性シンガー オデッタの歌う「黒人霊歌」(曲目は「時には母のない子のように」ではないかしら)は意表を突いていたけれど、不思議な効果をもたらしていた。録画していたから、もう一度、詳しく観てみたい。
もうひとつ。 灰の水曜日 のことについて調べていたら、 T.S. エリオット が 「灰の水曜日」という長い詩を書いている事を知った。 書き出しのところから、好きな詩だと思った。
書き出しの部分のさらにその一部だが、ここに載せておくことにしよう。
Ash-Wednesday
by T S Eliot
Because I know that time is always time And place is always and only place And what is actual is actual only for one time And only for one place I rejoice that things are as they are and I renounce the blessed face And renounce the voice Because I cannot hope to turn again Consequently I rejoice, having to construct something Upon which to rejoice
T.S. エリオット 「灰の水曜日」より
わたしは、時はいつでも時であり、場所はいつでも 場所であり、ただそれだけだと知っているから また、現実とは、ほんの一度だけ、一つの場所においてだけ 現実であると知っているから わたしは物ごとが今あるままにあることを喜び あの祝福された顔をあきらめ あの声をあきらめる わたしは振り返ることを望むことはできぬから だからこそわたしは歓ぶ、歓びの礎となるものを 築かねばならぬことを
詩、訳詩の引用はこちらのブログから http://poesia.exblog.jp/amp/17553839/
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