TENSEI塵語

2002年11月28日(木) 定期考査の害

きょうから期末考査が始まった。
採点に追われないうちは、わりとのんびり過ごせるありがたい期間である。
私の担当のテストは来週の月曜日と最終の水曜日にあるので、
日曜日までは採点させてもらえず、のんびり過ごすしかないことになる。
この採点の仕事がここ20年近くの間、イヤでたまらなくなっているので、
のんびりの後には、地獄的な数日間が待っていることになる。
毎度のことながら、「テストのない国に行きたい」と、
昔から受ける側の決まり文句だった言葉を、受けさせる側も叫ぶことになるのである。

実際、試験を作るところから、時間に追われて採点するのはかなりの労苦なのである。
定時制にいた2年間は生徒が少なかったので、この仕事もまだ楽しく思われた。
全日制にかわったら、毎回膨大な採点攻めで、1年もしないうちにイヤになった。
その前任校では、5回の定期考査の合間に、課題考査・実力考査が入っていて、
特に国・数・英の3科目はそこから抜けることがない。
年間に10回も一斉テストがあるということは、ほぼ月1回のペースである。
ひとつの試験の処理をひーひー言って終えたと思ったら、
数日の後には、次の試験の準備をしなければならないようなペースである。
教員の側から言っても試験地獄と言いたくなるような状態である。

試験を行う意義が、「成績を出すため」という一面に凝り固まりがちである。
特に生徒の意識がそうなりがちで、勉強しないのに成績だけは気になる、
ひどくなると、あてずっぽうの馬券買いのように一喜一憂する生徒が増えている。
確かにその成績は、就職にも進学にも進級判定にも利用されるようになるわけで、
生徒の気力を少しでも上げるために、教師も成績云々を強調する羽目になるのだが、
定期考査は本来、ある期間の学習内容を復習する機会である。
長年試験試験で振り回されていると、生徒だけでなく、教師もそれを見失いがちになる。
成績を出すためだけだったら、やはりこの労苦はばかばかしい。
こういう試験に頼るよりも、毎時間何らかの提出物を課して、
その提出状況や内容で、日々の活動のみで判定したいものである。
(これはこれで大変な労苦であるが、実に正直で実質的なものである)
しかし、一定期間の授業を1度しっかり復習し直してほしいと思えば、
そのための緊張を伴った状況作りのために、定期考査は有効な手段であると言える。
合格点など、改善したいところはいくらかあるけれども。。。

しかし、「世の中に絶えて試験のなかりせば」と言いたくなる要因は、
問題作りや採点の労力のためばかりでなく、まだ他にもあるのである。
たとえば、先日までのSの長欠の際、もっとも頭を悩ませる大元にあったのは、
試験はどうするんだ〜? という問題であった。
試験が学年統一であれ、担当教師独自のものであれ、定期一斉テストの形式は、
授業の進行をさまざまに拘束するのである。
試験のためにこれだけやっておかなきゃならないとか、
ここまで進んでおかなきゃならないとか、そういう制約に縛られることになる。

さらには、学力も学習意欲も低い生徒が集まっているところだと、
試験で生徒が答えやすい問題を想定した上で、そこから授業内容を考え、
授業をしっかり受けて復習すれば試験に対処しやすいように授業を進めねばならない。
国語のような教科では、きわめて曖昧な上に範囲の定かでない領域を扱っているので、
こうした配慮が特に必要になってくるのである。
こういう配慮をしていると、確かに真面目な生徒には歓迎される。
この辺がわかりにくいと、真面目な生徒でも途方に暮れてなすすべを失う。
けれども、そうした配慮が、かえって授業内容をつまらなくさせているのである。

これは、きょう試験監督をしながら思いついてメモしたことを基に書いた。
定期考査から脱却したい、脱却せねば、と長年思いながら、
それはまったくもって容易なことではないのである。


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